第五十六章 遅れた旗
第五十六章 遅れた旗
武田の中央が、さらに前へ出た。
その動きを見た高槻宗一郎は、望遠鏡から目を離さなかった。
「……来る」
隣にいた丹羽長秀が戦場を見る。
「武田の中央、かなり深く入りました」
「ああ」
宗一郎は短く答えた。
「だから、ここからだ」
中央の織田・徳川勢は、一歩下がった。
さらに一歩。
だが、崩れてはいない。
隊列を保ったまま、武田を誘い込む。
その一方で東では柴田勝家が動かず、西では明智光秀も森の出口を離れない。
武田中央だけが、前へ出ている。
宗一郎の狙いはそこだった。
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武田本陣。
山県昌景は、前方を睨んでいた。
「……中央が深すぎる」
隣にいた内藤昌豊が頷く。
「左右との間が開いております」
山県はすぐに伝令を呼んだ。
「中央へ伝えろ。これ以上、深く入りすぎるな」
しかし、その命令が届く前に、武田本陣から別の命令が飛んだ。
「中央をさらに押せ!」
山県が振り返る。
「誰の命だ?」
「お館様です!」
山県は一瞬黙った。
そして前を見る。
「……承知した」
信玄の命令である以上、従うしかない。
だが、山県の胸には小さな違和感が残った。
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武田本陣。
信玄は戦場を見ていた。
中央が押している。
織田は下がっている。
東の柴田は動かない。
西の明智も大きくは動かない。
それだけを見れば、中央突破の好機に見えた。
「中央を押せ」
信玄は命じた。
「左右は、まだ動かすな」
側近が一礼する。
その判断自体は間違いではなかった。
敵中央が下がっている以上、そこへ圧力を集中するのは合理的だった。
しかし――
信玄の身体が、その瞬間に異変を訴えた。
「……っ」
胸の奥が締め付けられる。
信玄は眉を寄せた。
手が自然に胸元へ向かう。
「お館様?」
「……何でもない」
そう答えた直後だった。
激しい咳が出た。
「げほっ……!」
身体が前へ折れる。
側近が支えようとする。
「お館様!」
「触るな……!」
信玄は手で制した。
しかし咳は止まらない。
「げほっ……!」
口元を押さえた布に、赤いものが滲んだ。
血だった。
側近の顔から血の気が引く。
「吐血……」
「騒ぐな」
信玄は布を握り締めた。
「兵に見せるな」
「しかし、お館様――」
「戦場を見よ」
信玄は顔を上げた。
「儂の身体を見るな」
その言葉には、まだ強い意志があった。
だが――
判断が止まった。
ほんの数十息。
信玄は呼吸を整えることに時間を使った。
その間にも戦場は動いていた。
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中央。
原昌胤は、自ら兵を率いていた。
「押せ!」
武田兵が織田の第一線へ突っ込む。
鉄砲が鳴る。
一発。
二発。
三発。
武田兵が倒れる。
だが原は止まらない。
「前へ!」
織田の第一線が下がる。
原はそれを見て叫んだ。
「押し込め!」
武田兵が勢いに乗る。
しかし、その先に丹羽長秀の第二線が待っていた。
「第一列、下がれ!」
織田兵が後退する。
「第二列!」
新たな槍兵が前へ出る。
その後ろで鉄砲隊が装填を終える。
「撃て!」
轟音。
原隊の前列が崩れた。
「怯むな!」
原昌胤は刀を抜いた。
「俺に続け!」
武田兵が続く。
その姿を見て、織田兵も息を呑んだ。
強い。
武田はまだ強い。
一人の武将が前に立つだけで、兵の足が止まらない。
「来るぞ!」
「槍を合わせろ!」
武田と織田がぶつかった。
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丹羽長秀は、その戦いを見ていた。
「原昌胤か」
家臣が頷く。
「武田の重臣です」
「ならば、あれを止める」
丹羽は命じた。
「第一線は無理に押すな」
「はい」
「原隊を中央へ引きつけろ」
丹羽の意図は明確だった。
原を倒すことだけが目的ではない。
原隊をここに釘付けにする。
その間に東西から圧力を加える。
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東。
柴田勝家は武田騎馬隊を睨んでいた。
その向こうに土屋昌続の隊が見える。
土屋は騎馬隊の一角をまとめ、中央突破を助けるため内側へ向かおうとしていた。
「土屋が来るぞ!」
柴田が叫ぶ。
「滝川!」
「見えている!」
