第五十四章 崩れる一角
第五十四章 崩れる一角
武田の旗が、一つ下がった。
それを見た織田兵の間から、歓声が上がる。
「押せ!」
「武田が退いたぞ!」
「追え!」
だが、その声を宗一郎は聞き逃さなかった。
歓声。
それは勝利の証ではない。
時に、最も危険な音になる。
「追うな!」
宗一郎が叫んだ。
「まだ追うな!」
しかし、戦場全体に声が届くはずもない。
前方の一部の兵は、すでに一歩、二歩と進み始めていた。
目の前の敵が退けば、追いたくなる。
倒れた仲間の仇を取りたくなる。
ここまで押され続けてきたのだ。
ようやく押し返せる。
その感情を止めるのは難しい。
「丹羽殿!」
宗一郎が叫んだ。
「中央を止めろ!」
「承知!」
丹羽長秀がすぐに反応した。
「前へ出過ぎるな!」
だが、その声が届く前に、武田の後列から矢が飛んできた。
「盾!」
兵が身を低くする。
矢が盾へ突き刺さる。
一人の兵が肩を射抜かれて倒れた。
「負傷者を下げろ!」
別の兵が駆け寄る。
しかし、その隙に武田の槍兵が前へ出た。
「来るぞ!」
織田兵が槍を構える。
退いたと思った武田が、今度は逆に押し返してきた。
歓声が悲鳴へ変わる。
「下がれ!」
「隊列を!」
「旗はどこだ!」
中央の一角で、織田兵が混乱した。
宗一郎は歯を食いしばった。
「……やっぱりだ」
武田は崩れていない。
旗を下げたのは敗走ではなかった。
織田側の前進を誘うための、意図的な後退。
「敵はまだ戦える」
半兵衛が言った。
「ああ」
宗一郎は頷いた。
「むしろ、ここからが本当の勝負だ」
*
武田の中央部隊。
先ほどまで前進していた兵たちは、一度後ろへ下がった。
だが、完全に退いたわけではない。
後列が前へ出る。
前列が入れ替わる。
負傷した者が後方へ下がり、まだ戦える者が前へ出る。
織田軍と似ている。
だが、武田の兵にも武田なりの強さがある。
「敵が追ってきた!」
「今だ!」
武田の指揮官が叫ぶ。
「押し返せ!」
太鼓が鳴った。
武田兵が一斉に前へ出る。
織田兵は一瞬遅れた。
その一瞬で、槍がぶつかった。
甲冑が鳴る。
槍先が肩を裂く。
兵が倒れる。
その横から別の兵が入り込む。
「押せ!」
武田兵の声が響く。
織田兵が一歩下がった。
さらに一歩。
その瞬間――。
「止まれ!」
丹羽長秀の声が響いた。
「第二線、前へ!」
後方から織田兵が進み出る。
退いた兵と入れ替わる。
武田の攻撃がそこで止まった。
「……またか」
武田の指揮官が呟いた。
敵は完全には崩れない。
だが、武田もまた、そこで止まらざるを得なかった。
両軍の間に、数十歩ほどの空間が生まれる。
そこには倒れた兵が残っていた。
誰の味方か分からない者もいる。
呻き声だけが聞こえる。
戦場では、勝敗が決まる前に、こうした場所がいくつも生まれる。
*
東。
柴田勝家は、武田騎馬隊の動きを見ていた。
先ほど滝川一益が側面を突いたことで、武田騎馬隊はいったん下がった。
だが、完全に逃げたわけではない。
「来るぞ」
柴田が言った。
家臣が振り向く。
「またですか?」
「ああ」
遠くから馬蹄が響いてくる。
「槍を伏せろ!」
柴田隊が槍を構える。
武田騎馬隊が迫る。
だが――。
「滝川隊、右!」
別方向から声が上がった。
滝川一益の騎馬隊が、再び姿を現した。
「柴田殿!」
「分かっておる!」
柴田は笑った。
「挟むぞ!」
柴田隊が前へ出る。
滝川隊が横へ回る。
武田騎馬隊は一瞬、進むべき方向を失った。
だが、武田もすぐに動いた。
騎馬の一部が柴田隊へ向かい、残りが滝川隊を牽制する。
「……さすがだな」
滝川が呟く。
「簡単には崩れん」
「ならば押す!」
柴田が叫ぶ。
「ただし深追いするな!」
柴田は、宗一郎の命令を守っていた。
敵が退いても追わない。
その代わり、敵が戻ってきた時には正面から受ける。
それは派手ではない。
だが、軍を壊さないためには重要だった。
武田騎馬隊が再び突っ込んでくる。
槍が馬の前へ並ぶ。
馬が急停止する。
その後ろから別の騎馬が回り込む。
「右!」
「受けろ!」
柴田隊の兵が倒れる。
滝川隊から矢が飛ぶ。
武田騎馬が一騎、落馬した。
しかし、武田はまた下がる。
「追うな!」
柴田が叫ぶ。
兵たちは歯を食いしばって足を止めた。
勝てそうなのに追わない。
それが一番難しかった。
*
西。
明智光秀は森の出口を守っていた。
武田兵の攻撃は、先ほどより弱い。
だが、それは安心できる状況ではない。
光秀は木々の間から戦場を見た。
「……中央が動いた」
武田が中央へ兵を戻している。
西への圧力を減らしている。
「敵が森を捨てた?」
家臣が尋ねる。
「いや」
光秀は首を振った。
「捨てたのではない。必要がなくなったのだ」
つまり、武田は別の場所で勝負を決めようとしている。
「中央か……」
光秀は考えた。
しかし、その時。
森の中から一隊の武田兵が現れた。
「敵!」
明智兵が槍を構える。
「少数です!」
光秀は目を細めた。
少数。
なぜ?
