第四章 美濃への道
第四章 美濃への道
桶狭間から三月。
尾張では、ある男の名が急速に知られるようになっていた。
高槻宗一郎。
元は素性も知れぬ商人。
それが今や、織田信長直属の家臣となっている。
しかも、ただの武士ではない。
「高槻様、三河からの米、到着しております」
「倉へ入れろ。ただし、古米と新米は混ぜるな」
「承知しました」
「それから、明日の朝に塩を三百俵、清洲へ」
「はい」
「馬の飼料は?」
「明後日には届きます」
「ならば問題ない」
宗一郎は次々に指示を出していた。
帳簿。
荷札。
輸送予定。
倉庫。
船。
街道。
商人。
それらを一つの仕組みにまとめていく。
桶狭間で、宗一郎は一つのことを確信していた。
戦は、戦場だけで決まるのではない。
戦場へ兵を送り続ける力。
兵を食わせる力。
武器を補充する力。
情報を集める力。
それらすべてが戦力なのだ。
◆
「高槻」
「はい」
信長に呼ばれ、宗一郎は清洲城へ向かった。
「美濃を取る」
信長は、開口一番そう言った。
宗一郎は地図を見る。
美濃。
斎藤家。
尾張の北に広がる国。
肥沃な土地。
多くの人口。
そして交通の要衝。
「美濃を取れば、尾張は東と西への動きが楽になります」
「その通りだ」
信長は地図を指で叩く。
「だが、斎藤は強い」
「はい」
「どう攻める?」
宗一郎はすぐには答えなかった。
美濃攻略。
史実では、信長は長い年月をかけて美濃を攻略する。
だが。
宗一郎は知っている。
美濃攻略の鍵は、戦場で勝ち続けることではない。
「斎藤家を、内側から崩します」
信長の目が光った。
「どうやって?」
「金と情報です」
「また商人か」
「商人だからこそできます」
宗一郎は地図の上に指を置く。
「美濃には多くの国人がおります」
「うむ」
「彼らは斎藤家に忠誠を誓っているとは限りません」
「……」
「領地を守りたい者」
「家を残したい者」
「商売を続けたい者」
「隣の国人と争っている者」
「それぞれ欲しいものが違います」
宗一郎は言った。
「そこを利用します」
信長は笑った。
「戦わずして勝つか」
「戦わずに済むなら、それが一番安いです」
「商人らしい答えだな」
「戦争は金がかかりますから」
信長は声を上げて笑った。
◆
宗一郎は、すぐに商人たちを美濃へ送り込んだ。
米を売る。
塩を売る。
油を売る。
鉄を売る。
薬を売る。
商人はどこへでも行く。
国境など関係ない。
刀を持った武士が入れば警戒される。
しかし商人なら。
「どこから来た?」
「尾張です」
「何を売る?」
「塩と油です」
それで済む。
商人たちは町へ入り。
市場へ入り。
宿へ泊まり。
酒場で話を聞く。
そこで集めるのは軍事機密ではない。
もっと小さな情報だった。
「最近、米が高くなった」
「斎藤家が鉄を集めている」
「○○殿と△△殿が揉めている」
「あの城では兵糧が不足している」
「今年は川の水が少ない」
一見すれば、どうでもいい情報。
だが。
宗一郎はそれを繋ぎ合わせた。
◆
「ここです」
宗一郎は美濃の地図を広げた。
信長の前には、数十枚の報告書が並んでいる。
「この地域では塩が不足しています」
「こちらは鉄が不足」
「こちらは米が不足」
「ここでは斎藤家への不満が強い」
「ここは隣の国人と争っています」
信長は黙って聞いていた。
「で?」
「売ります」
「何を?」
「欲しがっているものを」
「金は?」
「金は取ります」
「ははは」
信長が笑った。
「お前は本当に商人だな」
「はい」
宗一郎は笑う。
「ですが、物を売るだけではありません」
地図上に印を付ける。
「こちらには塩を安く売る」
「こちらには鉄を優先的に回す」
「こちらには米を」
「そして――」
ある場所に印を付ける。
「ここには、何も売らない」
信長が眉を上げた。
「なぜだ?」
「斎藤家に忠実だからです」
「なるほど」
「味方になりそうな者には利益を与える」
「敵には利益を与えない」
「はい」
宗一郎は言った。
「戦争の前に、市場をこちらへ傾けます」
信長はしばらく地図を見つめた。
「……恐ろしい男だな」
「商人として褒め言葉と受け取っておきます」
信長はまた笑った。
◆
そして。
宗一郎が次に目を付けたのが――鉄砲だった。
「鉄砲を増やします」
ある日、宗一郎は信長に言った。
