↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
59/79

第五十五章 三方、閉じる

第五十五章 三方、閉じる


武田の中央が、一歩進んだ。


ただ、それだけだった。


だが、その一歩には重みがあった。


先ほどまで前へ出ることを躊躇していた武田の諸隊が、今度は明確に前進している。


中央の織田・徳川勢が退いたからだ。


「……退いた」


武田の一隊から声が上がった。


「押せるぞ!」


「敵の中央が下がった!」


槍を握る兵たちの間に、熱が走る。


だが、それは崩走ではなかった。


誰も走って逃げてはいない。


旗は立っている。


太鼓も鳴っている。


前列が下がれば、その後ろから次の列が出てくる。


武田の兵たちにも、それは見えていた。


だからこそ、余計に判断が難しかった。


「追える」


そう考える者と、


「罠ではないか」


と疑う者がいる。


その両方が正しかった。


高槻宗一郎は、まさにそこを狙っていた。


「……あと半歩」


宗一郎は馬上から戦場を見渡した。


中央。


東。


西。


そして、敵の後方。


三つの方向が、まだ完全には繋がっていない。


だからこそ、今は攻めない。


「丹羽隊へ」


伝令が駆け寄る。


「中央第一線、あと一段だけ下げる。ただし走るな。隊列を崩すな」


「承知!」


「徳川には?」


「すでに伝えてあります」


宗一郎は頷いた。


徳川勢は中央前面で槍を構えている。


彼らの役目は勝つことではない。


武田に、


『ここなら押し込める』


と思わせることだった。


徳川兵の顔には疲労が浮かんでいる。


槍を持つ腕は重い。


足元には泥が絡み、負傷者を後方へ運ぶ者たちが何度も行き交っている。


それでも、隊列は崩れていなかった。


一人の足軽が後ろへ下がる。


その場所に、別の兵が入る。


血を流した兵が運ばれる。


空いた場所には補充兵が入る。


その繰り返しだった。


「退け!」


「急ぐな!」


「前の兵に続け!」


怒鳴り声が飛ぶ。


武田の兵から見れば、押せそうで押し切れない。


そこが、宗一郎の狙いだった。


---


一方、東。


柴田勝家は、武田騎馬隊と向き合っていた。


「来るぞ!」


武田騎馬隊が斜めに動いた。


正面から突っ込むのではない。


柴田隊の横腹を狙う。


「槍、伏せ!」


柴田の声が響く。


前列が一斉に槍を低くした。


馬が近づく。


蹄が地面を叩く。


土が跳ねる。


騎馬武者の姿が大きくなっていく。


あと十間。


八間。


六間。


「まだだ!」


柴田は叫んだ。


兵たちは息を止める。


「今だ!」


槍衾が動いた。


騎馬隊の先頭が方向を変えた。


完全な突撃ではない。


そのまま当たれば被害が大きいと判断したのだろう。


だが、方向を変えたことで速度が落ちる。


そこへ滝川一益の隊が横から現れた。


「滝川だ!」


「右から来るぞ!」


武田騎馬隊の列が乱れる。


滝川は追わなかった。


「追うな!」


家臣が驚く。


「しかし!」


「まだ早い!」


滝川は敵の背後を見ていた。


「騎馬を潰すんじゃない。中央へ戻れなくすればいい」


その言葉通り、滝川隊は武田騎馬隊の退路を完全には塞がず、しかし中央へ戻る最短経路だけを圧迫した。


武田騎馬隊は東側に釘付けになる。


柴田がそれを見て、口元を僅かに上げた。


「一益、分かってきたな」


「勝家殿こそ、突っ込まぬとは珍しい」


「馬鹿にするな」


柴田は槍を握り直した。


「勝つために突っ込むのであって、死ぬために突っ込むんじゃねえ」


東は動かない。


だが、それこそが重要だった。


---


西。


明智光秀は森の出口を見ていた。


武田の左翼が、何度も森から出ようとしている。


しかし、光秀はそのたびに距離を詰めさせない。


「鉄砲」


「構え!」


兵が銃を構える。


武田側から槍兵が進む。


一発。


煙。


二発。


また煙。


全員が一斉に撃つのではない。


前列が撃ち、下がる。


後列が前へ出る。


装填を終えた兵が、その後ろから加わる。


武田兵は前へ出る。


一歩。


また一歩。


だが、森の出口まで届かない。


光秀は戦場全体を見た。


「……中央が下がっている」


家臣が頷く。


「はい」


「東も動いていない」


「柴田殿は敵騎馬を抑えております」


光秀はしばらく黙った。


そして、静かに言った。


「ならば、我々も動かない」


「動かない?」


「そうだ」


光秀の目は冷静だった。


「今、動けば中央へ引きずられる」