そして気づいた。
「中央へ行くための道を確保しようとしている」
「どうします?」
「潰す」
光秀は即答した。
「だが、追うな」
明智兵が前へ出る。
武田兵とぶつかる。
森の中で激しい槍戦が始まった。
視界が悪い。
足元も悪い。
槍を大きく振れない。
だから、距離が近い。
肩と肩がぶつかる。
敵の息遣いが聞こえる。
一人倒れれば、その場所を別の兵が埋める。
「押せ!」
明智兵が叫ぶ。
武田兵が後退する。
だが光秀は追わせなかった。
「止まれ!」
「しかし!」
「そこでいい!」
光秀は森の出口を見た。
この場所を守る。
それが任務だ。
敵を全滅させる必要はない。
「高槻殿は……」
光秀は中央を見た。
「我々に、戦場全体を守らせている」
*
中央後方。
羽柴秀吉は、戦場を走っていた。
「兵を半分、左!」
「中央は?」
「中央は丹羽殿がおる!」
秀吉は馬上から指示を飛ばす。
「左が薄くなる前に入れ!」
兵が走る。
その途中、倒れた織田兵が見えた。
「医療隊!」
秀吉が叫ぶ。
「ここや!」
傷兵を運ぶ者たちが駆けてくる。
「まだ息がある!」
「後ろへ!」
戦場では、負傷兵を運ぶことも戦いだった。
一人を助けるために二人が戦列を離れる。
それでも放置すれば、味方の士気が落ちる。
秀吉はそれを分かっていた。
「運べ!」
「はい!」
傷兵が担架へ乗せられる。
秀吉はすぐに前を見る。
武田がまた中央へ圧力を掛けている。
「……ほんまにしぶとい」
秀吉は呟いた。
だが、口元には笑みがあった。
「せやけど、こっちも同じや」
秀吉隊が中央へ入った。
「羽柴隊、前へ!」
武田兵と織田兵がぶつかる。
秀吉は自ら前線近くまで出た。
「押せ!」
兵が一歩進む。
武田兵が一歩下がる。
秀吉はそこで止めた。
「それ以上行くな!」
家臣が驚く。
「追撃しないのですか?」
「追ったら、また噛みつかれる」
秀吉は武田兵を見た。
「敵さん、まだ牙を抜いとらん」
*
大筒陣。
武田兵が近づいていた。
だが、その前には丹羽隊から回された兵がいた。
「大筒を守れ!」
武田兵が突っ込む。
織田兵が受ける。
宗一郎は少し離れた場所からそれを見ていた。
大筒は撃てない。
砲身がまだ熱い。
だが、それでも役に立っている。
存在そのものが、武田の兵を引きつけている。
「……兵器は、撃つだけじゃない」
宗一郎は呟いた。
「見せるだけでも戦場を変える」
半兵衛が言う。
「しかし、敵もそれを理解しました」
「ああ」
「ならば、次はどうします?」
宗一郎は答えなかった。
戦場を見る。
東。
柴田と滝川。
西。
明智。
中央。
丹羽と秀吉。
後方。
大筒。
そして――。
武田本陣。
宗一郎の目が止まった。
「……信玄」
「はい?」
「武田の攻撃が、少しずつ遅くなっている」
半兵衛も戦場を見る。
「兵の疲労でしょうか」
「それだけじゃない」
宗一郎は考えた。
武田は強い。
しかし、無限ではない。
朝から何度も攻撃を繰り返している。
騎馬隊も消耗している。
鉄砲隊も弾薬を使っている。
兵站も必要になる。
そして何より――。
「武田は、こっちと同じだけ時間を使ってる」
「……」
「戦場は、人間が作る」
宗一郎は言った。
「人間が疲れるなら、軍も疲れる」
その時。
武田本陣から、一つの旗が動いた。
宗一郎は双眼鏡を上げた。
「……何だ?」
武田の中央後方から、新たな部隊が動いている。
予備兵力。
今まで温存されていた部隊だった。
「まだ残していたのか」
宗一郎の顔が険しくなる。