滝川一益が馬を走らせた。
武田騎馬隊が速度を上げる。
土屋昌続が叫んだ。
「中央を助ける!」
騎馬が一斉に走る。
柴田隊が槍を構える。
「来い!」
騎馬隊がぶつかった。
馬が嘶く。
槍が折れる。
兵が吹き飛ぶ。
土屋は自ら先頭に出ていた。
「押せ!」
武田騎馬隊が柴田隊を押す。
柴田が一歩下がる。
「勝家様!」
「まだだ!」
柴田は槍を握り直す。
「滝川が回るまで待て!」
その瞬間、側面から滝川隊が突っ込んだ。
「土屋隊の横だ!」
武田騎馬隊が慌てて向きを変える。
土屋は気付いた。
「散れ!」
だが、遅かった。
柴田隊が正面から押す。
滝川隊が側面から入る。
土屋隊の隊列が二つに割れた。
土屋昌続は馬上で刀を振るった。
一人。
二人。
三人。
織田兵を退ける。
「土屋様!」
家臣が叫ぶ。
「中央へ戻ります!」
「戻れ!」
土屋が叫ぶ。
その瞬間だった。
柴田隊の槍が馬の前脚へ向かう。
馬が大きく跳ねた。
土屋の身体が傾く。
地面へ落ちた。
起き上がろうとしたところへ、織田兵が殺到する。
土屋は刀を振った。
一人を斬る。
だが、二本目の槍が脇腹へ入った。
「……ぐっ」
土屋昌続は膝をついた。
「土屋様!」
「……中央を……」
それだけを言い残し、倒れた。
土屋昌続。
討死。
武田の旗が一つ、東の戦場で倒れた。
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「土屋が討たれた!」
その声が武田兵の間を走る。
柴田勝家は倒れた旗を見た。
「……滝川!」
「分かっている!」
滝川は追わない。
「騎馬隊を中央へ戻させるな!」
柴田も頷いた。
「ここで止める!」
二人はそれぞれの隊を動かした。
武田騎馬隊は、中央へ戻れない。
その事実が、武田中央をさらに孤立させていく。
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西。
明智光秀は武田左翼を見ていた。
馬場信春が兵をまとめている。
「馬場信春……」
光秀が呟いた。
「やはり、あそこは簡単には崩れない」
武田左翼は動かない。
馬場が前へ出て兵を叱咤する。
「慌てるな!」
「明智を押し返せ!」
「中央を気にするな!」
馬場は理解していた。
中央が危ないからといって、左翼まで動けば全軍が崩れる。
だからこそ、自分たちがここを支える。
光秀も、それを読んでいた。
「無理に抜くな」
家臣が頷く。
「はい」
「馬場をこちらへ釘付けにする」
「中央へ戻させない」
「そうだ」
鉄砲が鳴った。
武田兵が倒れる。
馬場は前へ出る。
「進め!」
武田兵が押す。
明智隊が一歩下がる。
だが、崩れない。
光秀は笑わなかった。
ただ、静かに呟いた。
「強いな」
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その頃、秀吉は中央左側へ入り込んでいた。
「ここだ」
羽柴隊が武田の側面を叩く。
武田兵が振り返る。
「左だ!」
「敵が回っている!」
秀吉は無理に深く入らない。
一撃。
離れる。
また一撃。
武田の隊列が向きを変えるたび、中央正面の兵が薄くなる。
「今!」
羽柴隊が突く。
武田兵が押し返す。
秀吉はすぐ退く。
「追わせるな!」
武田が追う。
そこへ丹羽の鉄砲が鳴る。
「撃て!」
武田兵が倒れる。
秀吉は笑った。
「そうだ。それでいい」
武田を殺すことではない。
武田自身に隊列を崩させる。
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中央では原昌胤がなお戦っていた。
だが、兵の数が減っている。
周囲を見る。
東から柴田。
西から秀吉。
正面には丹羽。
後ろには織田の第二線。
「……まずい」
原が初めて呟いた。
中央突破のはずだった。
なのに、いつの間にか自分たちが三方向から押されている。
「退くぞ!」
原が叫ぶ。
しかし、その声はすべての兵には届かなかった。
鉄砲。
太鼓。
怒号。
伝令の死。
旗の倒壊。
戦場は命令を飲み込んでいく。
原隊の一部が前へ出る。
一部が後ろへ下がる。
その瞬間――
丹羽が見逃さなかった。
「今だ!」
織田槍隊が前へ出る。
原は刀を振るった。
だが、横から槍が入った。
「ぐっ……!」
一度目を避ける。
二度目。
三度目。
四本目の槍が、原昌胤の胸を貫いた。
「原様!」
原の身体が崩れる。
旗が倒れた。
「原昌胤、討ち取った!」
その声が中央に響く。
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武田本陣。
