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第三十八章 徳川、動く

第三十八章 徳川、動く


 越前・一乗谷。


 朝が来る。


 だが、宗一郎にとっては朝になったからといって、一日が始まるわけではなかった。


 報告書に目を通し終えなければ、昨日が終わらない。


 机の上には、三つの束が置かれていた。


 一つは越前。


 一つは東。


 そして、もう一つは京都。


 宗一郎は最初の紙を手に取った。


「越前北部――朝倉残党の大規模な集結は確認されず」


 次。


「敦賀周辺――寺社勢力に目立った軍事行動なし」


 さらに一枚。


「兵糧輸送、平常化の兆候」


「悪くない」


 宗一郎は呟いた。


 朝倉が滅びた直後だ。


 ここで大規模な反乱が起きれば、せっかく終わらせた戦が再び始まる。


 だが今のところ、それは起きていない。


 宗一郎は二枚目の束を手に取った。


 東。


 こちらは違った。


「武田軍、西進」


「兵糧輸送、継続」


「騎馬隊、増加」


「遠江方面への街道に動きあり」


 宗一郎の眉が動く。


「まだ遠江か」


「はい」


 半兵衛が答える。


「ただし、徳川の動きも変わりました」


「来たか」


 半兵衛が頷く。


「三河で兵の召集が始まっています」


 宗一郎は地図を広げた。


 甲斐。


 信濃。


 遠江。


 三河。


 指で線を引く。


「武田が西へ進む」


 次に三河を指す。


「徳川が備える」


 そして、その先。


「織田はどうするか」


 半兵衛は答えなかった。


 宗一郎も、すぐには答えを出さない。


 しばらく地図を見つめていた。


「家康は、武田の動きを待っていた」


「はい」


「なら、武田が動けば徳川も動く」


「その通りです」


「問題は、その次だ」


 宗一郎は尾張を指した。


「徳川が織田に援軍を求めるか」


「求めるでしょうな」


「だが、信長がすぐに兵を出すとは限らない」


 半兵衛が少し笑った。


「殿なら、どうなさいます?」


「俺なら?」


「はい」


 宗一郎は苦笑した。


「俺なら、まず武田の目的を確認する」


「信長様と同じですな」


「……そうかもな」


 そこへ兵が入ってきた。


「申し上げます!」


「何だ」


「三河から急報です!」


 宗一郎は顔を上げた。


「申せ」


「徳川家が、東三河から遠江方面へ兵を動かす準備を始めたとのこと」


 半兵衛が地図を見る。


「いよいよですな」


 宗一郎は頷いた。


「そうだな」


 だが、その顔に喜びはなかった。


 戦が始まる。


 それだけなら、珍しくもない。


 問題は、その戦がどこまで広がるかだった。


 武田と徳川だけで終わるのか。


 織田まで巻き込まれるのか。


 そして――。


 その裏で誰かが、さらに別の動きを仕掛けるのか。


「半兵衛」


「はい」


「東へ送っている者たちに伝えろ」


「何を?」


「武田軍の兵数を無理に確定しようとするな」


「……」


「兵数は変わる」


 宗一郎は地図を叩いた。


「だが、変わらないものがある」


「兵糧?」


「そうだ」


 次に街道を指す。


「荷駄の数」


 そして川。


「船」


 さらに道。


「街道の混雑」


 最後に武田軍の進路。


「そして、武田軍が何を避けているか」


 半兵衛が目を細めた。


「避けているもの?」


「軍は進むだけじゃない」


 宗一郎は言った。


「通れない場所。


 通りたくない場所。


 通る必要がない場所。


 そこにも情報がある」


「なるほど」


「敵が何を見ているかを見るんだ」


 半兵衛は深く頷いた。


「承知しました」


 その日の夕刻。


 三河。


 徳川家康は、机の上に置かれた報告を読み終えていた。


「武田軍、遠江へ」


「はい」


「兵数は?」


