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第三十九章 徳川、武田と当たる

第三十九章 徳川、武田と当たる


遠江の空気が、変わった。


それは、風の向きが変わったという意味ではない。


街道を行き交う人間の数。

馬の蹄の音。

商人たちの口数。

寺社に届く米。

そして、城から城へ走る使者の数。


戦が近づくと、国は静かになる。


だが、その静けさは平穏とは違う。


誰もが、何かが起こると感じながら、それを口にしないだけだ。


徳川家康もまた、その空気を感じ取っていた。


「……来るか」


浜松城。


地図の前に立った家康は、遠江から東へ伸びる道を指でなぞった。


甲斐。


信濃。


そして遠江。


その先には三河がある。


武田が西へ向かうのであれば、いずれ徳川とぶつかる。


問題は――


どこでぶつかるか。


「殿」


本多忠勝が入ってきた。


「物見より報せです」


「申せ」


「武田の先鋒と思われる部隊が、南へ進んでおります」


「南……」


家康の目が細くなる。


「兵数は」


「確かな数は掴めておりません。ただし、騎馬が多いとのこと」


家康は黙った。


武田。


騎馬。


それだけで意味がある。


武田軍が恐ろしいのは、騎馬が多いからではない。


騎馬を含めた部隊運用そのものが強い。


敵の弱いところを見つければ、そこへ圧力を集中する。


一度崩れれば、そこから一気に戦線を食い破る。


「高槻からの報せは?」


「まだございません」


家康は少しだけ眉を動かした。


高槻宗一郎。


織田軍の中で、近頃急速に存在感を増している男。


兵の数だけで戦を考えない。


兵站。


道。


食糧。


火薬。


情報。


それらを一つの戦として考える。


そして何より――


「高槻は、まだ越前を見ているか」


「はい」


忠勝が答える。


「越前の統治と周辺の動向を確認しているようです」


家康は地図を見る。


武田が西へ。


織田は越前。


そして徳川は遠江。


三つの線が、少しずつ近づいている。


だが、家康には一つだけ気になることがあった。


武田が本当に徳川を狙っているのか。


それとも――


織田を動かすために、徳川を狙っているように見せているのか。


「……分からぬものは、使わぬ」


家康は以前と同じ言葉を呟いた。


だが今回は、情報を使わないわけにはいかなかった。


武田は、もう近い。


「兵を出す」


「殿」


「こちらから迎える」


忠勝が頷いた。


「浜松を空にするほどではない」


家康は続ける。


「だが、武田に好きな道を歩かせるな」


徳川軍が動き始めた。


---


その頃。


武田軍。


甲斐から西へ進んできた軍勢は、遠江へと入ろうとしていた。


軍の中央には、一人の男がいた。


武田信玄。


病を抱えている。


それでも、その目には衰えがなかった。


「徳川が動いたか」


「はい」


報告を受けた信玄は、静かに頷いた。


「思ったより早いな」


側近が尋ねる。


「いかがいたしますか」


信玄は地図を見た。


「戦う」


即答だった。


だが、その言葉には続きがあった。


「ただし、徳川を滅ぼす必要はない」


側近たちが顔を上げる。


「織田を動かす」


信玄の指が遠江を指した。


「徳川が苦戦すれば、織田はどうする」


「援軍を出すでしょう」


「そうだ」


信玄は笑わなかった。


「織田が動けば、高槻も動く」


それが目的だった。


高槻宗一郎。


近江。


越前。


織田の西側で、戦場そのものを変えつつある男。


その男が東へ出てくれば、武田はその力を直接見ることができる。


「だが」


信玄は地図から目を離さなかった。


「高槻だけを見てはならぬ」


「と、申しますと」


「織田そのものを見る」


信玄は静かに言った。


「高槻が何を持っているのか。それを知るには、高槻だけを見るより、織田がどう使うかを見る方が早い」


戦は、始まる前から情報戦だった。


---


徳川軍と武田軍が、初めて接触した。


最初は小さな衝突だった。


先鋒同士。


偵察隊。


騎馬。


鉄砲。


互いに相手の出方を探る。


だが、それは長く続かなかった。


武田軍の圧力が、予想以上に強かった。


「来るぞ!」


徳川の兵が叫ぶ。


土煙。


その向こうから騎馬が現れる。


一隊。


二隊。


そして、その後ろから歩兵が続く。


徳川は鉄砲を前へ出した。


「撃て!」


銃声が響く。


武田の先頭が崩れる。


しかし――


止まらない。


一度速度を落とした騎馬隊が、左右へ分かれた。


正面から来ると思っていた徳川軍の前を避ける。


そして、横へ回る。


「右!」


叫び声。


徳川軍が慌てて向きを変える。


そこへ別の部隊が突っ込んできた。


「押し返せ!」


槍がぶつかる。


馬が鳴く。


土煙が上がる。


徳川軍は決して弱くない。


だが、武田は一枚上だった。


戦場の一部分だけを見れば、徳川が勝っている場所もある。


しかし別の場所では押されている。


その情報が届く頃には、さらに別の場所が崩れる。


「伝令!」


「何だ!」


「左翼が押されております!」


「援軍を!」


「その援軍を出せば中央が薄くなります!」


指揮官たちが怒鳴り合う。


家康は遠くから戦場を見ていた。


「……なるほど」


武田は、正面から徳川を叩き潰そうとしているのではない。


徳川軍そのものを、少しずつ動かしている。


一つを助ければ、別の場所が薄くなる。


薄くなったところへ、また圧力をかける。


「武田は強いな」


家康が呟いた。


忠勝が横に立つ。


「いかがします」


家康はすぐには答えなかった。


逃げる。


戦う。


援軍を求める。


三つの選択肢。


だが、家康には分かっていた。


ここで無理に決戦すれば、徳川そのものが削られる。


「退く」


「浜松まで?」


「いや」


家康は地図を見る。


「道を残せ」


「道を?」


「武田に追撃させる」


忠勝が目を見開いた。


「しかし――」


「追わせれば、武田も伸びる」


家康は冷静だった。


「こちらが全てを失う必要はない。だが、武田に好きなように進ませるのも危険だ」


徳川軍は後退を始めた。


完全な敗走ではない。


だが、明らかに押されている。


そして、その報せは――


やがて織田へ届く。


---


夕刻。


徳川の使者が浜松を出た。


向かう先は――


織田。


家康自身が筆を取った。


余計な言葉は書かない。


武田軍、西進。


徳川軍と接触。


戦況不利。


援軍を求む。


最後に一文だけ付け加えた。


――徳川単独では、長くは持たぬ。


使者が走り出す。


その姿を見送りながら、家康は呟いた。


「さて……織田はどう動く」


その問いの答えを、家康はまだ知らない。


だが一つだけ確かなことがあった。


武田と徳川は、すでに刃を交えた。


そして次に戦場へ入るのは――


織田である。

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