↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
57/77

第五十三章 均衡、崩れ始める

第五十三章 均衡、崩れ始める


 最初に異変を感じたのは、兵ではなかった。


 旗だった。


 中央の織田陣で、一つの旗が倒れた。


 風で倒れたのか。


 敵の矢が当たったのか。


 それとも――。


「旗が!」


 誰かが叫んだ。


 だが、すぐ隣で別の旗が上がる。


 兵たちは一瞬迷った。


 どちらを見るべきなのか。


 ほんの数息。


 それだけだった。


 しかし、戦場ではその数息が命取りになる。


「押せ!」


 武田の兵が一斉に前へ出た。


 中央の織田・徳川軍が押される。


「下がるな!」


「隊列を崩すな!」


 声が飛ぶ。


 だが、命令が全員に届かない。


 前方では聞こえない。


 後方では状況が見えない。


 さらに、武田の鉄砲隊が織田の伝令を狙っている。


 伝令が一人倒れた。


 もう一人が道を変えて走る。


 その瞬間、武田の矢が飛んできた。


 伝令が地面に転がる。


「伝令が来ません!」


 丹羽長秀のもとへ報告が入った。


「どこからだ?」


「徳川隊からです!」


「何本目だ?」


「三本目です!」


 丹羽は眉を寄せた。


 中央が乱れ始めている。


 だが、まだ崩れてはいない。


 それが分かるからこそ、余計に判断が難しい。


「高槻殿へ伝えろ!」


「どうやってです?」


「……」


 一瞬、丹羽は黙った。


 伝令を出しても、武田に狙われる。


 ならば――。


「旗だ」


「旗?」


「高槻殿が決めた合図を出せ」


 丹羽は前方を見た。


「中央を一段下げる」


「独断で?」


「違う」


 丹羽は首を振った。


「事前に決めた線まで下がるだけだ」


 それは、宗一郎が最初に決めていたことだった。


 命令が届かなくても、各隊が最低限の判断をできるようにする。


「中央第二線!」


 旗が上がった。


 太鼓が鳴る。


 徳川隊が下がり、丹羽隊が前へ出る。


 武田兵が追ってくる。


「逃がすな!」


 武田側から歓声が上がった。


 だが。


 追い込んだはずの徳川兵は、潰れなかった。


 後ろに織田兵がいる。


 さらに、その後ろに別の隊がいる。


 武田兵の足が一瞬止まった。


「……またか」


 武田の武将が呟いた。


 まるで、底がない。


 しかし――。


 その時だった。


 東から、激しい騎馬の音が響いた。


     *


「来たか!」


 柴田勝家が叫んだ。


 武田の騎馬隊が、再び東側へ押し寄せている。


 だが、先ほどとは違う。


 正面から来るのではない。


 斜めに進みながら、柴田隊の側面を狙っている。


「右へ!」


「間に合いません!」


「ならば槍を回せ!」


 柴田隊が動く。


 しかし、一部の兵が遅れた。


 武田騎馬隊がそこへ突っ込む。


「うわあああっ!」


 兵が吹き飛ばされた。


 馬の蹄が地面を叩く。


 槍が振り下ろされる。


 柴田は自ら前へ出た。


「止めろ!」


 敵の槍を受ける。


 衝撃で腕が痺れる。


 別の騎馬が横から迫る。


「柴田様!」


 家臣が槍を突き出した。


 騎馬が転倒する。


 だが、その後ろからまた一騎。


「多いな!」


 柴田が歯を食いしばった。


 武田は騎馬隊を一気に投入しているわけではない。


 少数を波のように繰り返し当てている。


 それによって柴田隊の兵を少しずつ消耗させていた。


「中央から兵を!」


 家臣が叫ぶ。


「駄目だ!」


 柴田は即座に拒否した。


「中央は今、もっと危ない!」


 その判断は正しかった。


 しかし、それでも東側の兵は減っていく。


 柴田は初めて感じた。


 ――このままでは持たない。


 だが、動けば中央が崩れる。


「……高槻」


 柴田は遠くを睨んだ。


「いつまで耐えさせるつもりだ」


     *


 その頃、羽柴秀吉は中央後方にいた。


「中央、押されております!」


「分かっとる」


 秀吉は戦場を見た。


 兵の動き。


 旗。


 煙。


 武田の前進速度。


 何より、徳川隊の下がり方。


「まだ崩れてへん」


「ですが!」


「崩れてへんうちは、崩れてへん」


 秀吉は笑わなかった。


 こういう時の秀吉は、普段の軽さが消える。


「兵を二つに分ける」


「二つ?」


「半分は中央」


 秀吉は西を見る。


「残りは西へ向ける」


「西は明智殿が――」


「分かっとる」


 秀吉は答えた。


「だからこそや」


 武田は中央を押し、西を狙い、東を圧迫している。


 ならば、織田側も一か所だけを守っていては駄目だ。


「中央だけ見とったら、全部持っていかれる」


 秀吉は兵を動かした。


「行け!」


 兵たちが走る。


 その途中。


