↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
60/80

第五十六章 遅れた旗

第五十六章 遅れた旗


武田の中央が、さらに前へ出た。


その動きを見た高槻宗一郎は、望遠鏡から目を離さなかった。


「……来る」


隣にいた丹羽長秀が戦場を見る。


「武田の中央、かなり深く入りました」


「ああ」


宗一郎は短く答えた。


「だから、ここからだ」


中央の織田・徳川勢は、一歩下がった。


さらに一歩。


だが、崩れてはいない。


隊列を保ったまま、武田を誘い込む。


その一方で東では柴田勝家が動かず、西では明智光秀も森の出口を離れない。


武田中央だけが、前へ出ている。


宗一郎の狙いはそこだった。


---


武田本陣。


山県昌景は、前方を睨んでいた。


「……中央が深すぎる」


隣にいた内藤昌豊が頷く。


「左右との間が開いております」


山県はすぐに伝令を呼んだ。


「中央へ伝えろ。これ以上、深く入りすぎるな」


しかし、その命令が届く前に、武田本陣から別の命令が飛んだ。


「中央をさらに押せ!」


山県が振り返る。


「誰の命だ?」


「お館様です!」


山県は一瞬黙った。


そして前を見る。


「……承知した」


信玄の命令である以上、従うしかない。


だが、山県の胸には小さな違和感が残った。


---


武田本陣。


信玄は戦場を見ていた。


中央が押している。


織田は下がっている。


東の柴田は動かない。


西の明智も大きくは動かない。


それだけを見れば、中央突破の好機に見えた。


「中央を押せ」


信玄は命じた。


「左右は、まだ動かすな」


側近が一礼する。


その判断自体は間違いではなかった。


敵中央が下がっている以上、そこへ圧力を集中するのは合理的だった。


しかし――


信玄の身体が、その瞬間に異変を訴えた。


「……っ」


胸の奥が締め付けられる。


信玄は眉を寄せた。


手が自然に胸元へ向かう。


「お館様?」


「……何でもない」


そう答えた直後だった。


激しい咳が出た。


「げほっ……!」


身体が前へ折れる。


側近が支えようとする。


「お館様!」


「触るな……!」


信玄は手で制した。


しかし咳は止まらない。


「げほっ……!」


口元を押さえた布に、赤いものが滲んだ。


血だった。


側近の顔から血の気が引く。


「吐血……」


「騒ぐな」


信玄は布を握り締めた。


「兵に見せるな」


「しかし、お館様――」


「戦場を見よ」


信玄は顔を上げた。


「儂の身体を見るな」


その言葉には、まだ強い意志があった。


だが――


判断が止まった。


ほんの数十息。


信玄は呼吸を整えることに時間を使った。


その間にも戦場は動いていた。


---


中央。


原昌胤は、自ら兵を率いていた。


「押せ!」


武田兵が織田の第一線へ突っ込む。


鉄砲が鳴る。


一発。


二発。


三発。


武田兵が倒れる。


だが原は止まらない。


「前へ!」


織田の第一線が下がる。


原はそれを見て叫んだ。


「押し込め!」


武田兵が勢いに乗る。


しかし、その先に丹羽長秀の第二線が待っていた。


「第一列、下がれ!」


織田兵が後退する。


「第二列!」


新たな槍兵が前へ出る。


その後ろで鉄砲隊が装填を終える。


「撃て!」


轟音。


原隊の前列が崩れた。


「怯むな!」


原昌胤は刀を抜いた。


「俺に続け!」


武田兵が続く。


その姿を見て、織田兵も息を呑んだ。


強い。


武田はまだ強い。


一人の武将が前に立つだけで、兵の足が止まらない。


「来るぞ!」


「槍を合わせろ!」


武田と織田がぶつかった。


---


丹羽長秀は、その戦いを見ていた。


「原昌胤か」


家臣が頷く。


「武田の重臣です」


「ならば、あれを止める」


丹羽は命じた。


「第一線は無理に押すな」


「はい」


「原隊を中央へ引きつけろ」


丹羽の意図は明確だった。


原を倒すことだけが目的ではない。


原隊をここに釘付けにする。


その間に東西から圧力を加える。


---


東。


柴田勝家は武田騎馬隊を睨んでいた。


その向こうに土屋昌続の隊が見える。


土屋は騎馬隊の一角をまとめ、中央突破を助けるため内側へ向かおうとしていた。


「土屋が来るぞ!」


柴田が叫ぶ。


「滝川!」


「見えている!」


滝川一益が馬を走らせた。


武田騎馬隊が速度を上げる。


