第四十六章 武田本隊、来たる
第四十六章 武田本隊、来たる
武田本隊が動いた。
その瞬間、戦場の空気が変わった。
これまでの戦いは、言うなれば探り合いだった。
前衛同士がぶつかり、互いの力量を測る。
騎馬を走らせれば、鉄砲が迎え撃つ。
鉄砲が撃てば、武田は地形を利用して間合いを詰める。
大筒が撃てば、兵を散らす。
その繰り返しだった。
だが。
今、向こうから来ているのは違う。
武田の主力。
これまで温存されていた兵力が、戦場へ入ってくる。
「……来るぞ」
高槻宗一郎は、望遠鏡から目を離した。
遠くに見える武田の旗。
その数は、先ほどまでとは比べものにならない。
旗が動く。
その後ろで、人の波が動いている。
歩兵。
騎馬。
鉄砲。
槍。
弓。
それらが無秩序に進んでいるのではない。
それぞれが一定の距離を保ちながら、ゆっくりと前へ出てくる。
「武田は……崩れていない」
丹羽長秀が言った。
「ええ」
宗一郎は答えた。
「むしろ、ここまでの戦いでこちらを見ていた」
「鉄砲の撃ち方も、大筒も?」
「全部です」
宗一郎は頷いた。
「こちらが何を持っているかを確認してから、本隊を出してきた」
長秀は苦笑した。
「敵も、こちらと同じことを考えているわけですな」
「そういうことです」
遠くで太鼓が鳴った。
一度。
二度。
三度。
武田軍の前進が止まる。
そして――。
中央が開いた。
「……何だ?」
長秀が目を細める。
中央に空間が生まれていた。
その左右から兵が前へ出る。
中央だけを空けたまま。
「大筒対策です」
宗一郎が言った。
「こちらの砲撃を避けるため?」
「それだけじゃない」
宗一郎は武田の配置を見た。
「中央に誘い込むつもりです」
「我々を?」
「大筒の正面に、敵を集中させる必要があります」
宗一郎は地図を広げた。
「だから武田は、左右から圧力をかけて、こちらを中央へ寄せようとしている」
長秀が黙った。
確かにそうだった。
武田軍の左翼が動く。
織田軍が対応する。
右翼も動く。
徳川軍がそれに応じる。
そうすると、中央に兵が集まる。
「……そこへ本隊」
「恐らく」
宗一郎は大筒を見た。
「大筒を撃つなら、今度は撃つ場所を選ばないといけません」
「撃たぬのですか?」
「撃ちます」
宗一郎は答えた。
「でも、敵が撃たせたい場所には撃たない」
その直後。
「高槻殿!」
伝令が駆けてきた。
「徳川方から伝令です! 武田本隊、正面へ進出!」
「分かった」
宗一郎は短く答えた。
「徳川に伝えろ」
「何と?」
「退くな」
伝令が目を見開いた。
「ただし、追うなとも伝えろ」
「……はっ!」
伝令が走り去る。
宗一郎は前方を見た。
武田本隊が近づいてくる。
まだ遠い。
だが、近づいている。
その速度は速くない。
むしろ遅い。
しかし、その遅さが恐ろしかった。
急ぐ必要がない。
自分たちの兵が強いことを知っている者の進み方だった。
「鉄砲隊!」
宗一郎が叫ぶ。
「第一列、構え!」
兵たちが動いた。
銃を前へ。
火縄を確認。
足を止める。
第二列が後ろへ。
さらに第三列。
織田軍の前面に、幾重もの鉄砲隊が並んだ。
宗一郎はその光景を見ながら、胸の奥で思った。
この戦法が、どこまで通じるのか。
今までは局地戦だった。
だが、相手は武田本隊。
兵の数も違う。
練度も違う。
そして――経験が違う。
「敵、射程!」
声が響いた。
武田側から矢が飛んできた。
一本。
二本。
次第に数が増える。
「盾!」
織田兵が盾を立てる。
矢が突き刺さる。
木に当たる音。
鉄に当たる音。
人に当たる音。
悲鳴。
倒れる兵。
「撃つな!」
宗一郎は叫んだ。
「まだだ!」
武田軍が進む。
距離が縮まる。
鉄砲隊の中に緊張が走る。
「まだ!」
宗一郎は待った。
武田の兵が走り始める。
その瞬間。
「撃て!」
銃声が一斉に響いた。
白煙が戦場を覆った。
先頭の武田兵が倒れる。
その後ろも倒れる。
だが――。
止まらない。
「……!」
宗一郎の表情が変わった。
武田は止まらなかった。
倒れた兵の横を、後続が走り抜ける。
さらに後ろから兵が来る。
煙の向こうから、槍が見えた。
「第二列!」
「撃て!」
二度目の銃声。
さらに倒れる。
しかし、武田の前進は続いた。
「第三列!」
銃声。
また倒れる。
だが、武田兵はなお進む。
織田兵の顔に恐怖が浮かぶ。
「こんなに撃っているのに……」
誰かが呟いた。
宗一郎には、その声が聞こえた。
「だからこそ、次だ」
銃を撃ち終えた兵が槍を取る。
