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第五十七章 退く武田、追わぬ織田

第五十七章 退く武田、追わぬ織田


武田の旗が、少しずつ後ろへ下がっていく。


最初は一つ。


次に二つ。


やがて中央全体が、ゆっくりと後退を始めた。


それは敗走ではなかった。


少なくとも、まだ。


山県昌景が前面に残り、内藤昌豊が後方をまとめている。


西では馬場信春が明智隊との距離を保ちながら兵を引かせ、東では穴山信君が騎馬と足軽をまとめていた。


さらに後ろでは高坂昌信が伝令を飛ばしている。


「道を空けろ!」


「負傷兵を先に!」


「騎馬を右へ!」


「旗を倒すな!」


命令が飛び交う。


武田兵の中には、すでに足が震えている者もいた。


「もう駄目だ……」


「まだだ!」


隣の兵が怒鳴る。


「山県様が前にいる!」


「馬場様もいる!」


「ならば歩け!」


一人の兵が転んだ。


足を負傷していた。


別の兵が腕を掴む。


「立て!」


「無理だ……」


「置いていくぞ!」


「……嫌だ!」


兵は歯を食いしばって立った。


戦場から離れる。


ただ、それだけのことが、今は難しかった。


---


山県昌景は、後ろを振り返った。


武田中央の兵が、少しずつ戻っている。


だが織田は追ってこない。


「……追わぬか」


山県は目を細めた。


普通なら、ここで追撃を仕掛ける。


敵が崩れたのなら、さらに押す。


それが戦だ。


だが高槻は違った。


「山県様」


内藤昌豊が近づく。


「織田が追ってきません」


「分かっている」


山県は前を見た。


遠くに織田の旗が並んでいる。


「高槻だな」


「おそらく」


「……最後まで嫌な男だ」


山県は笑わなかった。


追ってこないということは、武田に退路を与えている。


だが同時に――


武田がもう戦場を取り戻せないことも理解している。


---


織田中央。


丹羽長秀は武田の後退を確認していた。


「下がっています」


伝令が言う。


「追撃は?」


「まだありません」


丹羽は宗一郎を見る。


宗一郎は望遠鏡を下ろした。


「追わない」


「はい」


「負傷兵の収容を優先する」


丹羽は頷いた。


「承知しました」


命令が飛ぶ。


「追撃禁止!」


「前線を維持!」


「負傷者を後方へ!」


「弾薬を確認!」


織田兵の中には不満を口にする者もいた。


「逃げているぞ!」


「今なら追える!」


だが、隊長たちは止めた。


「命令だ!」


「持ち場を離れるな!」


「武田を追うな!」


それでも、兵の目には明らかな変化があった。


先ほどまで怯えていた目が違う。


勝てる。


そう思い始めている。


戦場では、それだけで大きな違いになる。


---


東。


柴田勝家は武田騎馬隊の後退を見ていた。


「……行けそうだな」


家臣が叫ぶ。


「勝家様、追撃を!」


柴田は一瞬、槍を握った。


確かに追える。


武田騎馬隊は傷ついている。


土屋昌続を失った。


隊列にも隙がある。


だが――


「追わん」


家臣が驚く。


「なぜです!」


柴田は中央を見る。


「高槻が止めている」


「しかし――」


「それだけじゃねえ」


柴田は武田の後方を見た。


「山県がいる」


その名を口にした瞬間、家臣も黙った。


山県昌景。


まだ生きている。


そしてその兵は、まだ整っている。


「追えば、あいつが振り返る」


柴田は低く言った。


「そうなれば、こっちも血を流す」


そして槍を下ろした。


「勝てる時に、勝ちを確実にする」


それが柴田の判断だった。


---


滝川一益も同じだった。


「騎馬隊、止まれ!」


武田騎馬隊が遠ざかる。


「あと少しで食いつけます!」


部下が叫ぶ。


「だから止まる」


滝川は答えた。


「敵の後ろには、まだ高坂がいる」


「高坂昌信……」


「ああ」


滝川は馬上から戦場を見る。


武田の後方には、まだ一定の間隔で旗が並んでいる。


「撤退路を守っている」


滝川は呟いた。


「追えば、こちらが逆に引っ張られる」


そして馬首を返した。


「戻るぞ」


---


西。


明智光秀は、馬場信春を見ていた。


武田左翼は、見事だった。


馬場は兵を急かさない。


「ゆっくり下がれ!」


「隣と離れるな!」


「旗を見失うな!」


兵が一列ずつ下がる。


明智隊が少し前へ出る。


馬場は止まる。


「弓!」


矢が飛ぶ。