武田は最後の力を中央へ投入しようとしている。
これが最後の大攻勢か。
それとも――。
「全軍へ伝令!」
宗一郎が叫んだ。
「武田が予備を動かした!」
伝令が走る。
「各隊、持ち場を離れるな!」
だが、宗一郎はそこで言葉を止めた。
ほんの一瞬。
考え直す。
そして――。
「……いや」
宗一郎は首を振った。
「一つだけ変える」
半兵衛が振り向く。
「何を?」
「中央を少しだけ下げる」
「危険では?」
「危険だ」
宗一郎は即答した。
「でも、ここで受け続けたら武田の最後の力を正面から受けることになる」
地図を見る。
中央。
東。
西。
「一歩下がる」
宗一郎は言った。
「その一歩で、武田を前へ出させる」
「……そして?」
宗一郎は大筒を見る。
次に、西の森。
そして東の開けた地形。
「三方から見る」
半兵衛の目が鋭くなった。
「中央を囮にする?」
「そうだ」
宗一郎は答えた。
「ただし、逃げるためじゃない」
その目が武田本陣を捉える。
「武田が最後の力を出して前へ出てきた時――」
宗一郎は静かに言った。
「その時こそ、戦場の形を決める」
*
後方本陣。
信長はその動きを見ていた。
中央が下がる。
また下がる。
だが、今度は違う。
ただの後退ではない。
信長はすぐに理解した。
「……高槻は、武田を前へ出させるつもりか」
蘭丸が尋ねる。
「前へ出させて、どうするのですか?」
「それは、まだ分からん」
信長は答えた。
「だが、一つだけ分かる」
「何でしょう?」
「今まで高槻は、武田の攻撃を受けていた」
信長の目が鋭くなる。
「これからは――」
一拍。
「武田自身に、戦場を選ばせる」
蘭丸は戦場を見た。
武田の予備隊が動き始める。
中央の織田軍が後退する。
柴田は東で待つ。
明智は西で待つ。
滝川も動きを止める。
秀吉と丹羽が中央を支える。
まるで、戦場そのものが大きな罠へ変わっていく。
だが。
信長はまだ命令を出さなかった。
ここは高槻の戦場だ。
任せる。
それが、今の信長の判断だった。
隣に控える蘭丸は、黙ってその光景を見ていた。
父が生きた宇佐山の戦いとは違う。
今、目の前にあるのは、一人の武将が槍を振るう戦ではない。
多くの人間が、それぞれの場所で役割を果たし、一つの戦場を作っている。
そして、その中心にいる男がいる。
高槻宗一郎。
蘭丸は、その姿を初めてはっきりと目で追った。
*
武田本陣。
信玄は、動き始めた予備隊を見た。
「中央へ」
「はっ!」
命令が伝わる。
太鼓が鳴る。
武田軍が前へ出る。
信玄はその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
身体が重い。
胸が苦しい。
それでも、目だけは戦場から離さない。
「高槻」
信玄は呟いた。
「ここで決めるつもりか」
その問いに答えるように、織田軍が一歩下がった。
武田軍が一歩進む。
さらに一歩。
戦場の中央が、ゆっくりと武田側へ伸びていく。
そして――。
その先には、織田・徳川が用意した新しい戦線。
東には柴田。
その外側に滝川。
西には明智。
中央には丹羽と秀吉。
後方には宗一郎。
そして大筒。
武田軍は、まだ知らない。
自分たちが追いかけているのが、敗走する敵ではないことを。
それが分かるのは、もう少し後だった。
戦場の均衡は崩れた。
だが、それは武田が崩れたという意味ではない。
これまで両軍を支えていた「互いに押し、互いに戻る」という形そのものが、崩れ始めたのだ。
そして次の一撃が――
この戦いの流れを決める。