土屋昌続が叫んだ。


「中央を助ける!」


騎馬が一斉に走る。


柴田隊が槍を構える。


「来い!」


騎馬隊がぶつかった。


馬が嘶く。


槍が折れる。


兵が吹き飛ぶ。


土屋は自ら先頭に出ていた。


「押せ!」


武田騎馬隊が柴田隊を押す。


柴田が一歩下がる。


「勝家様!」


「まだだ!」


柴田は槍を握り直す。


「滝川が回るまで待て!」


その瞬間、側面から滝川隊が突っ込んだ。


「土屋隊の横だ!」


武田騎馬隊が慌てて向きを変える。


土屋は気付いた。


「散れ!」


だが、遅かった。


柴田隊が正面から押す。


滝川隊が側面から入る。


土屋隊の隊列が二つに割れた。


土屋昌続は馬上で刀を振るった。


一人。


二人。


三人。


織田兵を退ける。


「土屋様!」


家臣が叫ぶ。


「中央へ戻ります!」


「戻れ!」


土屋が叫ぶ。


その瞬間だった。


柴田隊の槍が馬の前脚へ向かう。


馬が大きく跳ねた。


土屋の身体が傾く。


地面へ落ちた。


起き上がろうとしたところへ、織田兵が殺到する。


土屋は刀を振った。


一人を斬る。


だが、二本目の槍が脇腹へ入った。


「……ぐっ」


土屋昌続は膝をついた。


「土屋様!」


「……中央を……」


それだけを言い残し、倒れた。


土屋昌続。


討死。


武田の旗が一つ、東の戦場で倒れた。


---


「土屋が討たれた!」


その声が武田兵の間を走る。


柴田勝家は倒れた旗を見た。


「……滝川!」


「分かっている!」


滝川は追わない。


「騎馬隊を中央へ戻させるな!」


柴田も頷いた。


「ここで止める!」


二人はそれぞれの隊を動かした。


武田騎馬隊は、中央へ戻れない。


その事実が、武田中央をさらに孤立させていく。


---


西。


明智光秀は武田左翼を見ていた。


馬場信春が兵をまとめている。


「馬場信春……」


光秀が呟いた。


「やはり、あそこは簡単には崩れない」


武田左翼は動かない。


馬場が前へ出て兵を叱咤する。


「慌てるな!」


「明智を押し返せ!」


「中央を気にするな!」


馬場は理解していた。


中央が危ないからといって、左翼まで動けば全軍が崩れる。


だからこそ、自分たちがここを支える。


光秀も、それを読んでいた。


「無理に抜くな」


家臣が頷く。


「はい」


「馬場をこちらへ釘付けにする」


「中央へ戻させない」


「そうだ」


鉄砲が鳴った。


武田兵が倒れる。


馬場は前へ出る。


「進め!」


武田兵が押す。


明智隊が一歩下がる。


だが、崩れない。


光秀は笑わなかった。


ただ、静かに呟いた。


「強いな」


---


その頃、秀吉は中央左側へ入り込んでいた。


「ここだ」


羽柴隊が武田の側面を叩く。


武田兵が振り返る。


「左だ!」


「敵が回っている!」


秀吉は無理に深く入らない。


一撃。


離れる。


また一撃。


武田の隊列が向きを変えるたび、中央正面の兵が薄くなる。


「今!」


羽柴隊が突く。


武田兵が押し返す。


秀吉はすぐ退く。


「追わせるな!」


武田が追う。


そこへ丹羽の鉄砲が鳴る。


「撃て!」


武田兵が倒れる。


秀吉は笑った。


「そうだ。それでいい」


武田を殺すことではない。


武田自身に隊列を崩させる。


---


中央では原昌胤がなお戦っていた。


だが、兵の数が減っている。


周囲を見る。


東から柴田。


西から秀吉。


正面には丹羽。


後ろには織田の第二線。


「……まずい」


原が初めて呟いた。


中央突破のはずだった。


なのに、いつの間にか自分たちが三方向から押されている。


「退くぞ!」


原が叫ぶ。


しかし、その声はすべての兵には届かなかった。


鉄砲。


太鼓。


怒号。


伝令の死。


旗の倒壊。


戦場は命令を飲み込んでいく。


原隊の一部が前へ出る。


一部が後ろへ下がる。


その瞬間――


丹羽が見逃さなかった。


「今だ!」


織田槍隊が前へ出る。


原は刀を振るった。


だが、横から槍が入った。


「ぐっ……!」


一度目を避ける。


二度目。


三度目。


四本目の槍が、原昌胤の胸を貫いた。


「原様!」


原の身体が崩れる。


旗が倒れた。


「原昌胤、討ち取った!」


その声が中央に響く。


---


武田本陣。


その報告が届いた。


「原昌胤、討死!」


信玄は目を閉じた。


