第四十九章 中央、裂ける
第四十九章 中央、裂ける
太鼓が鳴った。
一度。
低く、長い音だった。
続いて、二度。
今度は短い。
その音が山際から中央へ伝わった瞬間、武田本隊の前列が動いた。
土煙が上がる。
幾重にも並んだ兵が、足並みを崩さずに低地へ降りてくる。
先頭に立つのは槍を持った足軽たち。
その後ろに弓。
さらに鉄砲。
そして、戦場の各所へ送り出すための騎馬。
以前の戦いで見せた騎馬隊中心の突撃とは違う。
宗一郎は、それを見た瞬間に理解した。
「……変えてきた」
隣にいた丹羽長秀が眉を寄せる。
「何をだ?」
「武田は、こちらの戦い方を覚えた」
宗一郎は双眼鏡を下ろした。
「鉄砲の間隔を空けている。前に密集していたところを、最初から散らしている」
「こちらの一斉射撃を警戒しているということか」
「それだけじゃない」
宗一郎は地図を見る。
中央。
東。
西。
そして、その後ろ。
「中央を抜くことそのものが目的じゃない」
「では?」
「俺たちの陣形を、中央から裂く」
長秀の表情が険しくなった。
「中央が裂ければ、東西の部隊が孤立する」
「そうです」
宗一郎は頷いた。
「そして孤立したところへ騎馬を入れる」
その時だった。
武田軍中央から、甲高い法螺貝が鳴った。
次の瞬間。
武田の前列が一斉に走り出した。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
織田・徳川の兵たちが槍を構える。
前列の足軽が盾を上げた。
宗一郎はまだ撃つなと手を上げる。
「待て!」
兵たちの緊張が高まる。
武田軍との距離が縮まる。
二百間。
一百五十。
一百。
まだ撃たない。
敵兵の顔が見える。
槍を握る手。
汗。
歯を食いしばる顔。
足元の土を蹴る足。
その全てが、こちらへ迫ってくる。
「まだだ……」
宗一郎は呟いた。
鉄砲足軽の一人が震える手で火縄を握っている。
隣の兵が小声で言った。
「……まだか」
「まだだ」
宗一郎は繰り返す。
八十間。
七十。
六十。
その瞬間。
「撃て!」
轟音が戦場を覆った。
前列の火縄銃が一斉に火を噴く。
煙が広がる。
武田軍の先頭が崩れた。
何人かがその場に倒れる。
しかし。
後ろから来る兵が、その穴を埋めた。
「……!」
宗一郎の目が細くなる。
想定していた。
だが、実際に見ると重い。
武田は止まらない。
「第二列!」
合図。
後列が前へ出る。
紙包みを破る。
火薬を入れる。
弾を込める。
火縄を確認する。
そして撃つ。
第一列は後ろへ下がり、再装填へ。
以前なら、熟練兵と未熟な兵の差が大きかった。
だが今は違う。
誰が撃っても同じ手順になるよう、訓練されている。
それでも。
武田軍は進む。
「まだ来るか……!」
丹羽が唸った。
「来ます」
宗一郎は答えた。
「だからこそ、ここからが本当の戦いです」
武田軍の先頭が織田・徳川の槍衾へぶつかった。
激しい衝突音。
槍と槍。
刀と刀。
怒号。
悲鳴。
倒れた兵を踏み越えて、後ろの兵が前へ出る。
「押せ!」
「退くな!」
「槍を揃えろ!」
中央が一気に乱れた。
宗一郎は前線を見た。
徳川兵が押されている。
一歩。
二歩。
じりじりと後退している。
「高槻様!」
伝令が駆けてきた。
「徳川左翼、押されています!」
「まだ動かすな」
「しかし――」
「予定通りだ」
宗一郎は中央の地面を見た。
最初に決めた退却線。
そこまでは下がっていい。
それを越えなければいい。
「徳川は十歩下がる」
「十歩……」
「それ以上は下がらない」
伝令が走っていく。
やがて中央から声が上がった。
「下がれ!」
徳川兵が一斉に後退する。
武田軍が押してくる。
まるで逃げるように見えた。
だが、そこには意味があった。
