第四十章 徳川、退かず
第四十章 徳川、退かず
夕暮れが近づいていた。
遠江の山間には、まだ戦の音が残っている。
遠くで馬が嘶き、負傷兵を運ぶ者たちの声が聞こえる。
鉄砲の煙は薄れ始めていたが、土煙だけは消えなかった。
徳川軍は退いている。
だが、敗走ではない。
家康は、それだけを頼りにしていた。
「左翼、戻りました!」
「負傷者は!」
「多くはありません。しかし、騎馬に踏み込まれた隊に被害が出ております!」
家康は頷いた。
「兵の数は」
「戦う前よりかなり減っております」
「どれほどだ」
報告役が一瞬、言葉に詰まった。
「……二割ほどが戦列から外れております」
家康は黙った。
二割。
数字だけなら、まだ戦える。
だが戦とは、兵の数だけでは決まらない。
傷ついた者。
恐怖を覚えた者。
仲間を失った者。
弾薬を使い切った者。
馬を失った者。
そして何より――
敵の強さを知ってしまった者。
それらを含めれば、戦力は数字以上に落ちる。
「鉄砲隊は?」
「弾薬が減っております」
「どれほどだ」
「一部の隊では、あと数度の射撃しかできません」
家康は眉を寄せた。
武田との戦いは、まだ始まったばかりだ。
それなのに、徳川はすでに持っているものを削られている。
「敵は?」
「武田軍も損害を受けております」
「どの程度だ」
「こちらより少ないと思われます」
家康は地図へ目を戻した。
それが一番厄介だった。
武田は無傷ではない。
しかし、傷ついてなお前へ出てくる。
徳川が一歩退けば、武田は一歩進む。
その繰り返しだった。
「……強いな」
今度は誰も答えなかった。
家康自身が、それを認めたからだ。
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その頃。
武田軍では、戦場から戻った兵たちが水を求めていた。
「水を!」
「負傷者はこちらだ!」
「馬を繋げ!」
勝っている。
しかし、楽な戦ではなかった。
武田の騎馬隊にも負傷者がいる。
馬を失った者もいる。
鉄砲によって倒れた者も少なくない。
「思ったより撃ってくるな」
武田の武将が呟いた。
別の武将が答える。
「徳川も鉄砲を揃えております」
「だが、撃つだけでは勝てぬ」
その言葉に、周囲の者が頷いた。
武田が強いのは、騎馬だけではない。
敵が鉄砲を構えれば、そこを避ける。
敵が槍を並べれば、正面からぶつからない。
敵の兵が動けば、それに合わせて別の場所を叩く。
一つの隊が勝つのではない。
軍全体が一つの生き物のように動いている。
その指揮の中心にいるのが――
武田信玄だった。
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夜。
家康は浜松へ戻る前に、臨時の軍議を開いた。
灯りが揺れている。
武将たちの顔には疲労があった。
「明日も来るでしょう」
本多忠勝が言った。
「来るな」
家康が答える。
「必ず来る」
沈黙。
酒もない。
笑い声もない。
あるのは、地図と傷ついた兵の報告だけだった。
「では、どうされます」
家康は地図を見つめた。
「守る」
「浜松を?」
「違う」
家康は指を動かした。
「徳川をだ」
その言葉に、皆が顔を上げた。
「城を守るだけなら、武田に道を選ばせることになる。だが、こちらから全てをぶつければ、徳川そのものが削られる」
「では……」
「小さく戦う」
家康は言った。
「一度に全軍をぶつけぬ」
武田が強いなら、同じ土俵で戦わない。
家康はそう考えた。
「道を塞ぐ」
「橋を落とす?」
「必要なものだけだ」
「兵站を狙う?」
「そうだ」
「騎馬を止めるために柵を?」
「用意しろ」
徳川軍は動き始めた。
夜のうちに簡単な柵が作られる。
道幅を狭める。
馬が速度を出せない場所を選ぶ。
兵を一箇所へ集めず、複数の小隊へ分ける。
そして――
「退く時には、必ず次の場所へ報せろ」