一瞬だった。


だが、その直後。


胸にまた激痛が走った。


「……!」


信玄が膝をつく。


「お館様!」


側近が支える。


信玄は咳き込んだ。


布が赤く染まる。


「……原まで」


声が掠れた。


「土屋昌続も……」


「はい」


信玄は戦場を見る。


東。


土屋の旗がない。


中央。


原の旗もない。


その間を、織田の旗が埋めている。


「……判断が」


信玄は言葉を止めた。


自分が遅れた。


僅かな時間。


ほんの一瞬。


それが戦場を変えた。


「撤退を……」


側近が聞き返す。


「撤退を?」


信玄は目を開いた。


「……まだだ」


だが、その声には迷いがあった。


そして、その迷いこそが――


さらに時間を奪った。


---


宗一郎は望遠鏡を下ろした。


「原昌胤、討ち取った」


丹羽が頷く。


「土屋昌続もです」


宗一郎は戦場を見る。


「武田の中央が、明らかに揺れた」


「追いますか?」


「いや」


宗一郎は首を振った。


「まだ追うな」


「なぜです?」


「山県昌景がいる」


宗一郎は武田中央の奥を見る。


山県昌景。


そして内藤昌豊。


西には馬場信春。


後方には高坂昌信。


さらに東には穴山信君。


武田にはまだ、軍をまとめられる人間が残っている。


「ここで欲を出せば、逆に食われる」


宗一郎は言った。


「だから、圧力だけをかける」


丹羽が頷く。


「包囲を維持する」


「そうだ」


宗一郎は各隊へ命令を送った。


柴田には東を維持。


滝川には騎馬隊の牽制。


明智には西を固定。


秀吉には中央左を圧迫。


丹羽には中央を保持。


そして――


「俺たちは、逃げ道を残す」


---


武田中央。


山県昌景は倒れた二つの旗を見た。


原昌胤。


土屋昌続。


「……二人も失ったか」


内藤昌豊が言う。


「中央を戻しましょう」


山県は頷いた。


「そうする」


その時、伝令が来た。


「お館様より、中央撤退の命です!」


山県は目を閉じた。


ようやく来た。


だが――


遅かった。


すでに武田中央は深く入り込み、東西の支援から切り離されている。


山県はすぐに判断した。


「内藤」


「はい」


「俺が前を押さえる」


「では私は後ろを」


「頼む」


二人は同時に動いた。


武田軍は、崩走を始めたのではない。


撤退戦を始めた。


そこが武田の強さだった。


---


馬場信春も動いた。


「中央を戻せ!」


武田左翼が少しずつ後退する。


明智光秀は、それを見て追わなかった。


「追撃は不要」


家臣が驚く。


「逃がしますか?」


「逃がす」


光秀は答えた。


「今の武田は、逃げるために戦っている」


そして、戦場中央を見る。


「それを追えば、こちらが崩れる」


---


東でも柴田が叫んだ。


「追うな!」


武田騎馬隊が後退していく。


滝川が横から圧力をかける。


しかし柴田は、それ以上踏み込まなかった。


「十分だ」


「勝家様?」


「武田の牙はまだ抜けてねえ」


柴田は倒れた土屋の旗を見た。


「こっちが欲を出せば、今度は俺たちが噛まれる」


---


中央。


秀吉は武田の動きを見ていた。


「退き始めたか」


家臣が頷く。


「追いますか?」


「追わん」


秀吉は即答した。


「高槻殿の命令もある」


秀吉は少し笑った。


「それに、あの武田が逃げるだけで終わるとは思えん」


---


宗一郎は戦場全体を見た。


武田は退き始めている。


まだ整然としている。


山県が前を支え。


内藤が後方をまとめ。


馬場が左を守り。


穴山が東側を整理し。


高坂が後方との連絡を繋ぐ。


それでも――


戦の流れは、もう戻らない。


原昌胤。


土屋昌続。


二人の旗が消えたことで、武田兵は明確に理解していた。


今日、この戦場を支配しているのは織田だ。


宗一郎は望遠鏡を下ろした。


「……勝った、とはまだ言わない」


丹羽が頷く。


「はい」


「だが」


宗一郎は武田本陣を見る。


「流れは、こちらに来た」


その頃、武田本陣では。


信玄が再び胸を押さえていた。


血の付いた布を握りしめながら、それでも戦場から目を逸らさない。


「……まだ終わっておらぬ」


しかし、その言葉とは裏腹に。


武田軍は、少しずつ。


少しずつ。


織田から離れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。