武田軍が前進したことで、その背後にいた兵との距離が縮まった。
武田の前列が伸びる。
後列が追いつこうとする。
わずかに隊列が乱れた。
「今だ」
宗一郎が言った。
合図旗が上がる。
左右から織田兵が前へ出た。
中央から退いた徳川兵が、横へ開く。
武田軍の前進を受け止めるために、第二の線が現れた。
「何だ……?」
武田の足軽が戸惑う。
逃げたはずの敵が、消えたのではない。
後ろにいた別の兵が、新たな壁になっている。
「押せ!」
武田側の指揮官が叫ぶ。
「一気に抜け!」
武田兵が槍を突き出す。
織田兵も槍を返す。
中央は再び血煙に包まれた。
宗一郎はその光景を見ながら、拳を握った。
戦術は機能している。
だが。
人間は機械ではない。
目の前で仲間が倒れれば、足が止まる。
隣の兵が槍を折られれば、恐怖が走る。
鉄砲が不発になれば、手順通りでも次の一発まで時間がかかる。
「……戦争っていうのは」
宗一郎が呟く。
「最後は、数字じゃないな」
その時。
中央後方から別の太鼓が鳴った。
武田軍だった。
宗一郎が顔を上げる。
「何だ?」
武田軍の中央後方から、騎馬が動き始めた。
「騎馬……!」
丹羽が叫ぶ。
だが、騎馬は中央へ突っ込んではこなかった。
東へ向かっている。
「柴田隊か!」
宗一郎は東を見る。
開けた土地。
そこでは柴田勝家の部隊が武田騎馬隊と激しくぶつかっていた。
騎馬の速度。
槍の壁。
馬の嘶き。
勝家自身が前へ出ている。
「柴田隊が引きつけられている」
丹羽が言う。
「そういうことです」
宗一郎は頷いた。
「武田は中央を押すだけじゃない。東を開けたい」
東が開けば、中央の側面が露出する。
そこへ騎馬を入れれば、徳川の第二線を横から叩ける。
「柴田様へ伝令!」
「何と?」
「中央へ寄るな」
「しかし中央が――」
「中央は持つ」
宗一郎は即答した。
「東を捨てるな。武田騎馬をここから動かすな」
伝令が走る。
その直後。
西からも伝令が来た。
「高槻様! 明智隊より!」
「何だ?」
「森の出口へ武田兵が向かっています!」
宗一郎は地図を見る。
やはり来た。
西も同じだった。
武田は中央を突破するように見せながら、東西から包囲の形を作っている。
「信玄は……」
宗一郎は遠くの武田本陣を見た。
そこに、一人の男が立っている。
武田信玄。
直接戦っているわけではない。
しかし、その視線は戦場全体を見ていた。
中央。
東。
西。
そして織田の後方。
「……戦場を一枚で見ている」
宗一郎は呟いた。
その時だった。
武田中央の兵が、再び前へ出た。
今度は明らかに違う。
最初の攻撃よりも密度が高い。
槍兵が中央へ集中している。
「高槻様!」
丹羽が叫ぶ。
「中央、来ます!」
「分かってる!」
宗一郎は砲兵へ向き直った。
「大筒の準備!」
与吉が振り返った。
「目標は?」
宗一郎は西の森の出口を見る。
武田兵が集まり始めている。
「森の出口」
「中央では?」
「撃たない」
与吉が驚いた。
「ですが中央が――」
「中央はまだ持つ」
宗一郎は言った。
「森から出てくる兵を止めれば、武田は中央に全力を注げなくなる」
与吉は理解した。
「……敵の道を塞ぐ」
「そうだ」
大筒の向きが変わる。
砲身がゆっくりと西へ向いた。
火薬が詰められる。
砲手が距離を確認する。
しかし。
武田軍もそれに気づいた。
森の手前で動きが止まった。
「見られています」
与吉が言った。
「当然だ」
宗一郎は答えた。
武田はもう大筒を知らない軍ではない。
先ほどの一撃を見ている。
だからこそ。
撃つ前に狙われる。
森の中から弓が飛んだ。
ひゅっ、と風を切る音。
大筒の周囲にいた兵が身を伏せる。
一人の兵の肩に矢が突き刺さった。
「負傷者を下げろ!」
宗一郎が叫ぶ。