宗一郎の意図を、完全に理解しているわけではない。


だが、少なくとも一つだけ分かっていた。


敵が下がっている時ほど、こちらから形を崩してはいけない。


光秀は森の出口を守り続けた。


---


そして中央。


武田がさらに進んだ。


「押せ!」


「織田が退いている!」


「前へ!」


武田の兵たちの声が大きくなる。


しかし、その声とは裏腹に、武田の隊列は少しずつ伸び始めていた。


先頭が進む。


後ろが追いつく。


さらに後ろが追いつく。


だが、左右の部隊は同じ速度では進めない。


東では柴田が止めている。


西では光秀が止めている。


中央だけが前へ出る。


それは、一本の槍のような形になりつつあった。


その槍の先端だけが、織田の奥へ突き出している。


宗一郎はそれを見ていた。


「……来た」


隣にいた丹羽長秀が尋ねる。


「何が?」


「武田の中央が長くなった」


「……なるほど」


丹羽も理解した。


武田が強いからこそ、ここまで来られた。


だが、強い軍でも、前進すれば必ず後ろとの距離が伸びる。


宗一郎は地図を広げた。


「東」


指で柴田隊を示す。


「まだ動かない」


「はい」


「西も」


「明智殿、動いていません」


「滝川は?」


「武田騎馬隊の外側を抑えています」


宗一郎は頷いた。


「これでいい」


丹羽が地図を見る。


そこには、武田中央軍を三方向から包むような線が浮かび始めていた。


ただし、まだ完全な包囲ではない。


中央の前方には武田軍がいる。


左右には柴田と光秀。


そして、その後ろには織田・徳川の第二線。


滝川の機動隊が東側から内側へ回りつつある。


秀吉の部隊もまた、中央西寄りへ移動していた。


「羽柴は?」


「中央後方です」


「呼べ」


しばらくして、秀吉が現れた。


「高槻殿」


「羽柴。西寄りへ少しだけ動け」


「敵の横を狙いますか?」


「まだだ」


宗一郎は首を振った。


「武田に見せるな」


秀吉は一瞬、地図を見る。


そして笑った。


「なるほど」


「分かったか」


「敵の目には、まだ我らが中央を支えるために動いているように見せる」


「そうだ」


秀吉は頷いた。


「承知しました」


---


武田本陣。


山県昌景が前方を見ていた。


「押しております」


馬場信春も戦場を見る。


「しかし、織田の左右が動きません」


「中央が下がっている」


「はい」


「ならば、そこを割る」


山県はそう答えた。


武田の兵たちも、同じ感覚だった。


敵中央が下がっている。


ならば、今こそ圧力をかける。


ここで止まれば、せっかくの勢いを失う。


武田軍は、強い。


強いからこそ、攻撃の機会を見逃さない。


そして、それは合理的だった。


少なくとも、ここまでは。


---


信玄は本陣から戦場を見ていた。


顔色は以前より悪い。


胸の奥に重いものがある。


それでも、目だけは鋭かった。


「中央が押しているな」


「はい」


側近が答える。


「織田の中央は後退。徳川も後退しております」


信玄は目を細めた。


「左右は?」


「柴田、明智、ともに大きくは動いておりません」


「滝川は?」


「東側で騎馬隊を牽制」


信玄はしばらく考えた。


ここで、一つの判断が生まれた。


それは間違った判断ではなかった。


むしろ、その時点で得られている情報だけなら、十分に合理的だった。


信玄は言った。


「中央をさらに押せ」


側近が一礼する。


「承知」


だが、信玄は続けて一言だけ加えた。


「左右は、中央に合わせる必要はない」


そこに、僅かな判断の遅れが生じた。


中央を押せば、織田の中央はさらに後退する。


左右は動かずともよい。


そう考えた。


しかし――


その中央後退そのものが、囮だった。


---


「今です」


宗一郎が言った。


丹羽が振り返る。


「動かしますか」


「まだ」


宗一郎は敵中央を見ていた。


武田がさらに深く入ってくる。


先頭が、第二線へ近づく。


織田兵の中にも恐怖が走る。


「近すぎる!」


「武田が来るぞ!」


「下がれ!」


「慌てるな!」


隊長たちが叫ぶ。


一人の若い兵が足を滑らせた。


隣の兵が腕を掴む。


「立て!」


「もう駄目だ!」


「立て!」


その声は震えていた。


戦場では、計画通りに動くことだけが難しいのではない。


怖いのに、逃げないこと。


それが一番難しい。


だが、兵たちは踏みとどまった。


そして、その時。


中央後方で、一斉に旗が上がった。


赤。


白。


そして黄色。


三つの旗。


合図だった。


「中央、停止!」