「確定しておりません」


「……」


 家康は地図を見た。


 武田。


 遠江。


 三河。


 そして、その西に織田。


 武田の兵力は大きい。


 正面から受ければ、徳川だけでは苦しい。


 だが。


 織田が動けば話は変わる。


「織田に使者を」


「援軍を?」


 家康はしばらく考えた。


「いや」


「では?」


「まず、武田が遠江へ進んだことだけを伝えよ」


 家臣が驚く。


「援軍を求めぬので?」


「今、援軍を求めれば――」


 家康は言葉を止めた。


 織田が動く。


 その可能性は高い。


 だが、織田がどれだけ動くか分からない。


 そして、高槻宗一郎がいる。


「高槻は、越前を捨てるのか」


 家康は呟いた。


 それが分からない。


 もし宗一郎が東へ来るなら、武田との戦いは厳しくなる。


 だが、宗一郎が来ないなら――。


 家康はそこで考えを止めた。


 ふと、先日の文を思い出した。


『武田が東へ出れば、織田も東へ兵を向ける』


 誰かがそう書いて寄越した。


 最初は、ありがたい情報だと思った。


 今なら分かる。


 少し違う。


 それは情報ではなく――。


「……誘導か」


 家康は呟いた。


「殿?」


「何でもない」


 家康は文を火鉢へ近づけた。


 紙が燃える。


 だが、すべてを燃やす前に手を止めた。


 そこには、まだ一つ気になることがあった。


 文を書いた者は、なぜ自分にこれを伝えたのか。


 武田が動く。


 織田も動く。


 越前が薄くなる。


 その結果、得をするのは誰か。


「……分からぬ」


 家康は文を灰にした。


「分からぬものは、使わぬ」


 だが、戦は待ってくれない。


 遠江では、武田軍が進んでいる。


 徳川も兵を動かす。


 その知らせは、やがて尾張へ届いた。


 そして――。


「徳川が動いたか」


 信長は報告を聞くと、静かに笑った。


「はい」


「武田は?」


「遠江へ」


「そうか」


 信長は地図の前に立った。


 以前なら、すぐに兵を送っていたかもしれない。


 だが、今は違う。


 越前。


 そこには宗一郎がいる。


 朝倉を滅ぼしたばかりだ。


 戦後処理を放り出して東へ動けば、越前が再び燃える。


 しかし、徳川を見捨てれば、武田が勢力を伸ばす。


「……面倒なところを突いてきたな」


 信長が呟いた。


「高槻を東へ呼ぶつもりかもしれませぬ」


 家臣の言葉に、信長は目を細めた。


「誰が?」


「武田が、でしょうか」


「武田だけなら、それほど面倒ではない」


 信長は地図を見る。


「武田は徳川を狙う。それは分かる」


 だが。


「問題は、武田が動いたことを利用している者がいるかどうかだ」


 信長は宗一郎から聞いた情報を思い出していた。


 同じような噂。


 似た文面。


 越前。


 京都。


 東国。


「宗一郎は何と言っている?」


「越前から兵を抜くな、と」


「ほう」


 信長は少し笑った。


「やはり、そう言うか」


「では、援軍は?」


 信長は答えなかった。


 やがて。


「徳川には、必要なだけ送る」


「必要なだけ?」


「武田を討つためではない」


 信長は言った。


「徳川を潰させぬためだ」


 その言葉には、織田の今後を左右する判断が込められていた。


 武田を完全に倒す必要はない。


 今はまだ。


 徳川が生き残ればいい。


 そして、越前も守る。


「宗一郎には伝えよ」


「はい」


「東へ動く準備はさせる」


 家臣が頷く。


「ただし――」


 信長は続けた。


「越前を空にするな」


 その夜。


 越前。


 宗一郎のもとへ、尾張からの使者が到着した。


「信長様よりです」


 宗一郎は文を開いた。


 短い。


 だが、信長らしい文だった。


『徳川を見捨てぬ。

 越前も捨てぬ。

 宗一郎、どう見る』


 宗一郎はしばらく黙っていた。


