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第五章 稲葉山の麓にて

第五章 稲葉山の麓にて


 永禄十年。


 尾張の情勢は、大きく変わっていた。


 織田信長は、もはや「尾張のうつけ」と呼ばれる男ではない。


 桶狭間で今川義元を討ち。


 美濃へ兵を進め。


 そして今――。


 美濃の大半を、その手中に収めようとしていた。


 高槻宗一郎もまた、大きく変わっていた。


 かつては、名もない商人だった。


 今では織田家の直臣。


 さらに、織田家の兵站を統括する立場にまでなっていた。


 高槻屋は尾張だけではない。


 三河。


 美濃。


 近江。


 伊勢。


 畿内。


 各地に商人を送り、情報を集めている。


 米。


 塩。


 鉄。


 油。


 木材。


 馬。


 そして――火薬。


「高槻様、稲葉山城への荷は予定通りです」


「よし」


「ただ、鉄の価格が上がっております」


「ならば今月は備蓄を使う」


「来月は?」


「伊勢から回せ」


「承知しました」


 宗一郎は帳簿を閉じた。


「戦争とは、本当に金がかかる」


 思わず苦笑する。


 現代の戦争でもそうだ。


 戦国時代なら、なおさらだった。


 


 その日。


 宗一郎は信長に呼ばれた。


「高槻、入れ」


「失礼いたします」


 部屋には信長しかいなかった。


 いつもの軍議とは違う。


 宗一郎は少し警戒した。


「何かございましたか?」


「美濃が落ちる」


 信長は言った。


「……はい」


「あと少しだ」


 信長は地図を見ている。


「稲葉山城さえ取れば、美濃は終わる」


 宗一郎は頷いた。


 史実を知っている。


 稲葉山城は、やがて岐阜城と名を変える。


 信長はここを新たな本拠とする。


 そして。


 天下布武。


 その言葉が歴史に登場する。


「お前のおかげでもある」


「私だけの力ではありません」


「謙遜するな」


 信長は笑った。


「兵糧が切れぬ」


「武器も切れぬ」


「金も回る」


「敵の情報は、こちらへ流れてくる」


「美濃の商人まで、お前の店を頼るようになった」


 宗一郎は黙っていた。


「高槻」


「はい」


「お前は、もうただの家臣ではない」


 宗一郎は顔を上げた。


「織田家にとって、お前の存在は大きすぎる」


 その言葉に。


 宗一郎は嫌な予感がした。


「信長様」


「何だ」


「私は、何か間違えましたか?」


「逆だ」


 信長は笑った。


「大きくなりすぎた」


 ◆


 その夜。


 宗一郎は一人で考えていた。


 織田家に仕えて、七年。


 最初は御用商人。


 次に直臣。


 今では一軍を養えるほどの財力と商業網を持っている。


 そして。


 織田家の中でも、宗一郎の発言力は大きくなっていた。


 だが。


 力が大きくなるほど、危険も増える。


 家臣から見れば


「商人上がりが、なぜあそこまで?」


 そう思う者もいるだろう。


 信長に気に入られている。


 金を持っている。


 情報を握っている。


 軍にも影響力がある。


 もし宗一郎が裏切れば。


 織田家にとって脅威になり得る。


「だから……」


 宗一郎は気付いた。


 信長が俺を恐れているのではない。


 むしろ。


「信長様は、俺を守ろうとしている?」


 その翌日。


 答えが出た。


 ◆


「高槻」


「はい」


「妹を娶れ」


 宗一郎は固まった。


「……はい?」


「聞こえなかったか」


「いえ」


「俺の妹を、お前の妻にする」


「…………」


 宗一郎の頭が完全に止まった。


「信長様」


「何だ」


「冗談……ではありませんよね?」


「俺がこのようなことで冗談を言うと思うか?」


「……思いません」


 宗一郎は深く息を吐いた。


「お断りいたします」


 信長の眉が上がった。


「なぜだ」


「恐れ多すぎます」


「それだけか?」


「それだけではありません」


 宗一郎は正座したまま答えた。


「私は元々、身分のない商人です」


「知っておる」


「それが織田家の姫君を妻に迎えれば、家中に反発する者が出ます」