 秀吉はふと足を止めた。


 西の森。


 明智隊がまだ持ちこたえている。


 しかし、その戦い方が少し変わっていた。


 武田が正面から押すのではなく、森の中へ兵を送り込んでいる。


「……あっちも本気か」


 秀吉は呟いた。


     *


 明智光秀は、森の中で敵と対峙していた。


 狭い。


 視界が悪い。


 味方の旗も見えない。


 太鼓の音も聞き取りにくい。


 だからこそ、武田の攻撃は厄介だった。


「右!」


 武田兵が横から現れる。


「槍!」


 明智兵が受け止める。


 槍がぶつかる。


 一人倒れる。


 その隙間から、また敵が入る。


 光秀は一歩下がった。


「……深いな」


 武田が森へ入っている。


 しかし、深入りしているわけではない。


 出口を狙っている。


「ならば」


 光秀は周囲を見た。


「こちらからも、少しだけ出る」


「危険では?」


「出過ぎるな」


 光秀は答えた。


「一歩だけだ」


 明智兵が前へ出る。


 武田兵が押し返す。


 その瞬間。


「撃て!」


 森の外から鉄砲が鳴った。


 秀吉隊だった。


 武田兵が足を止める。


「今だ!」


 光秀が槍を突き出した。


 武田兵が後退する。


 秀吉の援軍は、兵数としては大きくない。


 だが、武田が「ここを抜けばいい」と思っていた場所に、突然別の力が加わった。


 それだけで流れが変わる。


「羽柴殿か」


 光秀が呟いた。


「助かりましたな」


 家臣が言う。


「まだだ」


 光秀は首を振った。


「助かったのではない」


「?」


「敵の狙いが変わっただけだ」


     *


 戦場中央。


 丹羽長秀の隊が武田を受け止めていた。


 だが、武田の圧力は強い。


「槍を揃えろ!」


 丹羽が叫ぶ。


「一人で前へ出るな!」


 兵たちが槍を並べる。


 武田兵が突っ込んでくる。


 鉄砲。


 槍。


 怒号。


 倒れる兵。


 丹羽は後ろを振り返った。


「大筒は?」


「まだです!」


「高槻殿は?」


「連絡が取れておりません!」


 丹羽は舌打ちした。


 だが、慌てない。


「なら、俺たちが持たせる」


 丹羽は槍を構えた。


「高槻殿が戻るまで、ここを崩すな!」


 兵たちが応じる。


「おおっ!」


 丹羽隊が踏みとどまった。


 しかし。


 武田の一隊が、中央から少しだけ西へ流れ始めた。


 丹羽はそれを見た。


「……何だ?」


 武田が中央を押すだけなら、こんな動きは必要ない。


 西へ。


 だが、明智隊は秀吉が支えている。


 ならば――。


「まさか」


 丹羽の顔が変わった。


「大筒か!」


     *


 大筒陣。


 与吉が砲身を確認していた。


「まだ熱が……」


 その時。


 周囲から足音が聞こえた。


「敵です!」


 護衛兵が叫ぶ。


 武田兵が接近している。


 大筒そのものを狙っている。


「来るぞ!」


 槍兵が前へ出る。


 与吉の顔から血の気が引いた。


 自分たちが作った兵器。


 その周囲で、本物の兵士が命を懸けている。


「大筒を守れ!」


 護衛兵が叫ぶ。


 武田兵が突っ込んできた。


 槍と槍がぶつかる。


 鉄砲が鳴る。


 一人倒れる。


 また一人。


 与吉は震える手で砲身に触れた。


 熱い。


 その熱が、妙に生々しく感じられた。


「与吉!」


 声が飛んだ。


「何をしている!」


 宗一郎だった。


「高槻様!」


「大筒を捨てるな!」


「しかし!」


「違う!」


 宗一郎は周囲を見た。


 武田兵は大筒を狙っている。


 つまり。


 武田は大筒が戦場を変える兵器だと認識した。


「これは良い」


 宗一郎が呟いた。


「何がです?」


「敵が大筒を怖がってる」


 宗一郎は笑わなかった。


「なら、使い方を変えられる」


「撃つのですか?」


「いや」


 宗一郎は首を振った。


「撃たない」


 与吉が目を見開く。


「大筒をここに置いておく」


「……囮に?」


「そうだ」


 宗一郎は周囲を見た。


 武田が大筒へ兵を集めている。


 それだけで、中央への圧力が少し弱まる。


「武田は大筒を壊したい」


 宗一郎は言った。


「なら、壊したいと思わせたままにする」


     *


 その瞬間。


 戦場全体の均衡が変わった。


 ほんの少し。


 だが確実に。


 中央の武田軍が、わずかに薄くなった。


 東では柴田がそれを感じた。


「……敵が減った?」


 西では光秀が感じた。


「中央へ兵が戻っている?」


 中央では丹羽が感じた。


「武田の圧力が……少し緩んだ」


 秀吉も気づいた。


「高槻はん……何をした?」


 そして宗一郎自身も理解していた。


 まだ勝っていない。


 だが。


 今まで武田が握っていた主導権の一部が、こちらへ移った。


