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第四十八章 中央突破

第四十八章 中央突破


 夜が明ける前。


 まだ空が白み始めたばかりの頃、宗一郎は地図の上に手を置いていた。


「ここだ」


 指先が、戦場中央を横切る一本の線をなぞった。


「この低地が、今回の戦場になる」


 高槻陣の周囲には、昨夜のうちに簡単な地形図が広げられていた。


 完全な測量図ではない。


 だが、普通の軍が持つ絵図とは違う。


 道。


 川。


 斜面。


 林。


 丘。


 馬が通れる場所。


 荷車が通れる場所。


 そして大筒を動かせる場所。


 それらが、できる限り書き込まれている。


 宗一郎は地図の中央を指した。


「ここが低地です」


 丹羽長秀、明智光秀、柴田勝家、羽柴秀吉。


 それぞれが地図を覗き込んでいた。


「低地の中央は比較的開けている。武田が大兵力を使うなら、ここが一番動きやすい」


 宗一郎の指が西側へ動く。


「こちらは緩い斜面。その先に林があります」


 明智を見る。


「光秀殿には、ここをお願いします」


「承知しました」


「武田騎馬が大規模に入り込む場所ではありません。ですが、歩兵なら十分に通れる」


「つまり、武田の左翼をここで止める」


「はい」


 次に東側。


「こちらは開けています」


 柴田を見る。


「騎馬が動きやすい」


「ならば、俺のところですな」


 勝家が笑った。


「ただし、追わないでください」


「……またそれですか」


「武田は退いたように見せて、こちらを開けさせる可能性があります」


 勝家は少し黙った。


「分かった」


 短い返事だった。


 宗一郎は中央へ戻る。


「ここが俺と丹羽殿」


 低地の後方。


 そこに大筒を置く。


 そのさらに後ろに予備弾薬。


 その後ろに負傷者を運ぶ道。


「大筒はここから動かす」


 宗一郎は横へ線を引いた。


「ただし、簡単には動かせない」


「承知しております」


 与吉が答えた。


 大筒は強力だ。


 だが重い。


 撃つたびに反動で位置がずれる。


 砲身は熱を持つ。


 再装填にも時間がかかる。


 そして何より、敵が近づけば砲員そのものが危険になる。


 宗一郎はそこを理解していた。


「大筒を守るために戦うな」


 与吉を見る。


「戦場を守るために大筒を使う」


「……はい」


「撃てないなら撃たなくていい」


 それが宗一郎の命令だった。


 武器を使うことが目的になってはいけない。


 武器は、戦場を動かすための手段だ。


 そして最後に、徳川の位置。


「ここ」


 低地の中央前方。


 家康の軍がいる。


 武田から見れば、ここが一番崩しやすい。


 すでに何度も戦っている。


 疲労も蓄積している。


 それでも、ここを離れれば織田中央が丸裸になる。


「徳川殿には、中央を維持してもらう」


 宗一郎は言った。


「ただし、危なくなれば下がることも許します」


 丹羽が眉を上げた。


「中央を?」


「はい」


「下がれば我々の前面が空きます」


「だからこそ、下がる方向を決めておく」


 宗一郎は地図に一本の線を引いた。


「ここまで」


 徳川が下がっても、織田が前へ出る。


 織田が前へ出れば、徳川はその後ろへ回る。


 完全な入れ替えではない。


 だが、前線が一枚の壁ではなく、複数の層になる。


「敵に押されたから崩れるのではない」


 宗一郎は言った。


「押された時に、どう動くかを決めておけばいい」


 誰も反論しなかった。


 やがて。


 東の空が赤くなった。


 朝だった。


 遠くで、武田の法螺が鳴った。


 低く。


 長く。


 大地を震わせるような音。


「……来ます」


 誰かが呟いた。


 宗一郎は立ち上がった。


「来るな」


 望遠鏡を構える。


 武田軍が見えた。


 昨夜と同じように見えて――。


 違った。


 昨日よりも密度が高い。


 中央。