明智兵が一歩下がる。


馬場隊もまた下がる。


互いに、相手の動きを見ながら距離を保つ。


光秀は感心した。


「……見事だ」


家臣が言う。


「追いますか?」


「追わない」


「しかし、敵は退いております」


「だからこそだ」


光秀は静かに答えた。


「馬場信春は、逃げているのではない」


その視線の先。


馬場は最後尾の兵を確認している。


「我々を近づけないために、戦っている」


光秀はそれ以上追わなかった。


---


羽柴秀吉は中央左翼で武田の撤退を見ていた。


「ずいぶん綺麗に退くな」


家臣が笑う。


「敗軍とは思えません」


「敗軍だよ」


秀吉は答えた。


「ただし、強い敗軍だ」


「追撃は?」


「しない」


秀吉は即答した。


「高槻殿がそう考えている」


「なぜ分かるのです?」


秀吉は戦場を見る。


「追わせる必要がないからだ」


武田の旗。


武田の兵。


武田の騎馬。


その全てが、少しずつ戦場から離れていく。


秀吉は目を細めた。


「今日の戦で、武田が一番失ったものは兵じゃねえ」


「では?」


「主導権だ」


---


そして。


本陣。


信玄は座っていた。


立っていることさえ、今は辛い。


「……水を」


側近が差し出す。


信玄は一口だけ飲んだ。


だが、その直後。


胸が痛む。


「……っ」


また咳が出る。


布を口に当てる。


赤い。


側近が顔を曇らせる。


「お館様」


「何だ」


「このままでは……」


信玄は答えなかった。


戦場を見る。


織田軍は追ってこない。


武田は退いている。


その事実を、信玄は認めざるを得なかった。


「……負けたか」


誰にも聞こえないほど小さな声だった。


側近は何も言わなかった。


信玄は続ける。


「いや」


目を細める。


「戦に負けた」


一度言葉を切る。


「だが、武田が負けたわけではない」


それだけは、譲らなかった。


---


その時。


山県昌景から伝令が届いた。


「お館様!」


信玄が顔を上げる。


「中央、撤退路確保」


「損害は?」


伝令が一瞬言葉を詰まらせる。


「……原昌胤殿、討死」


信玄は目を閉じた。


「土屋昌続殿も……」


長い沈黙。


「……そうか」


「ですが、山県様、内藤様、馬場様、穴山様、高坂様は健在です」


信玄は頷いた。


「ならば、まだ戦える」


だがその言葉と同時に、胸が痛んだ。


信玄は再び布を口へ当てた。


今度は血が多かった。


「お館様!」


「騒ぐな……」


信玄は血の付いた布を見た。


「……これを誰にも見せるな」


「しかし――」


「命令だ」


側近は頭を下げるしかなかった。


---


戦場。


武田の撤退は続いていた。


山県昌景が最後尾を支える。


内藤昌豊が負傷兵をまとめる。


馬場信春が西側を守る。


穴山信君が東の部隊を整理する。


高坂昌信が後方への道を確保する。


それぞれが、自分の役目を果たしていた。


武田軍は崩壊しなかった。


しかし――


一度失った流れは、簡単には戻らない。


織田軍は追わない。


それでも、前へ出ている。


武田は下がる。


織田は追わずに戦場を占める。


その差は大きかった。


戦場の中央に残された武田の旗が、一つ、また一つと消えていく。


やがて。


武田軍の最後尾が丘の向こうへ消えた。


静かになった。


完全な静寂ではない。


呻き声がある。


負傷者を運ぶ声がある。


火縄の煙が残っている。


土には血が染みている。


折れた槍。


割れた盾。


落ちた旗。


そして、二つの武田の旗。


原昌胤。


土屋昌続。


宗一郎はそれを見ていた。


「……終わった」


丹羽が隣に立つ。


「はい」


「追撃しなかったのは正解だった」


「私もそう思います」


宗一郎は武田が消えた方向を見る。


「ただし」


丹羽が顔を向ける。


「これは武田との戦いの終わりじゃない」


宗一郎は静かに言った。


「始まりだ」


遠く。


武田本陣の方向へ目を向ける。


その先には、まだ信玄がいる。


そして宗一郎には分かっていた。


今日の戦で、武田は負けた。


だが――


武田信玄という男は、この程度で終わる男ではない。


問題はただ一つ。


今日、信玄自身の身体に起きた異変。


それが、この先の武田に何をもたらすのか。


宗一郎はまだ知らなかった。

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