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第四十二章 高槻、初めて武田と戦う

第四十二章 高槻、初めて武田と戦う


朝靄が、遠江の山間に残っていた。


織田軍の先陣は、ゆっくりと東へ進んでいた。


滝川一益。


丹羽長秀。


そして高槻宗一郎。


三隊を合わせた兵力は、それほど大きくない。


だが、先陣としては十分だった。


後方には、まだ明智光秀、柴田勝家、羽柴秀吉らの軍が続いている。


さらにその後ろには、補給を担う部隊。


兵糧。


火薬。


弾薬。


替えの火縄。


槍。


矢。


そして、高槻技術所から運ばれてきた木箱。


その中身だけは、まだ兵たちにも詳しく知らされていなかった。


宗一郎は馬上から前方を見ていた。


「……徳川軍が見えます」


隣の兵が言った。


やがて、遠くに旗が見え始める。


三つ葉葵。


徳川。


宗一郎は馬を進めた。


徳川側からも一隊がこちらへ向かってくる。


先頭にいた男が馬を止めた。


「高槻殿ですな」


「そうです」


「徳川家臣、本多忠勝」


忠勝は宗一郎を見る。


以前にも顔を合わせたことはある。


だが、戦場で見るのは初めてだった。


「援軍、感謝いたす」


「礼は信長様へ」


宗一郎は答えた。


「俺たちは命を受けて来ただけです」


忠勝は少し笑った。


「相変わらずですな」


「何がです?」


「自分の功を語らぬ」


「功なんて、戦が終わってから考えればいい」


宗一郎は東を見た。


「今は敵を見る方が先です」


忠勝の表情が変わった。


「……武田ですな」


「はい」


その時だった。


遠くから馬が駆けてきた。


「報告!」


徳川の物見だった。


「武田軍、前方三里!」


空気が変わった。


一益が槍を握る。


丹羽も馬上で姿勢を正した。


忠勝は振り返った。


「いよいよですな」


宗一郎は答えなかった。


ただ、前を見ていた。


---


しばらくして。


武田軍の姿が見えた。


最初に見えたのは旗だった。


風に翻る旗。


その後ろに、無数の兵。


騎馬。


槍。


弓。


鉄砲。


兵糧を積んだ荷駄。


隊列は長かった。


長い。


そして、整っている。


宗一郎は目を細めた。


「……想像以上だ」


丹羽が横を見る。


「高槻殿でも、そう思われますか」


「思います」


宗一郎は即答した。


「強い軍だ」


滝川一益が笑う。


「戦う前から褒めますか」


「褒めているんじゃない」


宗一郎は答えた。


「評価している」


武田軍は、ただ兵が多いだけではない。


隊列が崩れていない。


前方の部隊と後方の部隊の間隔も一定。


騎馬隊が不用意に前へ出ていない。


鉄砲隊も見える。


「武田は、こちらを見ています」


宗一郎が言った。


「こちらも見られている」


一益が頷いた。


「ならば、こちらも見せてやりましょう」


宗一郎は少し笑った。


「それは、もう少し後です」


---


武田軍。


その先頭近く。


武将の一人が織田軍を見ていた。


「織田が来た」


「徳川と合流したようです」


「先頭は?」


「滝川一益、丹羽長秀。そして――」


一瞬、言葉が止まる。


「高槻宗一郎」


その名が伝わった。


やがて、武田側にも小さなざわめきが起こった。


高槻。


越前を変えた男。


鉄砲の使い方を変えた男。


兵糧と道を重視する男。


そして、織田信長が特別に扱っている男。


「本当に来たか」


武田側の将が呟いた。


その報せは、さらに後方へ伝わっていく。


やがて信玄のもとにも届いた。


「高槻が先陣にいるとのこと」


信玄は目を細めた。


「そうか」


それだけだった。


「迎撃しますか」


「まだだ」


信玄は前方を見る。


