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第四十五章 東軍、戦場を繋ぐ

第四十五章 東軍、戦場を繋ぐ


 大筒の轟音が、山間に残っていた。


 一度だけではない。


 砲声そのものよりも、その後に訪れた静寂の方が不気味だった。


 武田方の土塁は大きく崩れ、土煙が風に流されている。


 だが――武田軍は逃げなかった。


「……来るぞ」


 高槻宗一郎は望遠鏡を下ろした。


 土煙の向こう。


 赤備えを含む武田の部隊が、再び動き始めていた。


 先ほどまで大筒の前方に集中していた兵が、左右へ散っていく。


 中央を空ける。


 まるで、そこへ何かを通すためのように。


「大筒を見て、兵を散らしたか」


 丹羽長秀が呟いた。


「ええ」


 宗一郎は頷いた。


「そして、次は大筒そのものを狙う」


「砲を?」


「砲兵をです」


 長秀の顔が険しくなる。


 大筒は強力だった。


 しかし、強力であることと、戦場で自由に動かせることは別問題だ。


 砲身は重い。


 撃った後には冷却が必要になる。


 照準を修正するにも時間がかかる。


 何より、周囲には大量の火薬と弾薬が置かれている。


 そこへ敵兵が入り込めば――。


「高槻殿!」


 後方から伝令が駆けてきた。


「何だ」


「明智隊、柴田隊、羽柴隊がこちらへ向かっております!」


 宗一郎は一瞬だけ目を閉じた。


「来たか」


 戦場の音が変わった。


 遠くから、太鼓が響いてくる。


 一度。


 二度。


 一定の間隔で。


 そして、織田の旗が山の向こうから現れた。


 最初に姿を見せたのは明智光秀だった。


 その後ろに柴田勝家。


 さらに羽柴秀吉。


 それぞれが兵をまとめ、乱れの少ない列を保ったまま前進してくる。


 宗一郎は胸の奥で息を吐いた。


 これで、戦場の形が変わる。


 前衛だけで武田を押さえる戦いではない。


 左右と後方を含めた、戦場全体の勝負になる。


「丹羽殿」


「何でしょう」


「左翼をお願いします」


「承知した」


「ただし、追いすぎないでください」


「分かっております」


 長秀は即答した。


 宗一郎は次に右を見た。


「俺は中央に残ります」


「高槻殿自身が?」


「大筒と弾薬があります。それに、ここが崩れると徳川の後退路にも影響します」


「……危険ですぞ」


「承知しています」


 宗一郎は笑わなかった。


「だから、ここを守ります」


 そのとき。


 武田陣から、甲高い法螺の音が響いた。


 続いて、複数の旗が一斉に動いた。


「来る!」


 誰かが叫んだ。


 武田軍が動いた。


 正面からではない。


 左右からだった。


 中央には歩兵を残し、左右の部隊が弧を描くように前へ出る。


 まるで織田軍の側面を噛み取ろうとしているようだった。


「……なるほど」


 宗一郎は呟いた。


「大筒を中心に戦うなら、大筒を正面から攻める必要はない」


 敵の狙いは明確だった。


 砲そのものではない。


 砲を守っている織田兵を動かす。


 兵を動かせば、大筒の周囲に隙間ができる。


 そこへ騎馬を入れる。


「伝令!」


「はっ!」


「左翼へ。武田騎馬が大きく回り込んでいる。中央を空けるな」


「承知!」


 伝令が走った。


 その直後だった。


「敵騎馬!」


 前方から叫び声が上がる。


 土煙。


 蹄の音。


 地面が震える。


 武田の騎馬隊が、正面ではなく斜めから突っ込んできた。


「撃て!」


 織田兵が火縄を構える。


 一斉射。


 煙が広がった。


 何頭かの馬が崩れた。


 だが、全てではない。


 後ろの騎馬が速度を落とさない。


「二列目!」


 火縄を捨てる。


 紙包みを破る。


 火薬を入れる。


 弾を落とす。


 槊杖で押し込む。


 火縄を戻す。


 訓練された動作が、ほとんど無意識に繰り返される。


 だが――。


「近い!」


 武田騎馬が迫った。


 銃を撃ち終えた兵が槍を取る。


 馬上から槍が伸びた。


 織田兵が一人、肩を貫かれて倒れた。


 別の兵が馬の脚を狙う。