衛生兵が駆ける。
与吉が歯を食いしばった。
「……撃てます」
「撃て」
与吉が火を入れた。
一瞬。
戦場が静かになったように感じられた。
次の瞬間。
轟音。
地面が揺れた。
大筒から放たれた弾が、森の出口近くの土塁へ突き刺さった。
土が吹き飛ぶ。
木片が舞う。
武田兵が散った。
だが、武田は止まらない。
森の奥へ退いた。
「……効いた」
与吉が呟く。
「でも、一発だけだ」
宗一郎は答えた。
大筒の周囲では煙が充満している。
砲身は熱を持ち、すぐには次弾を撃てない。
「だからこそ」
宗一郎は中央を見る。
「一発で勝とうとするな」
中央では、今も槍がぶつかっていた。
武田兵が織田・徳川の第二線へ食い込んでいる。
一人の徳川兵が倒れる。
その隣の兵が一歩下がる。
さらに隣も下がる。
その瞬間、三人分の隙間ができた。
「そこを埋めろ!」
徳川の指揮官が叫ぶ。
しかし武田の槍が、その隙間へ突き込まれる。
一人。
二人。
兵が倒れた。
武田兵がさらに前へ出る。
中央の線が、初めて大きく揺れた。
「高槻様!」
丹羽が叫ぶ。
宗一郎は前線を見た。
そして。
刀を抜いた。
「長秀」
「はっ」
「中央へ行く」
「自ら?」
「ここが崩れたら、東も西も意味がなくなる」
宗一郎は馬に乗った。
「大筒は次弾を急ぐな。砲身を冷やせ。無理をすれば壊れる」
「承知!」
「鉄砲隊は予定通り。中央の穴を埋める」
そして前へ進む。
そこには、すでに武田兵がいた。
槍が迫る。
宗一郎の護衛が前へ出た。
「高槻様!」
槍がぶつかる。
火花が散る。
一人の武田兵が叫びながら斬り込んできた。
宗一郎は馬を引いた。
槍先が頬をかすめる。
熱い。
血が流れる。
「……っ!」
次の瞬間、護衛の槍が武田兵を押し返した。
「高槻様、下がってください!」
「まだだ!」
宗一郎は中央を見る。
そこには、恐怖に顔を歪めながらも槍を握る兵たちがいた。
彼らは退いていない。
自分たちの後ろにいる者を守っている。
宗一郎は刀を握り直した。
「ここを越えさせるな!」
声を張る。
「今日ここを越えられたら、次は後ろの兵が殺される!」
兵たちが顔を上げた。
「だから――」
宗一郎は武田軍を睨んだ。
「ここで止める!」
その声に応えるように、織田の太鼓が鳴った。
東では柴田が武田騎馬を押し返している。
西では明智が森の出口を塞いでいる。
中央では徳川と織田が第二線を作る。
そして後方では、大筒が次の一撃を待っている。
戦場は三つに裂かれようとしていた。
だが。
その三つは、まだ一本の線で繋がっている。
その線を守ることができるか。
それが、この戦いの本当の勝負だった。
遠くの武田本陣。
信玄はそれを見ていた。
中央の高槻。
東の柴田。
西の明智。
そして後方の大筒。
その配置を見て、信玄は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
隣の重臣が問う。
「何か?」
「高槻は、兵を勝たせようとしているのではない」
「では?」
信玄は戦場から目を離さなかった。
「戦場そのものを、勝てる形に変えようとしている」
その言葉の直後。
信玄の胸の奥に、鈍い痛みが走った。
「……っ」
一瞬、眉が動く。
側にいた者だけが気づいた。
「御屋形様」
「何でもない」
「しかし――」
「戦場を見よ」
信玄は静かに言った。
「今、目を離せる戦ではない」
痛みは消えない。
だが信玄は立っていた。
病を押してまで戦場にいることを、誰にも悟らせまいとするように。
その視線の先で。
武田本隊が、再び中央へ向けて動き始めた。
今度は、先ほどよりもさらに深く。
中央突破。
それはまだ終わっていない。
むしろ。
ここからが、本当の勝負だった。