「まず、あれが何をする男なのかを見る」


---


両軍が、互いに見える距離まで近づいた。


だが、まだ戦は始まらない。


鉄砲の射程には遠い。


弓も届かない。


槍を振るには遠すぎる。


だからこそ――


両軍は動かなかった。


風だけが吹いていた。


武田の旗。


織田の旗。


徳川の旗。


三つの旗が、同じ風を受けて揺れている。


宗一郎は双眼鏡を取り出した。


「それは?」


滝川が尋ねる。


「遠くを見る道具です」


「……そんなものまで」


「研究の一つです」


宗一郎は武田軍を見る。


馬の配置。


荷駄。


鉄砲。


槍。


そして――


「騎馬隊、前に出ていない」


丹羽が聞く。


「分かりますか?」


「はい」


宗一郎は双眼鏡を下ろす。


「武田は、まだこちらの出方を見ています」


「ならば、こちらも待つ?」


「待ちます」


一益が少し驚いた。


「攻めないのですか」


「先に動いた方が勝つとは限りません」


宗一郎は答える。


「先に動いた方が、情報を与えることもある」


---


昼近く。


武田軍が動いた。


正面中央の歩兵が、ゆっくりと前へ出てくる。


織田軍も反応した。


「鉄砲隊、準備」


宗一郎が命じる。


兵たちが動く。


以前とは違う。


鉄砲を持った者たちが、ただ横一列に並ぶのではない。


複数の列に分かれている。


一列目。


二列目。


三列目。


それぞれの後ろには、弾薬を持った補給役がいる。


紙に包まれた弾薬。


火薬と弾が一組になっている。


兵が一つずつ取り出す。


迷わない。


測らない。


その場で火薬を量る必要がない。


宗一郎はそれを見ていた。


これまでの研究成果。


劇的な新兵器ではない。


しかし――


戦場では、この小さな差が積み重なる。


「距離」


宗一郎が聞く。


「およそ百五十」


「まだ撃つな」


武田軍が進む。


百四十。


百三十。


さらに近づく。


武田軍の兵が、こちらを見ている。


織田兵の中にも緊張が走る。


初めて武田と戦う者も多い。


宗一郎はそれを感じ取っていた。


「怖いか」


誰に言うでもなく呟く。


一人の兵が頷いた。


「はい」


「それでいい」


兵が顔を上げる。


「怖いまま撃て」


宗一郎は前を見る。


「恐怖を消す必要はない。手順だけ守れ」


その言葉が、近くの兵へ伝わっていく。


手順。


それが彼らを支える。


---


武田軍がさらに近づく。


「百二十!」


報告。


宗一郎は手を上げた。


「一列目」


鉄砲隊が構える。


武田軍からも声が上がる。


「構え!」


弓兵が弓を引く。


鉄砲兵が火縄を構える。


両軍の緊張が頂点へ達する。


そして――


「撃て!」


轟音。


織田軍の一列目が一斉に撃った。


白煙が広がる。


武田軍の前列で数人が倒れる。


しかし、武田は止まらない。


「二列目!」


一列目が後ろへ下がる。


二列目が前へ。


「撃て!」


再び轟音。


武田軍の隊列が乱れる。


だが、完全には崩れない。


「……来る」


宗一郎が呟いた。


武田軍の中央が少しだけ左右へ開いた。


その隙間から――


騎馬隊。


「騎馬!」


誰かが叫ぶ。


馬蹄が響いた。


地面が震える。


徳川兵の顔が強張る。


昨日まで武田と戦っていた者たちには、その恐ろしさが分かっている。


「来るぞ!」


騎馬隊が迫る。


宗一郎は動かなかった。


「まだ」


忠勝が横を見る。


「高槻殿?」


「まだです」


騎馬隊がさらに近づく。


「今!」


宗一郎が叫んだ。


鉄砲隊が撃つ。


一斉射撃ではない。


前列。


二列目。


さらに三列目。


時間をずらして撃つ。


騎馬隊の進路に煙が重なる。


一頭が倒れた。