 馬が転倒し、騎手が地面へ投げ出される。


 そこへ別の騎馬が突っ込む。


「押されるな!」


 宗一郎は前へ出た。


「盾を前へ!」


 鉄砲隊の前に盾が並ぶ。


 銃だけでは止められない。


 槍だけでも止められない。


 銃で勢いを削り、盾で受け、槍で止める。


 それを繰り返す。


 戦場とは、結局その繰り返しだった。


 誰かが倒れる。


 その隙間を誰かが埋める。


 埋めた兵が倒れる。


 また別の兵が前へ出る。


 宗一郎の隣で、若い兵が震えていた。


「怖いか」


「……はい」


「俺もだ」


 兵が驚いて宗一郎を見る。


「だから、足だけは止めるな」


「……はい!」


 その兵は槍を握り直した。


 その瞬間だった。


 右手から歓声が上がった。


「柴田隊!」


 柴田勝家が前へ出ていた。


 大きな旗印が、武田騎馬の側面へ突き刺さるように進んでいる。


「柴田殿、速い……!」


 宗一郎は目を細めた。


 勝家は正面から武田を押し返すのではなく、騎馬隊の横腹へ兵をぶつけていた。


 武田騎馬が方向を変える。


 だが、その瞬間。


 反対側から羽柴秀吉の隊が入った。


「挟んだ……!」


 武田騎馬は完全に包囲されたわけではない。


 しかし、進路を失った。


 前には織田鉄砲隊。


 右には柴田。


 左には羽柴。


 後ろには味方の歩兵。


 一瞬だけ、騎馬の速度が落ちる。


 そこを織田兵が狙った。


「撃て!」


 銃声が重なる。


 騎馬隊が崩れた。


 だが――。


「高槻殿!」


 伝令の声。


「武田中央が動きました!」


 宗一郎は振り返った。


 今度は中央。


 武田の歩兵が進んでいる。


 しかも、先ほどまでと違う。


 大筒を避けている。


 砲の正面には入らない。


 土塁の陰、斜面、木々。


 地形を使いながら進んでいる。


「……学習が早いな」


 宗一郎は呟いた。


 大筒を撃てば勝てる。


 そんな単純な話ではなかった。


 敵もまた、戦場で学ぶ。


「与吉!」


「はい!」


 大筒の横にいた若い研究者が振り向く。


「次弾はまだ撃つな」


「ですが……」


「今撃っても、効果が薄い」


 武田兵は散開している。


 密集していない。


 大筒の威力を理解したからだ。


「撃つ場所を変える」


 宗一郎は地図を広げた。


「次はここだ」


「土塁ではなく?」


「ああ」


 宗一郎が指したのは、武田軍が利用している斜面だった。


「敵がここを使えば、こちらの右翼を回り込める」


「……そこを崩す」


「そうだ」


 与吉が頷く。


 だが、次の瞬間。


「高槻殿!」


 別の伝令が叫んだ。


「明智殿からです!」


「何と?」


「武田が後方へ回ろうとしている、と!」


 宗一郎の視線が上がった。


「後方……?」


 地図を見る。


 武田軍の動き。


 騎馬。


 歩兵。


 地形。


 そして織田軍の進出。


 全てを重ねる。


「……違う」


「違う?」


「後方を狙っているんじゃない」


 宗一郎の目が鋭くなる。


「俺たちを動かそうとしている」


 武田軍は、大筒を恐れていた。


 しかし、それ以上に恐れているものがある。


 織田軍が戦場全体を連携させること。


 だから、各所を攻撃している。


 左翼を揺らす。


 右翼を揺らす。


 中央を圧迫する。


 織田がどこを助けるかを見る。


 その瞬間に、別の場所へ兵を移す。


「……信玄は、砲そのものではなく指揮を狙っている」


 宗一郎は呟いた。


 武田の強さは、兵の強さだけではない。


 敵の判断を狂わせることにある。


「伝令!」


「はっ!」


「全部隊に伝えろ」


 宗一郎は地図を押さえた。


「敵の動きに合わせて勝手に動くな」


「……!」


「各隊は最初に決めた線を守る。動く場合は旗を確認してからだ」


 戦場では、一人の勇気よりも一つの誤解が多くの兵を殺す。


 誰かが「味方が退いた」と思えば、退く。


 別の誰かが「敵が崩れた」と思えば、追う。


 その小さな判断が列を乱し、そこへ敵が入り込む。


 宗一郎が恐れていたのは、それだった。


