第四十三章 武田、崩れない
第四十三章 武田、崩れない
太鼓の音が、山間に重なった。
一つではない。
二つ。
三つ。
その向こうから、さらに低い音が響いてくる。
ドン――。
ドン――。
織田軍の兵たちが、無意識に顔を上げた。
先ほどまで戦っていた武田の先鋒が、わずかに後ろへ下がっている。
だが、退いているわけではない。
道を空けている。
そのことに宗一郎が気づいた。
「……来る」
滝川一益が目を細める。
「何が?」
「本隊です」
土煙の向こう。
旗が増えた。
一つ。
二つ。
十。
その数が次々と増えていく。
「武田は、まだ兵を残していたのか……」
丹羽長秀が呟いた。
宗一郎は答えなかった。
先ほどまでの戦闘は、武田軍全体から見れば前哨戦に過ぎなかった。
それが分かった。
武田は織田・徳川の兵力と戦い方を見ていた。
鉄砲。
槍。
騎馬。
そして、高槻。
「伝令!」
宗一郎が叫んだ。
「後方へ!」
兵が駆け寄る。
「何を?」
「明智殿、柴田殿、羽柴殿へ伝えろ」
宗一郎は武田本隊の動きを見ながら言った。
「武田本隊が前へ出る。先陣だけで受け止めるのは危険だ」
「後陣を?」
「まだ出すな」
兵が戸惑う。
「では?」
「近づいていることだけを知らせろ」
「承知!」
伝令が走っていく。
宗一郎は前を見る。
「後陣は、まだ温存する」
一益が聞いた。
「なぜです」
「武田がどこまで出してくるか分からない」
「ここで全部出せば?」
「後で困る」
丹羽が頷いた。
「後ろに兵を残しておく」
「そうです」
宗一郎は答えた。
「戦場は一度で終わるとは限らない」
---
武田本隊が前へ出た。
その速度は速くなかった。
むしろ、遅い。
だが、遅いからこそ恐ろしい。
隊列を崩さない。
前の兵が止まれば後ろも止まる。
道幅が狭くなれば隊列を縮める。
開けた場所へ出れば、左右へ広がる。
宗一郎は双眼鏡を目に当てた。
「……騎馬は後ろ」
「後ろ?」
一益が聞く。
「前には出していない」
宗一郎は双眼鏡を下ろした。
「鉄砲と槍が先です」
「騎馬を温存している?」
「たぶん」
宗一郎は考える。
「こちらの鉄砲の射程と配置を見ている」
「なるほど」
一益が槍を握り直す。
「ならば、こちらから行きますか」
「駄目です」
「即答ですな」
「今の武田に突っ込むのは、相手の得意な形に入るだけです」
宗一郎は兵を見た。
「こちらの役目は、武田を倒すことじゃない」
「では?」
「徳川を支えながら、武田の動きを止める」
---
武田軍が射程に入った。
「鉄砲!」
織田軍の兵が構える。
宗一郎は手を上げた。
「待て」
兵たちは待った。
武田も待つ。
静寂。
風が吹く。
旗が鳴る。
武田兵の顔が見える距離。
宗一郎は距離を測った。
「まだだ」
さらに近づく。
「撃て!」
轟音。
織田軍の鉄砲が一斉に火を噴いた。
白煙が広がる。
武田軍の前列が崩れた。
しかし――
後ろの兵が前へ出た。
「二列目!」
宗一郎が命じる。
一列目が下がる。
二列目が出る。
「撃て!」
また銃声。
武田軍の兵が倒れる。
だが、武田軍は止まらない。
「三列目!」
銃声。
今度は武田軍が一瞬だけ足を止めた。
宗一郎の兵たちから、わずかな歓声が上がる。
だが宗一郎は叫んだ。
「喜ぶな!」
兵たちが黙る。
「まだ終わっていない!」
その瞬間。
武田軍の左右から太鼓が鳴った。
「右!」
「左も!」
武田軍が広がる。
中央へ撃ち込まれていた鉄砲を避けるように、左右から前進してくる。
宗一郎はすぐに判断した。
「丹羽殿!」
「はい!」
「中央は維持!」
「右は?」
「滝川殿に!」
一益が頷く。
「任せられよ!」
滝川隊が右へ動く。
武田の左翼とぶつかった。
---
槍がぶつかった。
「押せ!」
「来るぞ!」
武田兵が突っ込む。
織田兵が槍を突き出す。
一人が倒れた。
別の兵がその隙間を埋める。
また武田兵が来る。
槍を払う。
刀が振られる。
盾が砕ける。
「退くな!」
滝川一益が前へ出る。
「一歩も退くな!」
だが、武田の兵も凄まじい。
一人倒れれば、二人が前へ出る。
三人倒れれば、さらに後ろから補充される。
「何だ、この数は!」
織田兵の一人が叫んだ。
その声を聞いて、一益が怒鳴る。
「数を見るな!」
槍を振る。
「目の前だけ見ろ!」
織田兵が歯を食いしばる。
戦線は、かろうじて保たれていた。
---
中央。
丹羽隊も押されていた。
武田の歩兵が前へ出る。
織田の鉄砲が撃つ。
しかし距離が縮まる。
「近すぎます!」
「撃ったら下がれ!」
「槍隊が前にいます!」
「槍を下げるな!」
銃声。
槍。
刀。
叫び声。
戦場が一つの巨大な塊になっていく。
宗一郎は後方からそれを見ていた。
「……規格化しても」
半兵衛が隣にいた。
「はい?」
「戦場そのものは、簡単には変わらない」
宗一郎は呟いた。
「銃が揃っていても、弾が揃っていても、最後は人間が撃つ」
「その通りです」
半兵衛が答える。
「だからこそ、兵を支える仕組みが必要なのでしょう」
宗一郎は頷いた。
「そうだ」
そして、前を見る。
武田は強い。
だが――
