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第五十章 崩れぬ中央、揺れる総大将

第五十章 崩れぬ中央、揺れる総大将


 武田本隊が、再び動いた。


 今度は違った。


 先ほどまでのように、ただ中央へ兵を押し込むのではない。


 前列が進み、その後ろを二列目が支える。


 三列目は少し距離を置き、前列の乱れを補う。


 さらに後方には騎馬。


 中央突破のために兵力を集中させながらも、左右の連絡だけは切らない。


「……整っている」


 宗一郎は思わず呟いた。


 武田軍は、前の戦いで生じた混乱をそのままにしていない。


 撃たれれば散る。


 押し込めば集まる。


 退けば次の列が受け止める。


 まるで一つの生き物のようだった。


「高槻様!」


 前方から伝令が駆けてくる。


「中央、徳川勢が押されています!」


「どこまで?」


「予定線まで、あと三十歩!」


 宗一郎は地面を見る。


 あらかじめ測っておいた目印。


 杭。


 石。


 倒木。


 地形そのものを使って、兵がどこまで退いてよいかを決めていた。


「まだ慌てるな」


「ですが!」


「三十歩ある」


 宗一郎は静かに答えた。


「三十歩あるうちは、まだ戦場は崩れていない」


 伝令は頷き、戻っていった。


 しかし、その直後。


 中央から凄まじい怒号が上がった。


「来たぞ!」


「槍を揃えろ!」


「押し返せ!」


 武田兵が一気に前へ出た。


 槍が突き出される。


 徳川兵が受ける。


 一本の槍が折れた。


 二本目が折れた。


 その隙間から武田兵が入り込む。


「入らせるな!」


 徳川の足軽が刀を抜いた。


 槍では間に合わない。


 至近距離で刀がぶつかる。


 鎧に刃が食い込む。


 武田兵が倒れた。


 だが、その後ろから別の兵が入ってくる。


 倒れた味方を踏み越えた。


 さらに一人。


 さらに二人。


 中央の線が押し込まれる。


「あと二十歩!」


 伝令の声。


 宗一郎は馬を進めた。


「高槻様!」


 丹羽長秀が止めようとする。


「前へ出すぎです!」


「見に行く」


「危険です!」


「分かっている」


 宗一郎は答えた。


「だから行く」


 中央へ近づく。


 そこには、戦場の現実があった。


 土は踏み荒らされている。


 血が泥と混じっている。


 鉄砲の煙が低く漂い、視界を塞いでいる。


 倒れた兵がいる。


 負傷して動けない者もいる。


 その横を、まだ戦える兵が必死に走っている。


「下がれ!」


 誰かが叫ぶ。


「まだだ!」


 別の者が怒鳴る。


「俺たちが下がったら後ろがやられる!」


 宗一郎はその声を聞いた。


 胸の奥が重くなる。


 これが戦だ。


 地図の上なら、一本の線を後ろへ動かすだけだ。


 しかし実際には。


 その一歩の後退に、人間の恐怖がある。


 仲間を置いていく恐怖。


 敵に背を向ける恐怖。


 そして、自分が次に倒れるかもしれないという恐怖。


 それでも兵たちは立っている。


「……あと十歩!」


 徳川側の指揮官が叫ぶ。


「十歩だけだ!」


 武田の槍が迫る。


 徳川兵が後退する。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そして。


 予定線に達した。


「今だ!」


 宗一郎が叫んだ。


 背後に控えていた織田兵が前へ出た。


 槍衾が形成される。


 同時に、左右の鉄砲隊が前へ出る。


「構え!」


 武田兵が迫る。


「撃て!」


 轟音。


 至近距離からの一斉射撃。


 武田の前列が崩れた。


 しかし。


 その後ろから武田兵が押し出してくる。


「まだ来る!」


 誰かが叫ぶ。


 宗一郎は歯を食いしばった。


「……強いな」


 武田軍は、銃撃を受けても前進をやめない。


 だが、それは無謀な突撃ではなかった。


 倒れた兵の間を避けながら進む。


 密集しすぎない。


 左右へ逃げ道を残す。


 指揮官が叫び、旗が動く。


 そのたびに兵が微妙に方向を変える。


「丹羽殿」


「武田は、中央突破を諦めていない」


「見れば分かります」


「いや」


 宗一郎は武田軍を見つめた。


「諦めていないというより、中央突破にこだわる必要がなくなってきた」


