第五十一章 戦場を読む者
第五十一章 戦場を読む者
戦場には、音があった。
鉄砲の轟音。
怒号。
馬の嘶き。
槍と槍がぶつかる音。
そして、それらすべての間にある――奇妙な静けさ。
高槻宗一郎は、その静けさを嫌っていた。
静かな場所ほど、何かが起きる。
兵が息を整えているのか。
指揮官が次の命令を待っているのか。
あるいは、敵が次の一手を決めたのか。
「……動かない」
宗一郎は前方を見つめた。
武田の中央。
さきほどまで激しく押してきていた部隊が、わずかに速度を落としている。
撤退ではない。
崩れたわけでもない。
ただ、止まった。
その向こうには、赤い旗。
さらに奥には、武田の本陣。
「半兵衛」
「はい」
「どう見る?」
少し離れて戦場を見ていた竹中半兵衛が、目を細めた。
「武田が、こちらの中央を見ているのは間違いありません」
「うん」
「ですが……」
半兵衛は西へ視線を向けた。
森の出口。
そこには明智光秀の部隊がいる。
さらに東。
柴田勝家の部隊が、武田の騎馬隊と激しくぶつかっていた。
「中央だけを見ているようには思えません」
「俺もそう思う」
宗一郎は地図を広げた。
戦場を完全に再現したものではない。
だが、地形、道、林、低地、川筋、兵の現在位置が記されている。
以前なら、こうした地図は宗一郎自身の頭の中にしかなかった。
今は違う。
測量する者がいる。
記録する者がいる。
戦場で位置を確認する者がいる。
そして、それを後方へ伝える者がいる。
軍が大きくなればなるほど、こうした仕組みが効いてくる。
「武田は、中央を押しながら……」
宗一郎の指が地図の上を滑った。
「両翼を見ている」
「つまり?」
「俺たちが中央を守ろうとして兵を寄せた瞬間、左右のどちらかを抜くつもりだ」
半兵衛が小さく頷く。
「ならば、こちらも中央を厚くするべきでは?」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「それを待っている」
半兵衛の目が鋭くなる。
「……なるほど」
「武田は強い」
宗一郎は敵陣を見た。
「だからこそ、こっちが普通に考えて普通に動くと、その普通を利用される」
戦場では、正しい判断が正しいとは限らない。
相手も同じように考えているからだ。
宗一郎はそのことを、何度も学んできた。
「伝令」
「はっ!」
「柴田殿へ。中央への増援は送らない。今の位置を維持」
「承知!」
「明智殿にも同じだ。森の出口を守る。ただし、深追いは禁止」
「はっ!」
「そして丹羽殿へ」
宗一郎は一瞬、中央を見た。
「大筒の準備を続けろ」
「撃つので?」
「まだだ」
宗一郎は答えた。
「撃つ場所を決めてからだ」
大筒は強力だった。
だが、強力であることと便利であることは違う。
撃てば、音と煙が戦場を覆う。
砲身は熱を持つ。
次弾まで時間がかかる。
狙いも、鉄砲ほど正確ではない。
何より――敵も一度見れば学習する。
一発撃った。
だから次も同じ場所に撃てる。
そんな単純な兵器ではない。
宗一郎はそれを知っていた。
「使うなら……一度だけで、戦場を変える」
半兵衛が聞いた。
「どういう意味です?」
「敵が『そこを通れる』と思っている場所を、通れなくする」
宗一郎は西の森を指した。
「そこだ」
*
武田軍の中央では、兵たちが息を整えていた。
槍を握る手には汗。
甲冑の内側には熱がこもっている。
先ほどから何度も前へ進んだ。
だが、織田・徳川の陣は崩れない。
撃たれる。
倒れる。
それでも前へ進む。
織田の鉄砲は、一度撃って終わりではなかった。
後ろから次の兵が出てくる。
撃つ。
下がる。
次が出る。
その動きが繰り返される。
武田の兵たちは、すでに理解していた。
「また来るぞ!」
「盾を!」
「構えろ!」
声が飛ぶ。
しかし、完全には防げない。
鉄砲玉は盾を貫くこともある。
足を撃たれれば倒れる。
肩を撃たれれば槍を持てなくなる。
そして、一人が倒れると、その隙間を別の兵が埋める。
