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第四十四章 鋼の一撃

第四十四章 鋼の一撃


夜が明ける前。


遠江の山々は、まだ闇の中にあった。


織田軍の陣では、いつもより早く兵が動いている。


声は小さい。


足音も抑えられている。


それでも、いつもとは違う緊張が漂っていた。


原因は、陣の奥に置かれた木箱だった。


昨夜、宗一郎が確認した大筒。


まだ多くの兵は、それが何なのか知らない。


ただ、普段の鉄砲とは比べものにならない大きさの砲身が運び込まれたことだけは知っていた。


「本当に使うのですか」


丹羽長秀が尋ねた。


宗一郎は砲の前に立っている。


「使います」


「危険では?」


「危険です」


即答だった。


丹羽が少し驚く。


「そこまで言い切りますか」


「研究所からも、そう報告されています」


宗一郎は砲身を見る。


「鋼の品質は以前より安定した。厚みも確保できた。試射も成功している」


「ならば問題ないのでは?」


「問題はある」


宗一郎は砲身を軽く叩いた。


「試験場と戦場は違います」


丹羽は黙った。


宗一郎は続ける。


「地面が平らとは限らない。砲を据える時間もない。火薬も湿気る。砲身が熱を持つ。何より、人間が扱う」


「……」


「だから、最初の一発を撃つまでが実験です」


丹羽は苦笑した。


「戦場に持ち込んでも、研究者のままですな」


「研究者だからこそ、失敗を見逃せない」


宗一郎は振り返る。


「撃った後に、何が起きたかを見る。それが次につながる」


---


大筒の周囲には、数人の技術者がいた。


その中に与吉もいる。


農村出身。


幼い頃、父を戦で失った男。


今では高槻技術所の中でも、軍事研究に深く関わる一人となっている。


与吉は砲身を何度も確認していた。


「問題ありません」


「本当に?」


宗一郎が聞く。


「はい」


「本当に、だ」


宗一郎は念を押した。


「不安なら不安と言え」


与吉は少し考えた。


「……怖いです」


宗一郎は頷いた。


「それでいい」


「ですが」


与吉は砲身を見る。


「ここまで作ったものを、戦場で試したいという気持ちもあります」


宗一郎はしばらく与吉を見た。


「それも正しい」


そして、砲から離れた。


「ただし、撃つために撃つな」


与吉が頷く。


「はい」


「目標は?」


「武田の陣前にある土塁です」


「人ではない」


「はい」


「陣形を崩すためだ」


「承知しています」


宗一郎は満足そうに頷いた。


---


朝。


武田軍が動いた。


昨日とは違う。


武田の太鼓が、早い間隔で鳴っている。


「敵、前進!」


物見が叫ぶ。


織田軍の陣にも緊張が走った。


「来るぞ!」


兵たちが槍を構える。


鉄砲隊が火縄を確認する。


徳川軍も陣を整える。


宗一郎は前方を見る。


武田軍が進んでくる。


だが、昨日と違うところがあった。


「……正面を広げている」


丹羽が言った。


宗一郎も気づいていた。


武田は一つの大きな塊ではなく、複数の隊に分かれている。


「昨日の戦を見て、こちらの鉄砲隊を警戒している」


「ならば、こちらも撃ち方を変えますか」


「いや」


宗一郎は答えた。


「こちらが変えるのではない」


「武田が変えたことを利用する」


---


武田軍が近づく。


鉄砲の距離。


宗一郎はまだ撃たせなかった。


「待て」


兵たちが緊張する。


さらに近づく。


「まだ」


武田軍も撃ってこない。


互いに相手の手を見ている。


そして。


武田側から銃声が響いた。


一発。


二発。


三発。


徳川側の兵が倒れる。


「撃て!」


宗一郎が命じた。


織田軍の鉄砲隊が応じる。


轟音。


白煙。


武田の前列が崩れる。


だが、武田は止まらない。


「前へ!」


槍隊が進む。


その後ろから騎馬が続く。


「騎馬!」


声が上がった。


宗一郎は冷静に見ていた。


昨日と同じではない。


武田は騎馬を一気に突っ込ませない。