 長秀が眉を寄せる。


「どういうことです?」


「俺たちが中央を守るために、兵を集め始めた」


 宗一郎は左右を見る。


「東も西も、最初より薄くなっている」


「……なるほど」


「武田は中央を抜けなくてもいい」


 宗一郎は言った。


「俺たち自身に中央へ兵を集めさせればいい」


 その瞬間。


 西の森から法螺貝が鳴った。


 続いて東。


 そして中央。


 三方向。


「信号です!」


 伝令が叫ぶ。


 宗一郎は一瞬だけ目を閉じた。


「……やっぱりか」


 武田は三方向から同時に圧力をかけている。


 中央を押す。


 東を揺さぶる。


 西から回る。


 どこか一つが崩れれば、そこから全体が崩れる。


「明智へ伝令」


「はい!」


「森から出るな。出口を死守するだけでいい」


「承知!」


「柴田殿へ」


 宗一郎は東を見る。


「騎馬に付き合うな。正面を受けて、横へ流せ」


 伝令が走る。


「中央は?」


 丹羽が問う。


「ここで受ける」


「兵を増やしますか?」


 宗一郎は少し考えた。


「……増やす」


 そして後方を見る。


「秀吉隊を呼ぶ」


 だが、その時。


 別の伝令が駆けてきた。


「高槻様!」


「何だ?」


「羽柴様からです!」


「内容は?」


「『中央を支えるなら、自分たちは動く』と」


 宗一郎は笑った。


「……あの人は、こういう時だけ話が早い」


 秀吉隊が動き始める。


 後方から兵が走ってくる。


 中央へ。


 武田軍の側面へ回るためではない。


 崩れた場所を埋めるためだ。


 宗一郎はそれを見ながら、ふと思った。


 これまでの戦なら。


 強い武将が強い兵を率いて、敵の弱いところへ突っ込む。


 だが今、自分たちがしているのは違う。


 誰か一人の才覚だけに頼らず。


 空いた場所を別の部隊が埋める。


 兵站が続く。


 弾薬が続く。


 負傷者を後ろへ送る。


 命令が伝わる。


 それら全部が繋がっている。


 それこそが、今の織田軍の強さだった。


     ◆


 武田本陣。


 信玄は馬上ではなく、少し高くなった場所に立っていた。


 眼下には戦場。


 中央では武田軍が織田・徳川を押している。


 だが、突破できない。


「中央、あと少しです」


 側近が報告する。


「あと少し、か」


 信玄は呟いた。


 その声に力がないわけではない。


 だが。


 以前より少しだけ低かった。


「西は?」


「明智勢が森の出口を塞いでおります」


「東は?」


「柴田が騎馬を受け止めています」


「中央は?」


「高槻が指揮しております」


 信玄は目を細めた。


「……高槻か」


 その名を口にした瞬間。


 胸の奥に鈍い痛みが走った。


 信玄は表情を変えなかった。


 ただ、右手がわずかに腹部へ触れる。


「御屋形様?」


「何でもない」


 側近は黙った。


 しかし。


 信玄の呼吸が一度だけ浅くなったことを見逃さなかった。


「少し、お休みを」


「必要ない」


「ですが――」


「戦場が動いている」


 信玄は遮った。


「ここで私が休めば、兵が不安になる」


 それは事実だった。


 だが。


 信玄自身にも分かっていた。


 以前なら、一中夜戦場を見続けてもこれほど身体が重くなることはなかった。


 喉の奥に残る違和感。


 時折襲ってくる咳。


 疲労の抜けにくさ。


 そして。


 最近になって増えた、胸の奥の痛み。


 原因を、信玄は深く考えないようにしていた。


 病名を確定させるほど、身体を診せている暇もない。


 何より。


 今は戦場だ。


「御屋形様」


 側近が小さく声をかける。


「何だ」


「お顔の色が……」


 信玄は笑った。


「戦場にいれば、誰でも悪くなる」


 そして視線を戦場へ戻した。


 だが、その直後。


 咳が出た。


 一度。


 二度。


 三度。


 信玄は袖で口元を覆う。


 側近は見た。


 白い布。


 そこに、ごく小さな赤が滲んでいた。


「……!」


 側近が息を呑む。


 信玄はそれを見て。


 布を静かに畳んだ。


「誰にも言うな」


「しかし――」


「今は戦場だ」


 その言葉には、以前と変わらぬ強さがあった。


 だが。