 左右。


 さらに後方。


 兵が連なっている。


「武田本隊」


 宗一郎は呟いた。


 その中央には、ひときわ多くの旗がある。


 武田の本陣だった。


 その奥。


 さらに高い場所。


 赤い旗の向こうに、本陣が置かれている。


 信玄はそこにいた。


 馬上ではない。


 輿でもない。


 天幕の奥。


 椅子に腰を下ろし、戦場を見ている。


 身体は重い。


 胸の奥には、昨日から残る鈍い痛みがある。


 近習が気づいていた。


「御屋形様」


「何だ」


「少し、お休みを」


「まだだ」


 信玄は答えた。


 声はいつも通りだった。


「戦場が動く」


「しかし……」


「儂が寝ている間に勝てるなら、それでもよい」


 少し笑った。


「だが、そうではないだろう」


 近習は黙った。


 信玄は再び戦場を見る。


 遠くに、織田の旗。


 その中に高槻の旗がある。


「高槻宗一郎」


 小さく呟く。


「今日、奴は何をする」


 そして武田本隊が動いた。


「来ます!」


 織田側でも声が上がる。


 武田の中央が前進した。


 左右の部隊も動く。


 だが、昨日とは違う。


 左右は大きく広がらない。


 中央に厚く集まっている。


「中央突破……」


 丹羽が呟いた。


「そう見えます」


 宗一郎は答えた。


 だが、目は武田右翼を見ていた。


「ただし、完全な中央突破ではない」


「何?」


「右翼が少し遅い」


 宗一郎は望遠鏡を下ろした。


「中央を押して、こちらを釘付けにする」


 そして左翼を見る。


「左はさらに遅い」


「ならば?」


「中央突破に見せて、左右が開いた瞬間を狙う」


 丹羽が唸った。


「……武田は、こちらに中央を守らせたい」


「そうです」


 宗一郎は地図を見た。


 そして命令した。


「まだ撃つな」


 鉄砲隊が構える。


 武田兵が近づく。


 距離が縮まる。


 百五十。


 百二十。


 百。


 武田の先頭が走り始めた。


「撃て!」


 一斉射。


 銃声。


 白煙。


 武田兵が倒れる。


 だが、後ろが進む。


「第二列!」


 銃声。


 また倒れる。


 それでも止まらない。


「第三列!」


 銃声。


 武田本隊の先頭が崩れる。


 しかし。


 その瞬間だった。


「右!」


 叫び声。


 武田右翼が動いた。


 騎馬ではない。


 歩兵だ。


 低地の端を通って、織田軍右翼へ向かっている。


「柴田隊が狙われます!」


 伝令が叫ぶ。


 宗一郎は答えなかった。


 まだ動かない。


「高槻殿!」


 丹羽が振り返る。


「柴田を助けないのですか!」


「まだです」


「しかし――」


「武田の中央を見てください」


 丹羽が見る。


 中央がさらに厚くなっていた。


 兵が集まっている。


「……誘っている?」


「はい」


 宗一郎は言った。


「ここで柴田殿を助けるため中央を薄くすれば、武田本隊が入ってきます」


 その直後。


 武田中央が走り始めた。


「来た!」


 織田兵が叫ぶ。


 武田本隊が、一斉に突撃した。


 地面が震えた。


 槍が並ぶ。


 旗が揺れる。


 怒号が響く。


「撃て!」


 織田の鉄砲隊が一斉に火を噴く。


 武田兵が倒れる。


 それでも進む。


「槍隊!」


 織田の前列が槍を構える。


 武田の槍がぶつかった。


 衝撃。


 織田兵が二人倒れた。


 武田兵が一人倒れる。


 後ろから別の兵が押し込んでくる。


「押されるな!」


 宗一郎が叫ぶ。


 中央が揺れた。


 徳川軍が耐えている。


 家康も前線近くにいる。


「殿!」


 徳川兵が叫ぶ。


「ここを離れてください!」


「まだだ!」


 家康は怒鳴った。


「ここを離れれば織田が崩れる!」


 武田兵が迫る。


 徳川兵が槍を合わせる。


 その横で一人の兵が倒れた。


 別の兵が穴を埋める。


