第四十一章 織田、東へ
第四十一章 織田、東へ
岐阜城。
夜は深かった。
城下の明かりも少なくなり、昼間まで響いていた人々の声も途絶えている。
それでも、天守へ続く一室だけには灯りが残っていた。
織田信長は、机の上に置かれた一通の書状を見つめていた。
徳川家康からの援軍要請。
内容は簡潔だった。
武田軍、西進。
徳川軍、交戦。
敵の圧力、強し。
援軍を求む。
信長は書状を置いた。
「……家康が頼ってきたか」
その声に、部屋にいた明智光秀が答える。
「はい」
「珍しいな」
「徳川殿は、独力で戦うことを好むお方です」
「だからこそだ」
信長は立ち上がった。
「それほど武田が強いということだ」
部屋には柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益もいた。
誰も口を挟まない。
信長は地図を広げた。
甲斐。
信濃。
遠江。
三河。
そして尾張。
「武田が西へ来る」
指が遠江を叩く。
「徳川が受ける」
次に三河。
「そして、家康が織田に助けを求めた」
信長の指が止まる。
「問題はここからだ」
光秀が言った。
「徳川を助けるか否か」
「助ける」
即答だった。
柴田が顔を上げる。
「大軍を?」
信長は答えなかった。
代わりに、地図の北西を見る。
越前。
そこには、まだ織田軍の一部が残っている。
朝倉を滅ぼしたばかりだ。
越前は落ち着き始めている。
だが、完全に安定したわけではない。
「越前から兵を引けば、どうなる」
丹羽が答えた。
「朝倉残党や寺社勢力が動く可能性があります」
「ならば、引かぬ」
柴田が眉を動かした。
「では、東へは……」
「必要な兵だけ出す」
信長は言った。
「徳川を救うために、越前を捨てるつもりはない」
その言葉に、光秀が頷く。
「二正面を避ける、ということですな」
「違う」
信長は光秀を見る。
「二正面にならぬようにする」
部屋が静かになった。
信長は続ける。
「武田と戦うためだけに兵を動かせば、武田の思う通りになる」
秀吉が口を開いた。
「武田が、織田を東へ引きずり出そうとしていると?」
「そうだ」
信長は迷わなかった。
「家康を攻めさせれば、織田は動く。そう考えている可能性は高い」
「では、動かぬ?」
秀吉が尋ねる。
「徳川が潰れるまで?」
信長が笑った。
「そこまで馬鹿ではない」
秀吉も苦笑する。
信長は再び地図を見る。
「徳川は助ける」
そして、一言。
「だが、武田の好きなようにはさせぬ」
---
その頃。
越前。
高槻宗一郎は、信長から届いた別の文を読んでいた。
短い。
だが、そこには明確な命令が書かれている。
――東へ備えよ。
宗一郎は文を畳んだ。
「やはり来たか」
竹中半兵衛が尋ねる。
「援軍ですか」
「ああ」
「どの程度でしょう」
「まだ分からない」
宗一郎は地図を見る。
「だが、信長様は越前を空にはしない」
半兵衛が微笑む。
「それらしい判断ですな」
「俺もそう思う」
宗一郎は東を見る。
「問題は、俺たちがどこまで行くかだ」
「武田と正面から?」
「まだ決めない」
「徳川の救援が目的なら、徳川の戦線を立て直せばよい」
「ああ」
宗一郎は答える。
「武田を倒す必要はない」
半兵衛の表情が少し変わった。
「しかし、武田を相手にする以上、戦わずに済むとは思えません」
「その通りだ」
宗一郎は研究所から届いた別の報告書を開いた。
そこには、これまでとは少し違う内容が書かれていた。
火薬の品質管理。
鉄砲の整備。
弾薬の規格。
そして――
鋼。
宗一郎は一行を指でなぞった。
「……そろそろだな」
「何が?」
「研究所で進めていたものが、戦場で試せる段階に入ってきた」
半兵衛は報告書を見る。
「武器ですか」
「武器だけじゃない」
宗一郎は言った。
「戦い方そのものだ」
---
数日後。
織田軍が動き始めた。
先陣に選ばれたのは、
滝川一益。
丹羽長秀。
そして――
高槻宗一郎。
後陣には、
明智光秀。
柴田勝家。
羽柴秀吉。
という布陣だった。
出陣前。
宗一郎は兵たちを前にしていた。
「今回の戦は、これまでとは違う」
兵たちは黙って聞いている。
「相手は武田だ」
その名に、空気が変わった。
武田。
甲斐の虎。
誰もが知っている。
「だが、恐れる必要はない」
宗一郎は続けた。
「恐れるな、という意味ではない」
少し間を置く。
「恐怖を無視するな」
兵たちが顔を上げた。
「怖いなら、怖いまま戦え。怖くないふりをする必要はない」
宗一郎は鉄砲隊を見る。
「撃つべき時に撃つ」
槍隊を見る。
「退くべき時に退く」
伝令を見る。
「伝えるべき時に伝える」