鉄砲と槍で織田軍の火力を削り、その後で騎馬を使うつもりだ。


「……学習が早い」


半兵衛が横に来た。


「武田も、こちらを見ておりますな」


「当然だ」


宗一郎は答える。


「俺たちだけが相手を見ているわけじゃない」


武田軍がさらに進む。


土塁がある。


その後ろには武田の指揮所と思われる陣。


宗一郎は目を細めた。


「今だ」


与吉が顔を上げる。


「大筒を」


数人の兵が動いた。


木箱が開かれる。


砲身が姿を現す。


それを見た近くの兵たちが、息を呑んだ。


「何だ、あれは……」


「鉄砲ではないぞ」


「大砲か?」


ざわめきが広がる。


宗一郎は振り返った。


「騒ぐな!」


兵たちが黙る。


「これはまだ試作品だ」


そして与吉を見る。


「準備」


「はい!」


砲の向きが調整される。


地面を固める。


砲架を固定する。


火薬を慎重に入れる。


与吉の手が僅かに震えていた。


宗一郎は気づいた。


だが、何も言わない。


それは恐怖ではない。


責任の重さだ。


「距離」


「およそ四百!」


「風」


「横風、弱い!」


「目標」


「武田前面の土塁!」


宗一郎は最後に確認した。


「人を狙うな」


「はい」


「土塁だ」


「はい!」


宗一郎が手を上げる。


「撃て」


一瞬。


誰もが息を止めた。


次の瞬間――


轟音。


鉄砲とは比べものにならない音が、山間を揺らした。


大地まで震える。


砲口から煙が噴き出す。


砲身が後ろへ跳ねる。


兵たちが思わず身を引いた。


「着弾!」


遠くで土煙が上がった。


土塁の一部が吹き飛んだ。


巨大な音が遅れて戻ってくる。


山々に反響する。


織田兵たちは言葉を失っていた。


与吉も呆然としている。


「……当たった」


宗一郎は双眼鏡を目に当てた。


土塁の一部が崩れている。


完全に破壊したわけではない。


だが――


穴が開いた。


そして、その周囲にいた武田兵が慌てて散っている。


「成功……です」


与吉が呟いた。


宗一郎は頷いた。


「一発目はな」


---


武田側。


轟音が響いた瞬間。


兵たちは何が起こったのか分からなかった。


突然、土塁が吹き飛んだ。


「何だ!」


「分かりません!」


「鉄砲か?」


「違います!」


「ならば何だ!」


武田の指揮官も驚いていた。


しかし、混乱は長く続かなかった。


「伏せろ!」


指揮官が叫ぶ。


「土塁の後ろへ!」


兵たちが動く。


騎馬隊は後方へ下げられる。


密集を避ける。


「一箇所に集まるな!」


武田はすぐに対応した。


宗一郎はそれを見ていた。


「……やっぱり早い」


半兵衛が問う。


「何が?」


「対応です」


宗一郎は砲を見た。


「一発撃っただけで、戦場全部を変えられると思ったら大間違いだ」


「武田も同じことを考えている」


「そういうこと」


---


武田軍が動きを変えた。


中央から進むのではない。


左右へ広がる。


「来るぞ!」


織田兵が叫ぶ。


武田軍の一部が山側へ回る。


別の隊が低地へ入る。


「正面を避けています!」


丹羽が叫ぶ。


宗一郎は頷いた。


「大筒を見た」


「ならば、どうします?」


「撃ち続ける」


「同じ場所を?」


「違う」


宗一郎は地図を開いた。


「武田が避ける場所を撃つ」


半兵衛が目を細める。


「逃げ道を?」


「違う」


宗一郎は地図を指した。


「武田がこちらへ攻め込むためには、ここを通る」


そこには狭い谷があった。


「ここを崩す」


---


武田軍が進む。


谷へ入る。


織田の鉄砲隊が撃つ。


武田兵が散る。


「前へ!」


武田の将が叫ぶ。


「鉄砲に怯むな!」


槍兵が前進する。


織田軍の前列とぶつかった。


「来た!」


槍が交差する。


一人が倒れる。


別の兵がその隙間へ入る。


「押せ!」


「退くな!」


武田兵が押してくる。


織田兵も押し返す。


だが、武田の圧力は強い。


「右、崩れかけています!」