その報告が届いた。
「原昌胤、討死!」
信玄は目を閉じた。
一瞬だった。
だが、その直後。
胸にまた激痛が走った。
「……!」
信玄が膝をつく。
「お館様!」
側近が支える。
信玄は咳き込んだ。
布が赤く染まる。
「……原まで」
声が掠れた。
「土屋昌続も……」
「はい」
信玄は戦場を見る。
東。
土屋の旗がない。
中央。
原の旗もない。
その間を、織田の旗が埋めている。
「……判断が」
信玄は言葉を止めた。
自分が遅れた。
僅かな時間。
ほんの一瞬。
それが戦場を変えた。
「撤退を……」
側近が聞き返す。
「撤退を?」
信玄は目を開いた。
「……まだだ」
だが、その声には迷いがあった。
そして、その迷いこそが――
さらに時間を奪った。
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宗一郎は望遠鏡を下ろした。
「原昌胤、討ち取った」
丹羽が頷く。
「土屋昌続もです」
宗一郎は戦場を見る。
「武田の中央が、明らかに揺れた」
「追いますか?」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「まだ追うな」
「なぜです?」
「山県昌景がいる」
宗一郎は武田中央の奥を見る。
山県昌景。
そして内藤昌豊。
西には馬場信春。
後方には高坂昌信。
さらに東には穴山信君。
武田にはまだ、軍をまとめられる人間が残っている。
「ここで欲を出せば、逆に食われる」
宗一郎は言った。
「だから、圧力だけをかける」
丹羽が頷く。
「包囲を維持する」
「そうだ」
宗一郎は各隊へ命令を送った。
柴田には東を維持。
滝川には騎馬隊の牽制。
明智には西を固定。
秀吉には中央左を圧迫。
丹羽には中央を保持。
そして――
「俺たちは、逃げ道を残す」
---
武田中央。
山県昌景は倒れた二つの旗を見た。
原昌胤。
土屋昌続。
「……二人も失ったか」
内藤昌豊が言う。
「中央を戻しましょう」
山県は頷いた。
「そうする」
その時、伝令が来た。
「お館様より、中央撤退の命です!」
山県は目を閉じた。
ようやく来た。
だが――
遅かった。
すでに武田中央は深く入り込み、東西の支援から切り離されている。
山県はすぐに判断した。
「内藤」
「はい」
「俺が前を押さえる」
「では私は後ろを」
「頼む」
二人は同時に動いた。
武田軍は、崩走を始めたのではない。
撤退戦を始めた。
そこが武田の強さだった。
---
馬場信春も動いた。
「中央を戻せ!」
武田左翼が少しずつ後退する。
明智光秀は、それを見て追わなかった。
「追撃は不要」
家臣が驚く。
「逃がしますか?」
「逃がす」
光秀は答えた。
「今の武田は、逃げるために戦っている」
そして、戦場中央を見る。
「それを追えば、こちらが崩れる」
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東でも柴田が叫んだ。
「追うな!」
武田騎馬隊が後退していく。
滝川が横から圧力をかける。
しかし柴田は、それ以上踏み込まなかった。
「十分だ」
「勝家様?」
「武田の牙はまだ抜けてねえ」
柴田は倒れた土屋の旗を見た。
「こっちが欲を出せば、今度は俺たちが噛まれる」
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中央。
秀吉は武田の動きを見ていた。
「退き始めたか」
家臣が頷く。
「追いますか?」
「追わん」
秀吉は即答した。
「高槻殿の命令もある」
秀吉は少し笑った。
「それに、あの武田が逃げるだけで終わるとは思えん」
---
宗一郎は戦場全体を見た。
武田は退き始めている。
まだ整然としている。
山県が前を支え。
内藤が後方をまとめ。
馬場が左を守り。
穴山が東側を整理し。
高坂が後方との連絡を繋ぐ。
それでも――
戦の流れは、もう戻らない。
原昌胤。
土屋昌続。
二人の旗が消えたことで、武田兵は明確に理解していた。
今日、この戦場を支配しているのは織田だ。
宗一郎は望遠鏡を下ろした。
「……勝った、とはまだ言わない」
丹羽が頷く。
「はい」
「だが」
宗一郎は武田本陣を見る。
「流れは、こちらに来た」
その頃、武田本陣では。
信玄が再び胸を押さえていた。
血の付いた布を握りしめながら、それでも戦場から目を逸らさない。
「……まだ終わっておらぬ」
しかし、その言葉とは裏腹に。
武田軍は、少しずつ。
少しずつ。
織田から離れていった。