そして補給隊を見る。
「弾薬を切らすな」
最後に全員を見る。
「戦場で最も危険なのは、勇気が足りないことではない」
宗一郎は言った。
「勝っていると思い込んで、判断を失うことだ」
静かに言葉を終えた。
---
一方、信長もまた出陣の準備を進めていた。
だが、信長自身が全軍を率いて東へ向かうわけではない。
「信長様」
光秀が尋ねる。
「我ら後陣は、どの位置へ?」
「先陣が武田と接触した時、すぐには出るな」
「援護しないのですか」
「する」
信長は答えた。
「だが、全部を出すな」
光秀は理解した。
先陣が敵を測る。
後陣は、それを支える。
そして敵が全力を出したところで――
初めて後陣が動く。
「高槻を前へ出す意味は?」
柴田が聞いた。
信長は少し考えた。
「武田を見るためだ」
「戦うためではなく?」
「戦えば分かることがある」
信長は答える。
「高槻が、何を見つけるか」
---
東へ向かう織田軍。
その先には徳川軍が待っている。
そして、そのさらに先。
武田軍がいる。
行軍は順調だった。
しかし宗一郎は、何度も地図を確認していた。
「どうしました?」
滝川一益が尋ねる。
「道だ」
「道?」
「武田軍が通った道と、通らなかった道を比べている」
丹羽長秀が地図を覗き込む。
「……何かありますか」
「まだ分からない」
宗一郎は答える。
「だから、分からないままにしておく」
一益が笑った。
「相変わらず慎重ですな」
「慎重じゃない」
宗一郎は前を見る。
「間違えるのが怖いだけだ」
---
さらに東。
武田軍。
歩き続ける兵たちの間にも、織田軍が動いたという報せが届いていた。
「織田が動いたか」
信玄は静かに言った。
「はい」
「高槻も?」
「先陣にいるとのこと」
信玄は目を細めた。
「来たか」
側近が尋ねる。
「いかがいたします」
信玄は答えなかった。
しばらく地図を見ていた。
そして――
「迎える」
ただ、それだけだった。
武田の軍勢が進む。
徳川軍は、その進路にいる。
その背後から織田軍が近づいている。
三つの軍が、少しずつ一つの戦場へ集まり始めていた。
---
夜。
織田軍の陣。
宗一郎は一人、火の前に座っていた。
目の前には、研究所から運ばれてきた木箱がある。
まだ開けていない。
中身は――
これまでの研究の中でも、特に扱いの難しいものだった。
鋼。
そして、その鋼を使って試作された新しい砲。
大筒。
宗一郎は木箱に手を置いた。
「……本当に、戦場へ持ってきたんだな」
背後から声がした。
半兵衛だった。
「研究者たちは、随分悩んだようです」
「そうだろうな」
「使えば、人を殺します」
宗一郎は答えなかった。
しばらくしてから言う。
「だからこそ、簡単には使わない」
半兵衛が木箱を見る。
「では、何のために?」
宗一郎は火を見つめた。
「戦を短くするため」
「それで?」
「降伏する時間を作る」
半兵衛は黙った。
宗一郎は続ける。
「強い武器を作れば、戦争がなくなるなんて思ってない」
「……」
「でも、攻める側が『攻め続ければ勝てる』と思わないようにすることはできる」
木箱を見る。
「そのための道具だ」
半兵衛は静かに頷いた。
「高槻殿らしい」
「そうか?」
「ええ」
半兵衛は立ち上がる。
「ですが――」
振り返る。
「武田が、その理屈を理解してくれるとは限りません」
宗一郎は苦笑した。
「だから戦場へ行くんだろ」
---
翌朝。
遠くから、法螺の音が聞こえた。
武田軍が動いた。
織田軍も動く。
徳川軍もまた陣を整える。
まだ三軍は一つの戦場に入っていない。
しかし。
その距離は、確実に縮まっていた。
宗一郎は馬上から東を見た。
そこには、まだ武田軍の姿はない。
だが、風が運んでくる。
馬の匂い。
土煙。
そして――
かすかな太鼓の音。
「……来る」
滝川一益が槍を握り直す。
丹羽長秀も前を見る。
織田軍の先陣が、静かに進む。
その後ろには、まだ見えない後陣。
明智光秀。
柴田勝家。
羽柴秀吉。
さらに後ろには、補給と兵站を担う隊。
そして研究所から運ばれてきた、いくつもの木箱。
宗一郎は振り返った。
「まだ開けるな」
兵が頷く。
「俺の合図があるまで、大筒は出さない」
「承知しました」
宗一郎は再び前を向く。
武田軍。
徳川軍。
織田軍。
ついに三つの勢力が、一つの戦場へ向かって動き始めた。
そして宗一郎はまだ知らない。
この戦で初めて。
高槻技術所が積み上げてきた研究が――
実際の戦場で、その価値を試されることになる。
鋼も。
大筒も。
銃も。
弾薬も。
測量も。
通信も。
すべてが一つの戦場へ集まり始めていた。