伝令。


宗一郎は即座に答える。


「丹羽隊から三十」


「三十で足りますか!」


「足りないなら次を送る」


「承知!」


伝令が走る。


宗一郎は大筒を見る。


二発目の準備が進んでいる。


与吉が叫ぶ。


「準備完了!」


宗一郎は前方を見る。


敵が近すぎる。


「待て」


「はい」


武田兵がさらに前へ出る。


「まだ」


織田兵と武田兵が接近する。


「今撃てば、味方にも危ない!」


与吉が叫ぶ。


「分かっている」


宗一郎は答えた。


大筒を使えば勝てる。


そんな簡単な話ではない。


むしろ、味方と敵が接近した瞬間、大筒は使いにくくなる。


その事実を、宗一郎は実感していた。


「だから――」


宗一郎は刀を抜いた。


「ここは兵で押し返す」


---


宗一郎自身も前へ出た。


「高槻様!」


兵が驚く。


「下がらないでください!」


「俺が後ろにいても、前は戦わない」


宗一郎は槍隊の後ろに立った。


「押せ!」


槍が前へ出る。


武田兵が受ける。


一歩。


さらに一歩。


織田兵が押し返す。


武田兵も負けない。


槍が折れる。


刀が振られる。


誰かの叫び声。


血が地面へ落ちる。


宗一郎のすぐ横を矢が飛んだ。


「伏せろ!」


兵が叫ぶ。


宗一郎が身を低くする。


次の瞬間。


隣の兵の肩に矢が刺さった。


「ぐっ……!」


「後ろへ!」


「まだ戦えます!」


「命令だ!」


兵が担がれて下がっていく。


宗一郎はその背中を見た。


戦場では、一つ一つの研究成果よりも、目の前の人間の命の方が重い。


だからこそ。


「押し返せ!」


声を張った。


---


やがて武田軍が一度下がった。


織田軍も追わない。


互いに距離を取る。


戦場に煙が漂う。


土塁の一部は崩れている。


大筒の一発が作った穴。


しかし、武田軍は健在だった。


宗一郎は砲身へ近づいた。


「熱は?」


与吉が答える。


「かなりあります」


「亀裂は?」


「確認中です」


「砲架は?」


「後ろへ跳ねました。固定を強くしないと次は危険です」


宗一郎は頷いた。


「記録してくれ」


「はい」


「成功だけじゃない」


宗一郎は砲身を見る。


「失敗しそうだったところを全部書く」


与吉が頷いた。


「分かりました」


その時。


武田陣から、再び太鼓が鳴った。


ドン。


宗一郎が顔を上げる。


「……もう来るのか」


武田軍が動き始める。


しかし今度は、正面ではない。


左右。


そして後方。


宗一郎は地図を見る。


「武田は、大筒を避ける戦い方に変えてきた」


半兵衛が頷く。


「ならば、大筒は?」


宗一郎は少し考えた。


「一つの兵器として使うんじゃない」


「では?」


「敵の選択肢を減らすために使う」


半兵衛が笑う。


「なるほど」


宗一郎も前を見る。


「でも、まだ足りない」


「何が?」


「砲が一つだけじゃ、戦場全体を支配できない」


その時。


後方から伝令が駆けてきた。


「高槻様!」


「何だ」


「明智殿、柴田殿、羽柴殿が動きます!」


宗一郎の目が変わった。


ついに後陣が前へ出る。


明智光秀。


柴田勝家。


羽柴秀吉。


ここから先は、先陣だけの戦ではない。


織田軍全体が、武田軍とぶつかる。


宗一郎は大筒を振り返った。


「二発目は、まだ撃つな」


与吉が驚く。


「なぜです?」


宗一郎は答えた。


「次に使う場所を、俺たちが決めるんじゃない」


東を見る。


「武田に選ばせる」


その目には、戦場を読む者の光が宿っていた。


「そして、武田が選んだ場所を――」


宗一郎は刀を収めた。


「こちらの戦場に変える」


遠くで、別の旗が動き始めていた。


明智。


柴田。


羽柴。


織田の後陣が、ついに戦場へ入る。


武田軍もまた、それを見ていた。


この日。


遠江の戦場は、さらに大きく動き始めた。

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