 側近には分かった。


 信玄の身体は、確実に何かを抱えている。


 それは高槻宗一郎が仕掛けたものではない。


 戦のために病を悪化させたものでもない。


 ただ。


 すでにそこにあったものが、長い戦と疲労によって、少しずつ表へ出てきている。


 信玄はそれを押し隠したまま、戦場を見続けた。


     ◆


 中央。


 武田軍がまた動いた。


「来るぞ!」


 織田兵が叫ぶ。


 武田の旗が前へ進む。


 その瞬間、秀吉隊が中央左から入った。


「押し返せ!」


 羽柴隊の槍が武田兵に突き込まれる。


 武田兵も応じる。


 槍が交差する。


 押す。


 押される。


 足元の泥に足を取られる。


 一人が倒れる。


 後ろの兵がその穴を埋める。


 さらに後ろから別の兵が押し出される。


 戦場は、人の波になっていた。


 その中で。


 宗一郎は一つの変化に気づいた。


「……武田の中央、薄くなった」


 長秀が振り返る。


「本当ですか?」


「左右へ兵を回している」


 宗一郎は双眼鏡を上げる。


 武田の中央後方。


 騎馬が少しずつ西へ移動している。


「信玄は、中央を本当に抜くつもりじゃない」


「では?」


「中央を押し続けて、俺たちの視線をここへ固定する」


 宗一郎は東を見る。


 そして西を見る。


「その間に、どちらかを抜く」


 長秀が息を呑む。


「東か、西か……」


「分からない」


 宗一郎は即答した。


「だから両方を見る」


「兵が足りません」


「だから、地形を使う」


 宗一郎は地図を広げた。


 中央。


 西の森。


 東の開けた土地。


 その三つを指で繋ぐ。


「俺たちは全部を守る必要はない」


「……?」


「武田に、どこを攻めるか選ばせない」


 宗一郎は顔を上げた。


「戦場そのものを狭くする」


 遠くで。


 再び大筒の準備が始まった。


 まだ砲身は熱い。


 すぐには撃てない。


 だが。


 武田軍から見れば。


 そこに大筒が存在しているだけで、選べる道が減る。


 森の出口。


 開けた土地。


 中央。


 どこへ兵を動かしても。


 そこには織田の目がある。


 宗一郎は静かに刀を掲げた。


「旗を動かせ」


「どこへ?」


「中央じゃない」


 宗一郎は西を指した。


「武田に見せる」


 そして東を指す。


「東にも見せる」


「……両方ですか?」


「ああ」


 実際には兵を大きく動かさない。


 旗だけを動かす。


 太鼓だけを鳴らす。


 伝令を走らせる。


 武田に「織田は両翼を警戒している」と思わせる。


 そして中央には。


 必要最小限の兵だけを残す。


 武田がそれを見抜くか。


 それとも。


 こちらの偽装に乗るか。


 戦場の読み合いが始まった。


 その時。


 武田本陣でも、信玄が同じように地図を見ていた。


「……高槻は、兵を動かしていない」


 側近が答える。


「しかし旗は動いております」


「そうだ」


 信玄は頷いた。


「だからこそ、動かしていない」


 信玄の目が鋭くなる。


「高槻は、我らに選択肢を与えたように見せている」


 側近が息を呑む。


「ならば……」


「中央だ」


 信玄は言った。


「中央を押せ」


 だが。


 言葉を発した直後。


 再び咳が出た。


 今度は先ほどより長かった。


 信玄は身体をわずかに折る。


 側近が駆け寄る。


「御屋形様!」


「触るな」


 信玄は手を上げた。


 数度、深く息を吸う。


 そして。


 ゆっくり身体を起こした。


「……まだだ」


 その声は小さかった。


 だが、戦場に向ける目だけは変わらない。


「まだ、戦は終わっていない」


 中央では。


 武田本隊が再び前進を始めていた。


 織田・徳川も槍を構える。


 銃口が並ぶ。


 大筒は次の一撃を待つ。


 東では柴田が騎馬とぶつかり。


 西では明智が森の出口を守る。


 そして中央では。


 武田と織田が、互いの意志を押しつけ合う。


 どちらも退かない。


 どちらも崩れない。


 ただ一つ。


 時間だけが。


 少しずつ、武田信玄の身体を削っていた。

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