↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
56/79

第五十二章 戦場の形が変わる

第五十二章 戦場の形が変わる


 大筒の轟音が消えたあとも、戦場は揺れていた。


 耳鳴り。


 白煙。


 舞い上がった土。


 そして、倒れた兵たちの呻き声。


 撃った側でさえ、何が起きたのか一瞬分からない。


 与吉は大筒の脇に立ったまま、呆然と前を見ていた。


「……当たった」


 呟いた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。


「与吉!」


「は、はい!」


「見惚れるな!」


 宗一郎の声が飛んだ。


「砲身を確認! 火薬庫を離せ! 次弾は急ぐな!」


「はっ!」


 与吉が我に返る。


 大筒は撃てば終わりではない。


 砲身には熱がこもっている。


 装填を急げば事故につながる。


 そして何より、敵はもう大筒の存在を知った。


 次に同じ場所から撃てば、武田はそこを狙ってくる。


「……一発撃っただけで、戦争が変わるわけじゃない」


 宗一郎はそう呟いた。


 むしろ逆だった。


 新しい兵器を見せたことで、敵もまた新しい戦い方を選び始める。


「高槻様!」


 伝令が駆けてきた。


「西、武田が後退しています!」


「どの程度だ?」


「森から一町ほど」


「崩れたか?」


「いえ。旗は乱れておりません」


 宗一郎は頷いた。


「なら、撤退じゃない」


 その答えとほぼ同時だった。


 別の伝令が駆け込んでくる。


「東より報告!」


「言え」


「武田騎馬隊、柴田隊への圧力を強めています!」


 宗一郎の目が細くなった。


「……やっぱりか」


 西で道を閉じられた。


 ならば東。


 東を崩せば、中央を支えている柴田隊が動かざるを得ない。


 武田は、まだ戦場全体を諦めていない。


「柴田殿へ」


「はっ!」


「中央へ寄るな、と伝えろ」


「しかし東が――」


「だからだ」


 宗一郎は即答した。


「東を助けようとして中央を空ければ、武田の思う壺だ」


 伝令が走っていく。


 半兵衛が静かに口を開いた。


「高槻様」


「なんだ?」


「武田は、こちらの指揮系統を試しています」


「……俺もそう思う」


「一つを攻めれば、別の一つが動く。そこをまた攻める」


「そう」


 宗一郎は地図を見る。


「武田は兵を倒すより、俺たちを動かしたい」


 それが分かっても、簡単には対応できない。


 兵は人間だ。


 仲間が苦戦しているのを見れば助けたくなる。


 味方が下がれば追いつきたくなる。


 戦場では、その感情が判断を狂わせる。


 だからこそ宗一郎は、あらかじめ線を決めていた。


「退く場所を決めておく」


 宗一郎は言った。


「守る場所も決めておく」


 そして、


「助けに行かない場所も決めておく」


 半兵衛が目を伏せた。


「……冷たいですな」


「そうだな」


 宗一郎も否定しなかった。


「でも、戦場では必要なんだ」


     *


 東側。


 柴田勝家は、迫ってくる武田騎馬隊を睨んでいた。


「来るぞ!」


 騎馬の蹄が大地を叩く。


 土煙。


 旗。


 槍。


 馬上から突き出される長槍。


「鉄砲!」


 柴田隊の前列が構える。


「撃て!」


 轟音。


 武田の騎馬が何頭か倒れた。


 だが、残った騎馬は速度を落とさない。


「槍!」


 前列が槍を並べる。


 馬が突っ込む。


 槍先が馬の胸に当たり、騎馬が横へ転がった。


 その瞬間、別の騎馬が横から入り込んだ。


「右だ!」


「押されるぞ!」


 兵が叫ぶ。


 柴田は自ら前へ出た。


「下がるな!」


 槍を振る。


 一人を倒し、次の敵の槍を受ける。


 甲冑がぶつかる。


 足元には泥と血。


 耳元を矢が通り過ぎる。


「柴田様!」


「何だ!」


「中央から兵を回しましょう!」


「ならん!」


 柴田は怒鳴った。


「高槻の命だ!」


「しかし!」


「ここを守れと言われた!」


 柴田は武田騎馬隊を睨んだ。


「ならば守る!」


 それは単純な頑固さではなかった。


 柴田も理解していた。


 ここで中央へ動けば、中央の武田がさらに前へ出る。


 だからこそ耐える。


 兵たちにとっては、それが最も苦しい戦いだった。


 勝てるから進むのではない。


 負けないために動かない。


 その違いを理解できる者は少ない。


「押し返せ!」


 柴田が叫ぶ。


 兵が一歩前へ出た。


 武田騎馬隊も一歩下がる。


 だが、追わない。


「追うな!」


 柴田が怒鳴った。


「追えば喰われるぞ!」


 兵たちは足を止めた。


 その向こうで、武田の騎馬がこちらを見ている。


 まるで、


 追ってこい。


 そう言っているようだった。


     *


 西側。


 明智光秀は森の出口に立っていた。


 武田兵が再び姿を現す。


 先ほど大筒で道を崩されたため、大きく迂回している。


「……敵は、まだ来ますか」


 部下が尋ねた。


「来る」


 光秀は答えた。


「だから、ここを守る」


 武田兵が突っ込んでくる。


「鉄砲!」


 織田兵が撃つ。


 武田兵が倒れる。


 しかし、後続が来る。


「槍!」


 今度は接近戦。


 森の中では騎馬の優位が消える。


 武田兵が槍を振る。


 明智兵が受ける。


 狭い。


 動きにくい。


 互いの肩がぶつかる。


 前の兵が倒れても、後ろが進めない。


 戦場というより、押し合いだった。


 光秀はその様子を見ながら考えていた。


 ――武田は、本当にここを抜きたいのか?