「出るだろうな」


「それに」


 宗一郎は言葉を選ぶ。


「私は戦で死ぬかもしれません」


「……」


「商売だけなら、まだいい」


「だが、今の私は戦場へ出る」


「いつ死ぬか分かりません」


 宗一郎は頭を下げた。


「妹君を、そのような家へ嫁がせるわけには参りません」


 信長は黙っていた。


 しばらくして。


「顔を上げろ」


「はい」


「お前は勘違いしている」


「……?」


「俺は妹を褒美として渡すのではない」


 信長の声は、いつになく真剣だった。


「褒美?」


「そうだ」


 信長は言った。


「桶狭間の褒美なら、もっと別のものを与えている」


「……」


「土地も与えた」


「金も与えた」


「家臣としての地位も与えた」


「それでも、お前は働き続けた」


 信長は宗一郎をまっすぐ見る。


「お前が欲深いからか?」


「……違います」


「天下が欲しいからか?」


 宗一郎は答えなかった。


 信長は笑った。


「お前は、俺の天下を心配している」


 宗一郎の心臓が跳ねた。


「俺が死なぬように」


「織田家が滅びぬように」


「兵が飢えぬように」


「家臣が裏切らぬように」


「お前はずっと動いてきた」


 信長は静かに言った。


「お前は、もう織田家の外にいる男ではない」


「……」


「ならば、内側へ入れ」


 その言葉が。


 宗一郎の胸に突き刺さった。


 ◆


「これは政略でもある」


 信長は続けた。


「お前の商売は大きくなりすぎた」


「はい」


「美濃にも、尾張にも、お前の人間がいる」


「はい」


「伊勢にもいる」


「はい」


「近江にも手を伸ばしているな?」


「……はい」


「ならば、周囲の者はどう思う?」


 宗一郎は黙った。


 織田家の家臣。


 それなのに巨大な商業網を持つ。


 独自の情報網を持つ。


 独自の資金力を持つ。


 そして多くの人間を動かせる。


 確かに。


 織田家の外から見れば。


 危険な男だ。


「だから、お前を織田家の血縁にする」


 信長は言った。


「そうすれば、お前の商売は織田家の商売になる」


「……」


「お前を攻撃することは、織田家を攻撃することになる」


 宗一郎は理解した。


 それは保護でもあった。


 同時に。


 信長自身への忠誠を形にすることでもある。


「しかし」


 信長は続ける。


「俺にも都合がある」


「何でしょう?」


「お前が他家へ流れる可能性を消せる」


 宗一郎は目を見開いた。


「お前ほどの男を、他家が放っておくと思うか?」


「……」


「徳川も欲しがるだろう」


「武田も欲しがる」


「上杉も欲しがるかもしれぬ」


「ならば」


 信長は笑った。


「俺の身内にしてしまえばいい」


 その笑顔には。


 信長らしい合理性があった。


 ◆


 だが。


 宗一郎が最も気になったのは。


「妹君のお気持ちは?」


 だった。


 信長の表情が少し変わる。


「政略だ」


「本人の意思を無視するつもりはありません」


 宗一郎は言った。


「政略であっても、人ひとりの人生です」


「……」


「私の妻になる方には、私を選ぶ権利があると思います」


 信長はしばらく黙っていた。


「会ってみるか」


「よろしいのですか?」


「会え」


 信長は言った。


「妹も、お前のことは知っている」


「……私を?」


「桶狭間以来、尾張では有名だからな」


「そうですか……」


 宗一郎は緊張した。


 そして数日後。


 初めて。


 信長の妹と対面することになった。


 ◆


 庭に、女性が一人立っていた。


 派手ではない。


 しかし。


 姿勢が美しい。


 年齢は宗一郎とそう離れていない。


 彼女が振り返る。


「高槻様ですね」


「はい」


「お初にお目にかかります」


「こちらこそ」


 宗一郎は頭を下げた。


「兄上から、お話は伺っています」


「……どのような?」


 女性は微笑んだ。


「変わった男だと」


「否定できません」


「商人なのに戦のことばかり考える」


「……」


「米の量を数え」


「鉄の量を数え」


「馬の数を数え」


「人の流れまで数える」