こちらも、今までとは違う。
「弾薬!」
「あります!」
「負傷者!」
「後方へ運んでいます!」
「次の列!」
兵が動く。
情報が流れる。
命令が伝わる。
補給が続く。
戦場の一部が崩れても、別の部分が支える。
それこそが、高槻が作ろうとしてきた軍だった。
---
だが、武田はその仕組みを崩そうとしてきた。
昼過ぎ。
武田の右翼が大きく動いた。
「高槻様!」
伝令が走る。
「武田が左から回り込もうとしています!」
宗一郎は地図を見る。
「距離は?」
「およそ半里」
「兵力は?」
「不明です!」
宗一郎はすぐに決めた。
「徳川へ伝えろ」
「何を?」
「左翼を下げる」
「下げるのですか?」
「ただし、崩すな」
宗一郎は地図上の道を指した。
「ここまで」
「ここに?」
「道幅が狭い」
宗一郎は続ける。
「武田の騎馬が速度を出せない」
伝令が走る。
徳川側にも命令が伝わった。
家康は地図を見て、すぐに理解した。
「高槻か」
「はい」
「下がる」
徳川軍が後退する。
武田軍が追う。
だが――
道が狭くなる。
武田の騎馬隊が速度を落とす。
「今だ!」
徳川の鉄砲隊が撃った。
武田兵が倒れる。
二度。
三度。
そして槍隊が道を塞ぐ。
武田の前進が止まった。
家康は遠くからそれを見ていた。
「……なるほど」
高槻は、敵を倒すのではない。
敵が強くなる場所を避けている。
「厄介な男だ」
家康は呟いた。
---
しかし武田もまた、すぐに対応した。
「騎馬を下げろ!」
武田側の指揮官が命じる。
騎馬隊が後退する。
代わりに歩兵が前へ出る。
「鉄砲!」
今度は武田側が撃った。
織田・徳川の兵が倒れる。
「来るぞ!」
武田歩兵が押し出してくる。
「押し返せ!」
徳川兵が槍を構える。
両軍がぶつかった。
また近接戦になった。
「高槻殿!」
家康の伝令が来る。
「徳川はここを支えます!」
「分かった!」
宗一郎が答える。
「無理はしないでください!」
「承知!」
伝令が戻る。
宗一郎は武田軍を見る。
武田は、こちらのやり方を一つずつ潰している。
そして、こちらも武田のやり方を一つずつ学んでいる。
これは単なる兵力のぶつかり合いではない。
互いの軍そのものを読み合う戦いだった。
---
夕刻。
ようやく武田軍が一度下がった。
織田・徳川側も追わなかった。
誰もが疲れていた。
「本日の戦は、ここまででしょう」
丹羽が言った。
宗一郎は頷く。
「たぶん」
一益が汗を拭う。
「随分と慎重ですな」
「武田は、今日一日で全力を出したようには見えない」
その言葉に、二人の武将が黙った。
「……確かに」
丹羽が呟く。
宗一郎は戦場を見る。
倒れた兵。
運ばれていく負傷者。
折れた槍。
撃ち終えた火縄。
そして、まだ残っている武田の旗。
「武田は崩れなかった」
半兵衛が言う。
「ええ」
宗一郎は答えた。
「むしろ、こちらの手を見た」
「そして?」
「次は変えてくる」
その時だった。
後方から伝令が来た。
「高槻様!」
「何だ」
「研究所からの荷が到着しました!」
宗一郎の目が変わる。
「予定より早いな」
「はい」
「どこに?」
「後方の陣です」
宗一郎はしばらく黙った。
そして――
「半兵衛」
「はい」
「明日の戦を考える」
「鉄砲ですか」
「いや」
宗一郎は遠くの武田陣を見る。
「もっと重いものを使う」
---
夜。
織田軍後方。
大きな木箱がいくつも並んでいた。
宗一郎が近づく。
兵が蓋を外す。
中には、金属で覆われた部品。
その中心にあるのは――
太い砲身だった。
まだ完全なものではない。
傷もある。
表面にも試験の跡が残っている。
それでも。
これまでの高槻技術所にはなかったものだった。
鋼。
そして――
大筒。
宗一郎はしばらく、それを見つめた。
研究者の与吉から届いた書状が添えられている。
そこには短く書かれていた。
――実戦投入可能。
ただし。
――安全を保証するものではない。
宗一郎は、その一文を何度も読んだ。
「……当然だ」
半兵衛が隣に立つ。
「使うのですか」
宗一郎は答えなかった。
大筒の砲身へ手を置く。
冷たい。
重い。
これまで研究所で積み重ねてきた時間。
失敗。
破損。
やり直し。
そして、鋼の品質を少しずつ上げてきた成果。
それが今、目の前にある。
「明日」
宗一郎は言った。
「初めて使う」
半兵衛は大筒を見る。
「武田相手に?」
「そうだ」
「何を狙います?」
宗一郎は武田陣を見る。
そして答えた。
「人じゃない」
その声は静かだった。
「陣を狙う」
武田の陣。
その向こうには、まだ本隊がいる。
明日は今日とは違う。
鉄砲だけではない。
鋼によって生まれた新しい武器が、初めて戦場へ出る。
だが宗一郎は知らない。
その一発が――
武田軍だけではなく。
織田軍自身にも、戦い方を変えさせることになるとは。
夜が更ける。
武田陣の向こうでも、明日の準備が進んでいた。
武田信玄は、まだ動かない。
ただ一言。
「明日は、こちらから仕掛ける」
そう命じた。
遠江の夜は静かだった。
しかし。
その静けさの下で。
翌日の戦いを決める準備が、両軍で始まっていた。