武田兵が突っ込んできた。
「来るぞ!」
槍がぶつかる。
織田兵が一人倒れる。
武田兵も一人倒れる。
さらに別の場所で槍がぶつかる。
足を踏まれる。
肩を斬られる。
誰かが転ぶ。
その身体を踏み越えて、別の兵が前へ出る。
戦場が一気に近くなった。
宗一郎も槍を構えた。
「押されるな!」
前線を見渡す。
武田は強い。
だが、織田も以前とは違う。
鉄砲を撃って終わりではない。
撃った兵が下がり、後ろから新しい兵が入る。
空いた場所を槍隊が埋める。
負傷者は後ろへ送られる。
弾薬を持った兵が前へ出る。
戦場全体を一つの仕組みとして動かす。
それが、高槻が作ってきた軍だった。
「左!」
宗一郎が叫んだ。
武田騎馬が回り込んでいる。
「柴田隊!」
遠くから勝家の怒声が聞こえた。
柴田隊が横から突っ込む。
武田騎馬と正面衝突する。
馬が嘶いた。
槍が交差する。
騎馬が倒れる。
織田兵も倒れる。
勝家自身が前へ出ていた。
「押し返せ!」
柴田隊が武田騎馬を押し戻す。
だが、その直後。
「右!」
今度は羽柴隊が武田歩兵とぶつかった。
秀吉は前へ出すぎず、しかし兵を細かく動かしていた。
「一歩下がれ!」
兵が下がる。
「今だ!」
別の部隊が横から入る。
武田兵が崩れる。
その隙間へ別の織田兵が入る。
宗一郎はそれを見ていた。
柴田は力。
羽柴は変化。
明智は統制。
丹羽は安定。
そして徳川は――。
「……踏ん張っているな」
宗一郎は呟いた。
徳川軍が正面で武田を受け止めている。
家康自身も前線近くにいる。
兵の顔には疲労が浮かんでいた。
それでも退かない。
ここで徳川が崩れれば、織田軍の側面まで露出する。
「大筒!」
与吉の声。
宗一郎が振り返る。
「撃てます!」
「まだだ」
「ですが、武田本隊が密集しています!」
「だからだ」
宗一郎は武田軍を見た。
「今撃てば、確かに被害は出る」
「では――」
「でも、その後がない」
大筒の周囲では準備が進んでいる。
冷却。
装填。
照準。
それぞれに時間がかかる。
「一発撃って終わりじゃない」
宗一郎は言った。
「撃った後に敵がどう動くかまで考えろ」
与吉が頷いた。
その時だった。
武田軍の中央が動いた。
今まで左右に展開していた兵が、一斉に中央へ寄る。
「……来る」
宗一郎は望遠鏡を構えた。
武田本隊が、正面から進んでくる。
逃げない。
避けない。
今度は大筒の射線を承知で、正面から来る。
「撃つぞ」
宗一郎が言った。
与吉が息を呑む。
「大筒、構え!」
砲員が動く。
火縄。
照準。
最後の確認。
武田軍が近づく。
距離が縮まる。
「今!」
宗一郎が手を下ろした。
轟音。
地面が震えた。
煙が広がる。
砲弾が武田軍中央の前方へ落ちた。
土が吹き上がる。
兵が倒れる。
隊列が一瞬だけ乱れた。
織田兵から歓声が上がる。
だが。
宗一郎は叫んだ。
「喜ぶな!」
武田軍が止まらない。
乱れた場所を、左右の兵が埋めている。
そして、そのまま前進する。
宗一郎の背中に冷たいものが走った。
「……これが武田か」
大筒を撃ってもなお、進む。
それは、単なる兵力の問題ではない。
前の兵が倒れれば後ろが進む。
旗が倒れれば別の旗が立つ。
隊長が倒れれば副将が指揮を取る。
戦場の仕組みそのものが止まらない。
「高槻殿!」
丹羽が叫んだ。
「正面を保てますか!」
宗一郎は武田本隊を見た。
もう距離はない。
銃声。
槍。
怒号。
血。
土。
煙。
全てが一つになっている。
そしてその中から、武田の旗が迫ってくる。
「保つ!」
宗一郎は叫び返した。
「ただし――」
槍を握り直す。
「一歩も余計に前へ出ない!」
織田兵が踏みとどまった。
武田兵が押す。
織田兵が受ける。
また押す。
また受ける。
中央では、両軍が完全に噛み合った。
もはや鉄砲の戦いではない。
大筒の戦いでもない。
兵と兵。
指揮官と指揮官。
意志と意志のぶつかり合いだった。
宗一郎は思った。
――武田本隊との正面衝突。
これを避けることはできなかった。
そして同時に理解した。
ここで勝つには、武田より強くなる必要はない。
武田に押されても、
織田が崩れなければいい。
そのために必要なのは、一つの武器ではない。
人。
情報。
補給。
指揮。
そして――
「誰も、勝手に動くな!」
宗一郎は叫んだ。
「隣の隊を見ろ! 隣がいるから、お前は立てる!」
その声が、前線へ広がっていった。
武田本隊との正面衝突は、始まったばかりだった。