「柴田殿へ伝令!」


「はっ!」


「今から敵が東へ戻る可能性がある。追うな。位置を維持!」


「承知!」


「明智殿へ!」


「はい!」


「森の出口を守り続けろ!」


「はっ!」


「丹羽殿へ!」


 宗一郎は中央を見た。


「中央は一歩だけ前へ出る」


「一歩だけ?」


「それ以上は出るな」


 そして最後に、


「滝川殿へ」


 宗一郎は東のさらに後方を見た。


 そこには滝川一益の部隊が控えている。


 これまで大きく動かず、戦場の隙を待っていた。


「今まで待たせた」


 宗一郎は言った。


「動いてもらう」


     *


 滝川一益は、命令を聞くと静かに笑った。


「ようやくか」


 彼の部隊は、これまで正面から戦っていない。


 それには理由があった。


 武田が何度も攻撃している場所へ兵を突っ込めば、ただの消耗戦になる。


 だが、武田の陣形が少しでも伸びれば――。


「騎馬、準備」


「どこへ?」


「敵の横腹だ」


「中央では?」


「中央ではない」


 一益は東側の地形を見た。


 武田の騎馬隊が織田軍を押し続けたことで、その後方との間にわずかな隙間が生まれている。


「そこを通る」


「危険では?」


「だから面白い」


 滝川隊が動き始めた。


 騎馬が走る。


 土煙が上がる。


 武田側が気づいた。


「敵騎馬!」


「右後方!」


 叫び声が響く。


 武田騎馬隊が振り返る。


 だが、その瞬間。


 柴田勝家が叫んだ。


「今だ!」


 柴田隊が前へ出る。


 武田騎馬隊は挟まれかけた。


「押せ!」


 柴田隊の槍が伸びる。


 滝川隊が側面へ回る。


 武田騎馬隊は退いた。


 ほんのわずかな後退。


 しかし、戦場ではそれが大きかった。


「追うな!」


 滝川が叫ぶ。


「戻れ!」


 滝川隊は深追いしない。


 柴田も追わない。


 二人とも、宗一郎の命令を守った。


 武田騎馬隊を壊すのではなく、


 本来いた場所から動かした。


 それだけだった。


 だが、その結果。


 東側の圧力が弱まった。


 中央へ戻ろうとしていた武田兵。


 東から戻れない騎馬。


 西で足止めされる部隊。


 そして中央で踏みとどまる織田・徳川軍。


 武田軍の「一つの力」が、三つに分かれ始めていた。


     *


 武田本陣。


 信玄はその変化を見逃さなかった。


「……滝川か」


「はい」


「柴田と繋いだか」


 側近が答える。


「そのようです」


 信玄は地図を見る。


 西。


 中央。


 東。


 今まで武田が押していた三方向が、少しずつ噛み合わなくなっている。


「高槻め」


 信玄は呟いた。


「こちらが兵を動かしたい場所ではなく……」


 指が地図を滑る。


「こちらが兵を動かさざるを得ない場所へ、誘導している」


 その言葉の直後。


 信玄は激しく咳き込んだ。


「御屋形様!」


 側近が駆け寄る。


「よい」


 信玄は手で制した。


 だが、手の布には赤い色が滲んでいた。


 信玄はそれを一瞬だけ見た。


 そして、握り潰す。


「まだだ」


 顔を上げる。


「まだ、武田は崩れておらぬ」


 しかし。


 その声には、先ほどまでにはなかった疲労が滲んでいた。


     *


 後方本陣。


 信長は戦場を見ていた。


 蘭丸も隣にいる。


「……動きました」


 蘭丸が言った。


「ああ」


「滝川殿です」


「そうだ」


 信長は頷いた。


「柴田が耐え、明智が止め、丹羽が中央を支え、羽柴が穴を埋めた」


 そして、


「滝川が、最後に動いた」


 蘭丸は戦場を見た。


「皆が、それぞれ違うことをしているのに……」


「一つの軍になっている」


 信長が答えた。


 蘭丸は黙った。


 父・森可成が生きていたなら。


 この戦場をどう見ただろう。


 そんな考えが一瞬だけ胸をよぎる。


 だが、蘭丸は口にしなかった。


 信長も何も言わない。


 ただ二人で戦場を見る。


 その時。


 中央で、武田の旗が一つ下がった。


 さらに東でも、武田が少し後退する。


 西では明智隊が前へ出た。


 まだ勝敗は決まっていない。


 それでも――。


 誰の目にも分かるほど、


 均衡が崩れ始めていた。


 信長は静かに言った。


「まだ追うな」


 蘭丸が振り向く。


「まだ……ですか?」


「そうだ」


 信長は笑わなかった。


「武田は、崩れ始めた時が一番怖い」


 戦場の向こう。


 武田本陣の旗が、風に大きく揺れた。


 信長はそれを見つめる。


 そして、宗一郎もまた同じ旗を見ていた。


 次に動くのは――


 武田か。


 それとも織田か。


 戦場の均衡は、すでに戻れないところまで傾き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。