「第一線、反転!」


織田の兵が止まる。


後退していた部隊が振り返る。


槍が並ぶ。


鉄砲隊が横へ開く。


武田の先頭が、それを見た。


「敵が止まった!」


「来るぞ!」


武田の兵が槍を構えた。


その瞬間だった。


東から太鼓が鳴った。


一つ。


二つ。


三つ。


柴田隊が動いた。


「前へ!」


柴田勝家が叫ぶ。


だが、全軍突撃ではない。


武田騎馬隊へ正面からぶつかるのではなく、その内側へ向かって斜めに進む。


同時に、滝川隊が外側から回った。


武田騎馬隊が気付く。


「右!」


「敵が回ってくる!」


「中央へ戻れ!」


だが、中央へ戻るには柴田隊の前を通らなければならない。


その瞬間、武田東翼の動きが止まった。


---


西でも変化が起きた。


光秀は、森の出口から一歩だけ出た。


「全軍ではない」


家臣に言う。


「前衛だけだ」


明智隊が森から姿を現す。


武田左翼が反応する。


「明智が出た!」


「押し返せ!」


武田兵が前へ出る。


だが、光秀は深追いしない。


森の出口を越えて数十歩。


そこで止まる。


武田左翼の注意だけを引く。


その時、秀吉隊がさらに内側へ動いた。


武田兵の視界に、織田の兵が増えたように見えた。


「敵が回り込んでいる!」


「左だ!」


「後ろを見ろ!」


命令が錯綜する。


まだ包囲ではない。


しかし――


包囲の形が見え始めた。


---


本陣の信玄が、それに気付いた。


「……何だ?」


戦場を見直す。


中央。


東。


西。


先ほどまで離れていた三つの線が、少しずつ内側へ向いている。


「中央が……深すぎる」


信玄の声が低くなった。


側近が振り返る。


「撤退を?」


信玄は答えなかった。


目を細める。


ここで初めて、先ほどの判断を振り返った。


中央を押せ。


左右は合わせなくてよい。


それ自体は間違いではない。


しかし――


中央を押した結果、左右との距離が開いた。


その開いた空間へ、織田の部隊が入り始めている。


「……高槻」


信玄が呟いた。


初めて、その名を口にした。


「奴は、中央を下げたかったのではない」


誰も答えない。


信玄は続けた。


「中央を、こちらへ出させたかったのだ」


---


宗一郎は信玄の本陣を見ていた。


遠い。


肉眼では見えない。


望遠鏡を目に当てる。


そして、旗の動きを確認した。


武田本陣の旗。


一度、横へ動いた。


続いて別の旗が動く。


宗一郎は息を止めた。


「……気付いた」


丹羽が尋ねる。


「武田が?」


「ああ」


宗一郎は望遠鏡を下ろした。


「だからこそ、ここからが本当の勝負だ」


「包囲を閉じますか?」


宗一郎は首を横に振った。


「まだだ」


「なぜ?」


「完全に閉じれば、武田は死に物狂いで突破する」


宗一郎は中央の武田軍を見る。


その兵たちは、まだ強い。


疲れている。


傷ついている。


だが、戦意は失っていない。


「三方までだ」


「三方?」


「東、西、正面」


宗一郎は指を置く。


「後ろは空ける」


丹羽が目を見開く。


「逃がすのですか」


「逃がす」


宗一郎は静かに答えた。


「逃げ道がある軍は、逃げ道がなくなった軍より冷静に戦える」


「……なるほど」


「そして、冷静に戦わせたまま、こちらの形を完成させる」


丹羽は地図を見る。


それは包囲ではない。


完全な包囲ではない。


だが、武田中央軍から見れば――


前には織田。


東には柴田と滝川。


西には明智と羽柴。


そして後方には、まだ道がある。


その道だけが、武田に残された。


宗一郎は呟いた。


「信玄なら、必ず見る」


「逃げ道を?」


「そうだ」


宗一郎は頷いた。


「そして、逃げ道があると分かった瞬間、どう動くかを見る」


風が吹いた。


旗が鳴る。


遠くで鉄砲の音が重なった。


戦場の中央で、武田兵が槍を構え直す。


織田兵もまた槍を構えた。


誰もが分かっていた。


次の衝突は、今までとは違う。


これは単なる正面衝突ではない。


三方向から形を作り、その中で敵を戦わせる戦いになる。


宗一郎は望遠鏡を再び目に当てた。


そして、小さく言った。


「……信玄。ここから、どう読む?」


その問いに答えるように、武田本陣の旗が大きく動いた。


武田軍が、動き始めた。


三方包囲は――


まだ完成していない。


だからこそ、武田にも反撃の余地がある。


そして宗一郎も、それを待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。