 宗一郎は苦笑した。


「そこまで言われておりますか」


「はい」


 彼女は笑った。


「でも」


 その表情が少し柔らかくなる。


「兄上が、これほど誰かを信頼しているのは珍しいです」


「信頼……」


「兄上は、人を簡単には信用しません」


「知っています」


「それなのに」


 彼女は言った。


「兄上は高槻様の話をするとき、楽しそうです」


 宗一郎は何も言えなかった。


 ◆


「私は、あなたに約束できます」


 宗一郎は言った。


「私は武士としては大した男ではありません」


「はい」


「剣も、それほど強くありません」


「はい」


「ですが」


 宗一郎はまっすぐ彼女を見る。


「あなたを政治の道具として扱うつもりはありません」


「……」


「織田家のための結婚になるでしょう」


「はい」


「ですが、あなたを妻として迎える以上、私の家ではあなたが主人です」


 彼女は驚いたように目を見開いた。


「変なことを言いますね」


「現代……いや」


 宗一郎は慌てて言い直す。


「私の考え方です」


 彼女は微笑んだ。


「では」


 少し考え。


「私も一つ、お願いしてよろしいでしょうか?」


「何でしょう」


「兄上をお守りください」


 宗一郎は息を呑んだ。


「……はい」


「兄上は、無茶をします」


「知っています」


「自分の命を惜しまないところがあります」


「知っています」


「ですから」


 彼女は頭を下げた。


「兄上を、どうかお支えください」


 宗一郎も頭を下げた。


「お約束します」


 ◆


 婚儀が決まった。


 織田家中には衝撃が走った。


「商人上がりが?」


「信長様の妹君を?」


「なぜ高槻などに……」


 反発もあった。


 当然だった。


 だが。


 信長は一切取り合わなかった。


「俺が決めた」


 それだけ。


 そして。


 婚儀の日。


 宗一郎は、織田家の人間として正式に迎えられた。


 宴の席で。


 信長が宗一郎の肩を叩いた。


「これで、お前は俺の身内だ」


「……はい」


「家臣なら裏切ることもできる」


 信長は笑った。


「だが、身内なら話は違う」


 宗一郎も笑う。


「裏切るつもりなどありません」


「知っている」


 信長は杯を掲げた。


「だからこそだ」


 二人は杯を合わせた。


 その瞬間。


 宗一郎は思った。


 これは褒美ではない。


 信長が自分を信じた証だ。


 同時に。


 織田家の運命を背負うということでもある。


 商人として。


 武士として。


 そして――。


 織田家の一員として。


 もう後戻りはできない。


 ◆


 その夜。


 宗一郎は妻となった女性と並んで、庭を眺めていた。


「これから、どうなるのでしょうね」


 彼女が呟く。


 宗一郎は答えた。


「戦が続きます」


「……そうですか」


「信長様は、天下を目指します」


「はい」


「だから、きっと穏やかな日々にはなりません」


「覚悟しています」


 彼女は言った。


「あなたは?」


「私もです」


 宗一郎は夜空を見る。


 歴史を知っている。


 これから。


 信長は上洛する。


 将軍を奉じる。


 浅井家と同盟を結ぶ。


 朝倉と戦う。


 比叡山。


 長篠。


 本願寺。


 武田。


 毛利。


 そして――。


 本能寺。


 宗一郎は拳を握った。


「絶対に変える」


 妻が振り向く。


「何をです?」


「……いや」


 宗一郎は微笑んだ。


「何でもありません」


 だが心の中では。


 はっきりと誓っていた。


 信長を死なせない。


 織田家を滅ぼさない。


 そのためなら。


 自分の持つ現代知識のすべてを使う。


 商売も。


 技術も。


 兵站も。


 外交も。


 情報も。


 そして。


 この時代で得た――。


 家族も。


 守り抜く。


 尾張の商人だった男は。


 この日。


 完全に織田家の一員となった。


 そして。


 天下布武への道が。


 いよいよ始まろうとしていた。

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