 しかし、少しずつ後退している。


「徳川が押されています!」


 伝令。


 宗一郎は地図を見る。


 そして中央を見る。


「……まだ」


 拳を握る。


 徳川がさらに一歩下がる。


「高槻殿!」


 丹羽が叫ぶ。


「援軍を!」


「まだです!」


「このままでは!」


「徳川は、決めた線まで下がっていい!」


 宗一郎は叫び返した。


「まだ崩れていない!」


 その言葉を聞いた家康は、後方から届いた伝令を受け取った。


「高槻から?」


「はい」


 家康は内容を聞いた。


 そして、歯を食いしばった。


「……分かった」


 家康は兵を見る。


「十歩下がる!」


 徳川軍が後退した。


 武田軍が追う。


 だが。


 その瞬間、徳川の後ろから織田兵が出た。


 鉄砲。


 槍。


 盾。


 新しい前線が形成される。


 徳川はその後ろへ回る。


 完全には崩れていない。


「……なるほど」


 武田本陣。


 信玄はそれを見ていた。


「高槻は、徳川を捨てぬ」


「はい」


「だが、徳川のために中央を崩しもしない」


 信玄は目を細めた。


「面倒な男だ」


 その時。


 胸の奥に、鈍い痛みが走った。


「……」


 信玄はわずかに身体を固くした。


 近習が気づく。


「御屋形様」


「騒ぐな」


「しかし」


「まだ戦場だ」


 信玄は袖を握った。


 呼吸を整える。


 ほんの短い時間。


 それだけでよかった。


 信玄は再び戦場を見る。


 中央では武田が織田・徳川を押している。


 だが、突破できない。


 左右では柴田と明智が持ちこたえている。


 羽柴は隙間を埋めるように動いている。


 そして高槻は――。


 動かない。


「……高槻」


 信玄は呟いた。


「お前は、何を待っている」


 その瞬間。


 武田の左翼が動いた。


 宗一郎の目が鋭くなる。


「来た」


 武田の狙いが見えた。


 中央突破は、本命ではない。


 中央で徳川を押し、織田を固定する。


 その間に左翼を林の向こうへ回す。


 明智を押さえれば、織田軍の後方へ出られる。


 そこから補給路を断つ。


 つまり。


 武田が狙っているのは、織田の兵ではない。


 織田の戦場そのものだった。


「伝令!」


「はっ!」


「明智殿へ!」


 宗一郎は叫んだ。


「武田左翼を林の中へ入れさせるな!」


「はい!」


「ただし、追うな!」


「承知!」


 次に別の伝令。


「柴田殿へ!」


「はい!」


「武田右翼が動いたら、中央へ寄せるな!」


「……中央へ?」


「武田に中央を空けさせるな!」


 伝令が走る。


 宗一郎は大筒を見る。


 まだ撃っていない。


 ここまで温存している。


 そして、ようやく理解した。


 大筒を撃つべき場所は、中央ではない。


 武田が最も欲しがっている場所。


 そこだった。


「与吉」


「はい!」


「次の一発は――」


 宗一郎は地図を指した。


「中央を撃たない」


 与吉が息を呑む。


「では、どこへ?」


 宗一郎は武田左翼の先を見た。


「林の出口だ」


 そこへ武田兵が集まり始めていた。


 大筒の射線。


 地形。


 敵の進路。


 全てが一本に重なった。


「一発で敵を殺すためじゃない」


 宗一郎は言った。


「道を閉じる」


 与吉が頷いた。


 砲員が動き始める。


 しかし。


 その動きを、武田側も見逃してはいなかった。


 武田の旗が変わる。


 中央の攻撃が、さらに激しくなる。


「来る!」


 織田兵が叫ぶ。


 武田本隊が、再び中央へ突っ込んできた。


 その瞬間。


 宗一郎は理解した。


 武田は、大筒を撃たせないつもりだ。


 そして。


 自分もまた。


 武田の思惑を潰すつもりだった。


 戦場の中央で、両軍の意志が正面からぶつかった。

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