武田軍は止まらなかった。
だからこそ、織田軍も恐れていた。
普通ならば、これほど撃てば敵は下がる。
武田は下がらない。
むしろ、撃たれながらも前へ出てくる。
「……来るぞ!」
武田の兵が叫んだ。
中央が再び動いた。
今度は先ほどより速い。
「構え!」
織田の足軽たちが銃を構える。
「撃て!」
轟音。
白煙。
前列の武田兵が倒れる。
しかし、その後ろからまた兵が出る。
「第二列!」
撃つ。
また倒れる。
それでも武田は止まらない。
「来る!」
槍が前へ出た。
織田軍の前列と武田軍がぶつかった。
鉄砲の音が途切れ、今度は槍の音が戦場を支配する。
槍先が甲冑に食い込む。
兵が倒れる。
別の兵がその脇から槍を突き出す。
「押せ!」
「下がるな!」
「徳川隊、右へ!」
命令が飛び交う。
だが、戦場では命令通りに全員が動くわけではない。
聞こえない者がいる。
伝わらない者がいる。
負傷して動けない者がいる。
恐怖で足が止まる者もいる。
その小さな乱れが、やがて大きな穴になる。
宗一郎はそれを見ていた。
「……まだだ」
今、中央を助けに行けば。
おそらく一時的には押し返せる。
だが、その瞬間に東か西が薄くなる。
武田はそこを突くだろう。
「戦場は……中央だけじゃない」
宗一郎は呟いた。
*
後方本陣。
織田信長は、馬上ではなく高所から戦場を見ていた。
その隣には、一人の少年が控えている。
森蘭丸。
森可成の子である。
可成は、すでにこの世にいない。
宇佐山で戦い、信長のために命を落とした。
蘭丸は父を失っている。
だが、戦場に出て父の跡を継ぐほどの年齢ではない。
今は信長の小姓として、その傍にいる。
「……殿」
蘭丸が小さく声をかけた。
「なんだ」
「あの中央は……危ないのではありませんか?」
信長は答えなかった。
ただ戦場を見ている。
中央では、武田が押している。
徳川隊は何度も下がっている。
織田の兵も前へ出ている。
普通に見れば、中央が崩れかけている。
「そう見えるか」
「はい」
「ならば、なぜ高槻は動かん?」
蘭丸は黙った。
しばらく考える。
「……中央を助ける必要がない?」
「違う」
「では……」
「必要がないのではない」
信長は静かに言った。
「今、動く方が危ないと考えている」
蘭丸は再び戦場を見た。
まだ分からない。
だが、信長がそう言うなら、何かあるのだろう。
「高槻殿は、敵を全部倒そうとしているのですか?」
「いや」
信長の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「奴が見ているのは、敵ではない」
「……?」
「戦場だ」
蘭丸はその言葉を覚えた。
敵兵を見る。
味方を見る。
旗を見る。
槍を見る。
だが、それだけではない。
道を見る。
森を見る。
兵が逃げる方向を見る。
そして、敵が次に何をしたいのかを見る。
蘭丸は初めて、戦場というものを少し違った目で見た。
「殿」
「うん?」
「あの森は……」
蘭丸が西を指した。
「武田が狙っているように見えます」
信長は少年を見た。
そして、再び戦場へ視線を戻す。
「……そうだ」
短く答えた。
「よく見ている」
蘭丸は少しだけ背筋を伸ばした。
*
武田本陣。
武田信玄もまた、戦場を見ていた。
その目は鋭い。
だが、その身体は以前ほど思うようには動かない。
胸の奥に重いものがある。
息を深く吸うと、鈍い痛みが走った。
それでも信玄は顔に出さない。
「左備え、まだ動かぬか」
「はい」
「中央は?」
「織田・徳川ともに持ちこたえております」
「そうか」
信玄は目を細めた。
高槻宗一郎。
あの男は中央を守っているように見える。
だが、実際には違う。
中央を囮にしている。
「高槻は……」
信玄が呟いた。
「こちらが中央に力を掛けるほど、左右を守れる」
側近が尋ねる。
「では、中央をさらに押しますか?」
「押す」
信玄は即答した。
「だが、目的は中央突破ではない」
地図を見た。
「高槻が中央へ兵を寄せるまで待つ」
「……」