 そして笑った。


「……信長らしいな」


 半兵衛が覗き込む。


「何と?」


「どちらも捨てない、だそうだ」


「欲張りですな」


「そういう人だよ」


 宗一郎は地図を広げた。


「なら、俺も考えよう」


 東へ兵を送る。


 だが、越前を空にしない。


 ならば。


 必要なのは兵力ではない。


「兵站だ」


 宗一郎は呟いた。


「東へ行く兵を、できるだけ少なくする」


「少なく?」


「徳川を助けるために、織田軍全部を動かす必要はない」


 宗一郎は高槻の旗が置かれている場所を指した。


「情報」


 次に兵糧。


「補給」


 そして弾薬。


「武器」


 最後に街道。


「道」


 半兵衛が理解する。


「兵そのものを増やすのではなく、少ない兵で戦えるようにする」


「そう」


 宗一郎は頷いた。


「高槻が今まで積み上げてきたものを使う」


 だが――。


 そこで宗一郎の表情が変わった。


「ただし、まだ一つ足りない」


「何が?」


「武田軍の正確な意図だ」


 宗一郎は東を見た。


「徳川を潰すためなのか」


 少し間を置く。


「織田を東へ引きずり出すためなのか」


 そして。


「その両方なのか」


 答えはまだ出ない。


 その頃。


 武田軍の陣。


 夜。


 陣幕の中で、武田信玄は一枚の報告を読んでいた。


「織田、まだ大きく動かず」


 側近が続ける。


「徳川は備えを始めています」


「高槻は?」


「越前に留まっております」


 信玄は目を閉じた。


 病に蝕まれた身体。


 それでも、その目だけは鋭い。


「……そうか」


 報告を置く。


「高槻は、越前を捨てぬか」


「はい」


 信玄はしばらく考えた。


「ならば、単純に兵を増やしても意味がない」


 側近が顔を上げる。


「では?」


 信玄は地図を見た。


「徳川を圧迫する」


「はい」


「だが、徳川を今すぐ潰す必要もない」


「……」


「織田が動く理由を作れ」


 側近が息を呑む。


「徳川を攻めるだけでは足りぬ」


 信玄は静かに言った。


「織田に、徳川を助けねばならぬと思わせる」


 そして。


「高槻にも、東を見る必要があると思わせる」


 信玄の指が、地図の上をゆっくり動いた。


 遠江。


 三河。


 そして越前。


「一人を釣るのではない」


 低い声が響いた。


「状況そのものを動かす」


 その言葉を聞いた側近が頭を下げる。


「承知しました」


 陣幕の外では、武田の兵が動いている。


 騎馬。


 歩兵。


 荷駄。


 鉄砲。


 すべてが西へ向かっていた。


 その動きを、一人の歩き巫女が遠くから見ていた。


 彼女は夜明け前に陣から離れる。


 向かう先は――。


 西。


 そして、その途中で一度だけ足を止めた。


 懐から紙を取り出す。


 そこには、二つの言葉が記されていた。


『徳川、動く』


『織田、まだ大軍を動かさず』


 女はその紙を折った。


「……まだ」


 小さく呟く。


「まだ、重ならない」


 そして歩き始める。


 その先には三河がある。


 さらに、その先には尾張。


 誰かが情報を運び。


 誰かがそれを受け取り。


 誰かが判断する。


 戦場に兵が集まるより先に。


 見えない場所で、もう一つの戦が始まっていた。


 そして宗一郎はまだ知らない。


 東で始まろうとしている戦が、単なる武田と徳川の争いではないことを。


 だが――。


 宗一郎もまた、動き始めていた。


 越前を捨てず。


 徳川も見捨てず。


 少ない兵で東を支えるために。


 高槻がこれまで積み上げてきた、


 情報。


 兵站。


 弾薬。


 技術。


 そのすべてを、初めて一つの戦場へ繋げるために。

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