「伝えろ!」


「承知!」


 伝令が走る。


 その背後で、また銃声が響いた。


 武田歩兵が織田の前線へ接近していた。


「槍隊!」


 宗一郎が叫ぶ。


「前へ!」


 槍が並ぶ。


 武田兵が突っ込む。


 槍と槍がぶつかった。


 人と人が押し合う。


 銃声が途切れ、戦場が肉弾戦へ変わる。


 一人の武田兵が槍を弾き、織田兵の胸へ刃を向けた。


 宗一郎が横から槍を払った。


 刃が逸れる。


 織田兵が倒れ込む。


 武田兵が宗一郎へ向き直る。


 目が合った。


 一瞬。


 二人とも動かなかった。


 次の瞬間、武田兵が斬り込んだ。


 宗一郎は槍の柄で受けた。


 衝撃が腕を痺れさせる。


 もう一度。


 受ける。


 三度目。


 横から織田兵の槍が入り、武田兵が倒れた。


「高槻様!」


「大丈夫だ!」


 宗一郎は息を整えた。


 手が震えている。


 それを見て、自分が生きていることを実感した。


 戦争は、数字ではない。


 死者十人。


 負傷者三十人。


 そんな数字の一つ一つに、名前がある。


 家族がいる。


 帰る場所がある。


 それを忘れた瞬間、自分はこの戦争をただの盤上の駒として見てしまう。


「……だから」


 宗一郎は呟いた。


「早く終わらせる」


 その声を、誰にも聞かせるつもりはなかった。


 だが、その言葉の直後。


 戦場の向こうから、巨大な旗が現れた。


 武田の旗。


 そして、その周囲に集まる兵。


「……あれは」


 丹羽長秀が呟く。


「本隊が来る」


 宗一郎は望遠鏡を覗いた。


 遠く。


 武田の主力が、ゆっくりと前進していた。


 その動きには焦りがない。


 先ほどまでの攻撃は、本隊を動かすための前段だったのだ。


 織田の陣形。


 徳川の位置。


 大筒の場所。


 柴田と羽柴の位置。


 明智の動き。


 それらを確認した上で、武田は次の一手を選ぼうとしている。


「……まだ終わっていない」


 宗一郎は地図を畳んだ。


 むしろ。


 ここからが、本当の戦いだった。


 大筒が戦場を変えた。


 しかし、大筒だけでは戦争には勝てない。


 鉄砲も。


 槍も。


 騎馬も。


 兵站も。


 情報も。


 そして何より、それらを扱う人間も。


 全てが噛み合って初めて、一つの軍になる。


 宗一郎は前方を見た。


 武田の本隊が近づいてくる。


 その背後には、まだ深い山が続いている。


 そして山の向こうには――甲斐がある。


「高槻殿」


 長秀が言った。


「どうします?」


 宗一郎はしばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「迎え撃つ」


「正面から?」


「いや」


 宗一郎は地図を開いた。


「武田が一番強い場所で戦う必要はない」


 指が、山道をなぞる。


「ここを押さえる」


 そして、別の場所を指す。


「ここへ明智殿を」


 さらに別の地点。


「柴田殿にはここ」


 最後に中央。


「俺と丹羽殿で、武田本隊を止める」


 長秀が目を細めた。


「……分断するおつもりか」


「分断ではありません」


 宗一郎は答えた。


「繋がせない」


 武田軍が各部隊を連携させれば強い。


 ならば、その連携を一つずつ切る。


 大筒は、そのための道具になる。


 鉄砲は、そのための道具になる。


 地図も。


 旗も。


 伝令も。


 全ては同じ目的のためにある。


「敵を全部倒す必要はない」


 宗一郎は武田本隊を見据えた。


「敵に、勝てる戦場を選ばせなければいい」


 その時。


 武田陣から、再び法螺が鳴った。


 今度は、これまでとは違う音だった。


 低く。


 長く。


 戦場全体に響く。


 武田本隊が、動いた。


 織田軍も旗を上げる。


 柴田隊。


 羽柴隊。


 明智隊。


 丹羽隊。


 そして高槻隊。


 それぞれの旗が、風の中で揺れた。


 戦場は、再び動き始めた。

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