家康は何度も命じた。
一つの部隊が孤立すれば終わる。
それだけは避けなければならない。
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翌朝。
武田軍が来た。
最初に姿を現したのは騎馬ではなかった。
歩兵だった。
ゆっくりと進んでくる。
徳川側は鉄砲を構えた。
「まだ撃つな」
指揮官が制した。
武田軍との距離が縮まる。
さらに縮まる。
「……まだだ」
敵兵の顔が見える。
「まだ!」
そして――
「撃て!」
轟音。
一斉に火縄銃が火を噴いた。
武田軍の前列が崩れる。
だが、後ろの兵が前へ出る。
「第二列!」
「撃て!」
また銃声。
徳川の鉄砲隊は、昨日よりも落ち着いていた。
昨日の戦いで武田の動きを知ったからだ。
一度撃って終わりではない。
撃った隊が後ろへ下がり、次の隊が前へ出る。
その間に槍兵が前を固める。
武田軍の足が一瞬止まった。
「止まったぞ!」
徳川兵から声が上がる。
しかし――
武田の太鼓が鳴った。
ドン。
一度。
二度。
三度。
武田軍が左右へ広がった。
「来るぞ!」
徳川の指揮官が叫ぶ。
正面ではない。
両側から来る。
「右を固めろ!」
「左が薄い!」
「兵を回せ!」
その瞬間だった。
正面にいた武田兵が、一斉に前へ出た。
「正面も来る!」
徳川軍の指揮官は歯を食いしばった。
三方向。
いや――
四方向。
武田は徳川軍の視線を散らしている。
「……そういうことか」
家康は遠くから見ていた。
武田は兵数で押しているだけではない。
「こちらに、判断をさせている」
右を助けるか。
左を助けるか。
中央を守るか。
その判断をした瞬間、別の場所が薄くなる。
「殿!」
伝令が駆けてくる。
「右が持ちません!」
「援軍を送れ!」
「はっ!」
別の伝令が来た。
「中央にも武田が!」
家康は一瞬だけ目を閉じた。
そして命じる。
「中央には出すな」
「しかし!」
「右を抜かれれば、全体が回り込まれる」
「承知!」
伝令が走る。
だが、家康には分かっていた。
これは苦しい。
一つを守れば、一つが削られる。
それでも――
徳川は退かなかった。
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昼過ぎ。
戦場の一角で、武田騎馬隊が動いた。
「今だ!」
馬蹄が鳴る。
地面が震える。
徳川兵が槍を構える。
「来るぞ!」
騎馬が迫る。
そのまま突っ込んでくるかと思われた。
だが――
武田騎馬隊は直前で方向を変えた。
徳川軍の正面を横切る。
そして、少し離れた場所へ回る。
「追うな!」
徳川指揮官が叫んだ。
だが、一部の兵が動いてしまった。
そこへ――
「武田の歩兵!」
横から別の隊が突っ込んだ。
「戻れ!」
遅かった。
徳川軍の一角が崩れた。
武田軍は、そこだけを深く抉る。
しかし、徳川も簡単には崩れない。
本多忠勝が前へ出た。
「ここを抜かせるな!」
槍を構えた兵たちが並ぶ。
武田兵が突っ込む。
槍と槍がぶつかる。
一人が倒れる。
また一人。
血が土に落ちる。
馬が倒れる。
叫び声が上がる。
忠勝は前へ出続けた。
「押し返せ!」
徳川兵が声を上げる。
一歩。
さらに一歩。
武田兵を押し戻す。
しかし、その後ろから別の武田隊が来る。
「また来たぞ!」
忠勝の顔から笑みが消えた。
「……次から次へと」
それでも退かない。
「ならば、来るだけ来い!」
槍を振る。
徳川兵も続く。
一時的に戦線が戻った。
だが――
それは勝利ではない。
「殿!」
伝令が叫んだ。
「別方面で武田が進んでおります!」
家康は答えなかった。
目の前の戦だけではない。
武田は、徳川軍の周囲を少しずつ削っている。
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夕刻。
ようやく武田軍が退いた。
徳川軍は、その場に残った。