 違う。


 光秀は気づいた。


「……見せている」


「は?」


「森を攻めているように見せているだけだ」


 その言葉の直後。


 中央から、大きな鬨の声が上がった。


「中央!」


 光秀が振り返る。


 武田がまた動いた。


 西を攻める。


 東を攻める。


 中央を押す。


 三方向から同時に圧力をかけている。


 だが、それぞれの攻撃は決定打になっていない。


 目的は別にある。


 織田軍を動かすこと。


「……高槻殿も、気づいているでしょうな」


 光秀は呟いた。


     *


 中央。


 徳川隊が再び後退した。


 兵たちの顔には疲労が浮かんでいる。


「また下がるのか!」


「敵が来るぞ!」


「足を止めるな!」


 家康はその声を聞きながら、自らも馬を進めた。


 怖い。


 当然だ。


 武田の兵は強い。


 何度押し返しても、また来る。


 それでも家康は、あらかじめ示された線まで兵を下げた。


「ここだ!」


「止まれ!」


 徳川兵が足を止める。


 その直後、後方から織田軍が前へ出た。


「織田隊、前へ!」


 丹羽長秀が兵を動かす。


 徳川隊の後ろに新しい壁ができる。


 武田兵が一瞬、足を止めた。


「……またか」


 武田の指揮官が呟く。


 倒しても、次が出てくる。


 追い払っても、次の線がある。


 武田の兵たちも疲れていた。


 最初は織田軍の鉄砲を恐れていた。


 次に大筒を恐れた。


 だが、今は違う。


 敵そのものより、


 倒しても終わらないこと


 に疲れていた。


 織田軍も同じだった。


 誰も無傷ではない。


 鉄砲隊にも死傷者が出ている。


 槍隊にも倒れる者がいる。


 大筒の周囲には、砲撃の熱と煙が残っている。


 勝てているわけではない。


 ただ、崩れていない。


 それだけだった。


     *


 武田本陣。


 信玄は目を閉じた。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけだった。


「御屋形様」


 側近が声をかける。


「何でもない」


 信玄は目を開いた。


 だが、呼吸が浅い。


 胸の奥が重い。


 それでも地図を見る。


「……高槻」


 信玄は小さく呟いた。


 戦場の形が変わっている。


 武田が攻める。


 織田が下がる。


 しかし、下がった場所には次の陣がある。


 西を攻めれば大筒。


 東を攻めれば柴田。


 中央を攻めれば徳川と織田。


 そして、その全てを高槻が後方から繋いでいる。


「兵を倒しているのではない」


 信玄が言った。


「……はい」


「繋ぎを切れ」


 側近が息を呑む。


「伝令を狙え」


 信玄は続けた。


「旗を狙え。太鼓を狙え」


 兵ではない。


 命令を伝えるものを狙う。


 武田は戦い方を変えた。


「高槻の軍は、命令が届いている限り崩れぬ」


 信玄の目が鋭くなる。


「ならば、命令が届かぬようにする」


     *


 その頃。


 宗一郎のもとへ、一人の伝令が駆け込んだ。


「高槻様!」


「どうした?」


「中央との連絡が……」


 伝令が息を整える。


「一部、途絶えています」


 宗一郎の顔から表情が消えた。


「どこだ」


「徳川隊と丹羽隊の間です」


「伝令は?」


「二人、戻ってきておりません」


 宗一郎は地図を見た。


 そして、武田本陣を見る。


「……やられたな」


 これまで武田は、兵を押していた。


 今度は違う。


 指揮系統そのものを狙ってきた。


「半兵衛」


「はい」


「俺たちも、戦い方を変える」


 半兵衛が頷く。


「伝令を増やしますか?」


「それだけじゃない」


 宗一郎は少し考えた。


「旗を増やす」


「旗?」


「偽の命令を出すためじゃない」