後ろの馬が避ける。


隊列が乱れる。


だが――


武田騎馬隊は完全には止まらなかった。


「来る!」


徳川兵が槍を構える。


騎馬隊が突っ込んできた。


「槍!」


忠勝が叫ぶ。


徳川兵が一斉に槍を立てる。


馬が止まる。


騎馬兵が飛び降りる。


槍と刀がぶつかる。


戦場が一気に近接戦へ変わった。


「押せ!」


「退くな!」


「右を守れ!」


怒号が飛び交う。


宗一郎は後ろを見た。


「三列目、まだ撃てるか!」


「撃てます!」


「撃つな!」


兵が驚く。


「敵味方が近すぎる!」


「ならば、槍隊を助けろ!」


宗一郎は命じた。


「側面へ回れ!」


鉄砲隊の一部が移動する。


正面から撃つのではない。


敵の側面を狙う。


「撃て!」


轟音。


武田兵が倒れる。


徳川兵が押し返す。


一瞬だけ、武田騎馬隊の圧力が弱まった。


「今だ!」


忠勝が叫ぶ。


槍隊が前へ出る。


武田兵が一歩下がる。


さらに一歩。


だが――


その時。


武田の太鼓が鳴った。


ドン。


戦場の奥から響く。


ドン。


もう一度。


すると、武田軍の右翼が動いた。


「右!」


織田側の兵が叫ぶ。


宗一郎は振り向いた。


「……やっぱりか」


武田は中央を突破しようとしていたのではない。


中央で織田・徳川の視線を引きつけ、その間に右翼を回そうとしている。


「丹羽殿!」


「はい!」


「右へ兵を!」


「承知!」


丹羽長秀が即座に動いた。


だが、武田はさらに動く。


今度は左。


「左も来ます!」


一益が叫ぶ。


宗一郎は歯を食いしばった。


武田は戦場を一つの塊として動かしている。


中央。


右翼。


左翼。


互いに独立しているようで、全てが繋がっている。


「……これが武田か」


宗一郎は初めて、真正面から実感した。


歴史の本で読んだ武田ではない。


伝説の武田でもない。


今、自分の目の前にいる。


生きた兵士が。


生きた将が。


生きた軍隊として動いている。


「面白い」


宗一郎が呟いた。


一益が振り返る。


「こんな時に?」


「だからです」


宗一郎は笑っていなかった。


「これなら、研究所で作ったものが本当に役に立つか分かる」


---


戦場の中央。


武田軍が再び前へ出た。


織田軍も押し返す。


徳川軍も耐える。


一進一退。


銃声。


槍の音。


馬の嘶き。


怒号。


土煙。


戦場は混乱していた。


しかし宗一郎の周囲だけは、まだ一定の秩序を保っている。


伝令が走る。


「右、武田が後退!」


「左は?」


「押されています!」


「弾薬!」


「まだあります!」


「負傷者!」


「後方へ!」


一つずつ判断する。


一つずつ処理する。


戦争を、巨大な一つの塊として考えない。


小さな判断に分解する。


それが高槻の戦い方だった。


だが――


宗一郎はまだ知らなかった。


武田軍の本当の強さは、ここからだった。


今戦っているのは、まだ先鋒の一部。


その奥には、さらに兵がいる。


さらにその奥には――


武田信玄がいる。


そして。


高槻技術所から運ばれてきた木箱も、まだ開かれていない。


鋼。


そして、大筒。


それらが初めて戦場に姿を現す時。


この戦の様相は、大きく変わることになる。


宗一郎は前方を見た。


武田軍が再び動く。


「……来るぞ」


今度は、さっきまでとは違う。


太鼓の音が重なった。


一つ。


二つ。


三つ。


遠くから、さらに別の旗が現れる。


宗一郎の目が細くなる。


「武田の本隊か……」


その瞬間。


戦場全体が、再び動き始めた。

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