勝ったわけではない。
武田が引いただけだ。
兵たちは座り込んでいる。
誰も歓声を上げない。
家康は戦場を見渡した。
死者。
負傷者。
壊れた槍。
割れた盾。
撃ち終えた火縄銃。
そして、動かなくなった馬。
「……これが、武田か」
家康の声は小さかった。
忠勝が隣に立つ。
「殿」
「分かっている」
「何を?」
家康は遠くを見る。
「このままでは、次で持たぬ」
それは弱音ではなかった。
判断だった。
徳川だけで戦い続ければ、いずれ押し切られる。
武田が強いからだ。
そしてもう一つ。
徳川には、武田と戦うために必要なものが足りない。
兵ではない。
情報でもない。
それらも必要だ。
だが――
決定的に足りないのは、時間だった。
「織田へ使者を出す」
忠勝が頷く。
「援軍を?」
家康は少し黙った。
そして言った。
「頼む」
その一言は重かった。
家康は、織田信長に頭を下げることを嫌っているわけではない。
徳川が独力で生き残れると思っていた。
しかし今は違う。
武田は、徳川だけを相手にしているようには見えない。
その背後にあるものまで見ている。
「織田が動けば……」
家康は言葉を止めた。
武田が何を狙っているのか。
まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
武田が西へ進めば――
織田も動かざるを得ない。
そして織田が動くなら。
高槻宗一郎も動く。
家康は、遠く西を見た。
「……高槻は、何を持っている」
その問いの答えを知るためにも。
家康は織田へ使者を送った。
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同じ頃。
越前。
高槻宗一郎のもとにも、報せが届いていた。
「徳川、武田と交戦」
宗一郎は文を読んだ。
続いて、もう一枚。
「徳川、後退」
さらに一枚。
「武田軍、西進を継続」
宗一郎は地図の前に立った。
越前。
近江。
美濃。
三河。
遠江。
その先に甲斐がある。
「……始まったな」
竹中半兵衛が隣に立った。
「徳川が先に受けた」
「ああ」
「織田にも援軍要請が来るでしょう」
「来るだろうな」
宗一郎は地図を見る。
まだ、自分は動かない。
今動けば、武田の思う壺かもしれない。
しかし――
徳川が崩れれば、織田が動く。
織田が動けば、自分も動く。
そしてその時。
高槻がこれまで研究してきたものを、初めて実戦に投入することになる。
宗一郎は、まだそのことを誰にも話さなかった。
研究所では今も、幾つもの試験が続いている。
鉄。
火薬。
砲。
測量。
通信。
そして――
まだ完成したとは言えないもの。
それらを戦場へ持ち込む時が、近づいていた。
「半兵衛」
「はい」
「徳川の戦況を、もっと細かく拾ってくれ」
「どこを?」
宗一郎は答えた。
「兵数だけじゃない」
地図の上に指を置く。
「どの道を使ったか」
次に別の場所。
「どこで補給したか」
さらに別の場所。
「武田が、どこを避けたか」
半兵衛が微笑んだ。
「兵ではなく、戦場そのものを見る」
「そういうことだ」
宗一郎は地図を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「武田は、徳川を倒すだけのために西へ来ているんじゃない」
「……織田を?」
「たぶんな」
だが、まだ断定はしない。
情報は情報。
判断は判断。
それを混ぜてはいけない。
その時だった。
廊下を走る足音が響いた。
「高槻様!」
宗一郎が振り返る。
「織田からの急使です!」
文が差し出された。
宗一郎は封を切る。
短い。
だが、その一文を見た瞬間。
宗一郎の表情が変わった。
――徳川より援軍要請あり。
宗一郎は静かに文を畳んだ。
「……信長様が決める」
まだ自分が動くとは言わない。
しかし。
武田との戦いは、もう徳川だけの戦ではなくなっていた。