「奴が動けば、東か西が薄くなる」
信玄の指が西へ向いた。
「左備えは森へ入れ」
「承知しました」
「ただし、深く入るな」
信玄は一拍置いた。
「森の出口を取ればよい」
それだけでいい。
織田軍の後方へ抜ける必要はない。
補給路を脅かす。
伝令を乱す。
鉄砲隊の後方を見せる。
それだけで、織田軍は中央を無視できなくなる。
信玄はそれを狙っていた。
「高槻がどう動くかを見る」
だが、その直後。
信玄の胸に、また痛みが走った。
「……っ」
わずかに身体が揺れる。
側近がすぐに気付いた。
「御屋形様……」
「大事ない」
「しかし――」
「戦場を見よ」
信玄は遮った。
「今、目を離すわけにはいかぬ」
側近は口を閉じた。
信玄自身も分かっている。
以前より疲れやすい。
息が続かない。
眠っても身体の重さが抜けない。
だが、今は戦場だ。
自分がここにいること自体が、武田軍にとって意味を持つ。
「まだだ」
信玄は呟いた。
「まだ、戦は終わっておらぬ」
*
「来た」
宗一郎が言った。
西の森。
武田兵が動き始めた。
明智隊の前方へ姿を現す。
だが、正面から突っ込んではこない。
木々の間を利用し、少しずつ進んでいる。
「明智殿へ伝令!」
「はっ!」
「森の出口を絶対に空けるな。ただし、追うな」
伝令が走る。
その直後。
「高槻様!」
別の伝令が駆け込んできた。
「中央、武田が再び押してきます!」
「分かっている」
「援軍は?」
「出さない」
「……はっ!」
伝令が去る。
宗一郎は地図を見た。
中央。
西。
東。
そして――大筒。
「与吉」
「はい!」
研究所から来た若い技術者が駆け寄った。
その顔には緊張が浮かんでいる。
初めての実戦。
自分が作ることに関わったものが、本当に人のいる戦場で使われる。
「砲身は?」
「冷却を挟みながらなら、次弾の準備に入れます」
「照準は?」
「先ほどより修正しています」
「弾は?」
「あります」
「火薬は?」
「問題ありません」
宗一郎は頷いた。
「なら、まだ待つ」
与吉が驚いた。
「撃たないのですか?」
「今撃てば、武田は散る」
「はい」
「でも、散った兵はまた集まれる」
宗一郎は森の出口を見た。
「俺が欲しいのは、敵兵の死体じゃない」
与吉が黙って聞く。
「武田が『ここは通れない』と思う瞬間だ」
宗一郎は指を上げた。
「そこまで待つ」
戦場の向こうで、武田軍が森へ入っていく。
明智隊が迎え撃つ。
槍がぶつかる。
鉄砲が鳴る。
木々の間から怒号が響く。
そして中央では、武田軍がさらに前へ出た。
武田は二つの場所で同時に圧力を掛けている。
中央を押す。
西から回る。
どちらかが成功すれば、織田軍は崩れる。
宗一郎は、その瞬間を待った。
敵が最も前へ出た瞬間。
そして味方が最も危険になる瞬間。
「……まだ」
中央で兵が倒れた。
「まだだ」
明智隊が一歩下がった。
「まだ……」
武田兵が森の出口へ近づく。
宗一郎の目が細くなった。
「今だ」
大筒の前にいる兵たちが、一斉に動いた。
「目標、森の出口!」
与吉が叫ぶ。
「撃て!」
次の瞬間。
大地が震えた。
轟音が戦場を覆う。
白煙が一気に広がり、森の出口付近の土塁が吹き飛んだ。
武田兵の足が止まった。
道が消えた。
進めない。
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
「明智殿へ!」
宗一郎が叫ぶ。
「今だ!」
明智隊が前へ出る。
森の中で押されていた織田兵が、一斉に槍を突き出した。
武田兵は退く。
だが、中央ではまだ武田軍が前へ出ている。
宗一郎は中央を見る。
そして、東を見る。
柴田隊もまだ耐えている。
「……これでいい」
敵を倒したわけではない。
戦争を終わらせたわけでもない。
ただ、武田が選べる道を一つ潰した。
その一つが、戦場全体を変えていく。
宗一郎は再び中央へ目を向けた。
「さて……」
武田の本当の狙いは、まだ終わっていない。
むしろ――
ここからだった。