 宗一郎は地図を指した。


「どこに誰がいるのか、敵に見せるためだ」


 そして、別の場所を指す。


「太鼓も増やす」


「なるほど」


「命令が届かなくても、動ける仕組みにする」


 宗一郎は立ち上がった。


「俺たちが作ってきた軍は、俺一人がいなくても動くようにする」


 半兵衛が宗一郎を見る。


「……そこまで考えていましたか」


「考えていた」


 宗一郎は戦場を見た。


「俺が死んだら、全部止まる軍なんて作ったら駄目だ」


 その言葉を聞いた半兵衛は、しばらく黙っていた。


 そして小さく笑った。


「ならば、高槻様」


「何だ?」


「これは良い試験になりますな」


「……ああ」


 宗一郎も笑った。


 だが、その目は笑っていない。


「武田に試されている」


 そして。


「俺たちも、武田を試す」


     *


 後方本陣。


 森蘭丸は、信長の隣で戦場を見ていた。


 先ほどまでとは何かが違う。


 兵の位置。


 旗。


 太鼓。


 伝令。


 それらが、戦場の中で忙しく動いている。


「殿」


「何だ」


「高槻殿は……兵を増やしているのですか?」


「違う」


 信長は答えた。


「命令が一つ途切れても、全体が止まらぬようにしている」


 蘭丸は目を見開いた。


「戦うだけではないのですね」


「戦とは、槍を振ることだけではない」


 信長は言った。


「人を動かすことだ」


 少し間を置いて、


「そして、人が動けなくなった時にも、戦えるようにしておくことだ」


 蘭丸はその言葉を胸に刻んだ。


 父・森可成は、宇佐山で戦った。


 槍を取り、兵を率い、最後まで戦った。


 だが、信長は今、別の戦い方を見ている。


 戦う者。


 支える者。


 命令する者。


 伝える者。


 そして、その全てが一つの軍を作る。


 蘭丸には、まだそれがどういう意味なのか完全には分からない。


 ただ一つだけ分かった。


 信長が高槻宗一郎を前線に置き、自ら後ろにいる理由。


 それは、戦うことを放棄したのではない。


 一人の武将に戦を任せられるほど、織田という軍そのものを変えようとしているのだ。


 信長は遠くの戦場を見つめた。


「蘭丸」


「はい」


「覚えておけ」


「はい」


「強い者が勝つとは限らん」


 信長の目が細くなる。


「最後まで形を失わなかった者が勝つ」


 その時。


 戦場の中央から、新しい旗が上がった。


 武田が動いた。


 今までとは違う。


 中央だけではない。


 東も。


 西も。


 同時に。


 宗一郎は、それを見た。


「……来るか」


 戦場の空気が変わる。


 大筒。


 鉄砲。


 槍。


 騎馬。


 すべてが、次の一手を待っている。


 そして宗一郎は初めて思った。


 この戦は、武田と織田がどちらが強いかを決める戦いではない。


 二つの軍が、互いに相手を学びながら、次の時代の戦い方を作っている。


 ならば――


 この戦いの本当の勝者は、戦場を去った後に決まる。


 宗一郎は旗を掲げた。


「全軍へ伝えろ」


「はっ!」


「これより、命令を待つな」


 伝令が目を見開く。


「各隊、事前に決めた線を守れ。隣が崩れても、勝手に動くな」


「……はっ!」


「そして――」


 宗一郎は武田本陣を見た。


「武田が、どこまで俺たちを読めるか見てやろう」


 その頃。


 武田本陣では、信玄もまた同じ戦場を見ていた。


「高槻が動いたか」


「はい」


「ならば――」


 信玄は息を整えた。


 苦しさを胸の奥へ押し込む。


「次は、こちらが読む番だ」


 東の戦場に、再び鬨の声が響いた。


 戦はまだ終わらない。


 だが。


 ここから先は、ただ兵をぶつけ合う戦ではなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。