「今でも十分ある」
「足りません」
「なぜ?」
「鉄砲は一丁の武器ではありません」
宗一郎は続ける。
「大量に揃えて初めて意味があります」
「大量に?」
「はい」
宗一郎は紙に数字を書いた。
「百丁では百人しか撃てません」
「千丁なら?」
「千人」
「当たり前だ」
「ですが重要なのは、その後です」
宗一郎は別の数字を書く。
「火薬」
「弾」
「火縄」
「清掃道具」
「予備部品」
「修理」
「訓練」
信長の表情が変わった。
「つまり」
「鉄砲隊そのものを一つの仕組みにするのです」
宗一郎は言った。
「一丁ずつ職人が作るのではなく、できる部分から分業します」
銃身。
台木。
金具。
火縄。
弾。
火薬。
それぞれの職人に役割を分ける。
現代の工業生産ほど精密にはできない。
しかし。
「一人の職人が最初から最後まで作る必要はありません」
宗一郎は言った。
「作業を分ければ、生産量を増やせます」
信長は目を細めた。
「それを美濃攻めに使うのか」
「はい」
「どれほど作れる?」
「まず三百」
「三百?」
「その後、五百」
「千は?」
「時間をください」
信長は笑った。
「よかろう」
こうして。
織田家に、鉄砲生産の仕組みが生まれた。
◆
さらに宗一郎は、鉄砲そのものにも改良を加えた。
火縄の管理。
火薬の保管。
弾丸の規格。
装填手順。
射撃訓練。
雨対策。
すべてを統一した。
「撃て!」
轟音。
「次!」
兵士が火縄を操作する。
「火薬!」
「弾!」
「次弾!」
宗一郎は訓練を眺めていた。
まだ現代の軍隊とは比べものにならない。
だが。
以前とは明らかに違う。
「これなら戦える」
信長もその様子を見ていた。
「高槻」
「はい」
「お前は鉄砲をどう考えている?」
「槍より弱い武器です」
「ほう?」
「一対一なら、槍や刀の方が強いでしょう」
「ならば、なぜ増やす」
「一対一で戦わせなければいい」
宗一郎は答えた。
「十人で一人を狙う」
「百人で十人を狙う」
「同時に撃つ」
「敵の隊列を崩す」
「そして槍隊が突っ込む」
信長の目が輝く。
「武器ではなく、組み合わせで戦う」
「はい」
「面白い」
信長は鉄砲隊を見つめた。
「これを大量に揃えるぞ」
「承知しました」
◆
美濃攻略が始まった。
織田軍が進む。
しかし。
宗一郎は、前線へ大量の兵を送ることを避けた。
「兵糧が足りません」
家臣が反発する。
「敵が攻めてきているぞ!」
「だからこそです」
宗一郎は答える。
「十日分の米しかないなら、十日しか戦えません」
「ならば二十日分持ってくればよい!」
「二十日分を持ってくるには、運ぶ人間が必要です」
「では人を増やせ!」
「人が増えれば食料も増えます」
「……」
「軍は大きくすればするほど、食料を食います」
宗一郎は帳簿を示した。
「一万の兵を十日動かすために必要な米」
家臣たちが黙る。
「それを二十日動かすなら倍です」
宗一郎は言った。
「だから私は、戦う前に勝てるようにします」
「どういう意味だ?」
「敵の兵糧を減らす」
「……」
「敵の馬を減らす」
「……」
「敵の鉄を減らす」
「……」
「敵の塩を減らす」
宗一郎は笑った。
「そして、こちらの物資を増やす」
戦は始まる前から始まっている。
◆
やがて。
美濃の一部で異変が起き始めた。
「斎藤家への納入が遅れております」
「なぜだ?」
「商人が尾張へ流れております」
「鉄が足りません」
「塩が高騰しております」
「米も不足しております」
斎藤家の家臣たちは混乱した。
宗一郎は市場を直接支配したわけではない。
しかし。
商人たちに「どこへ売れば利益が出るか」を示しただけだった。
結果。
金の流れが変わる。
物の流れが変わる。
そして。
人の流れまで変わる。
◆
ある夜。
宗一郎は一人で地図を見ていた。
「斎藤家は……」
強い。
まだ崩れない。
だが。
「内側に亀裂がある」
それは歴史を知っているから分かる。
斎藤家は一枚岩ではない。
そして。
その亀裂を広げる人物がいる。
「竹中半兵衛……」
宗一郎はその名を呟いた。
後世に名を残す天才軍師。
宗一郎は知っている。
この男が稲葉山城を奪うことを。
そして――。
「信長様」
「何だ」
「美濃攻略の鍵となる男がいます」
「誰だ?」
「竹中半兵衛」
信長の目が細くなる。
「知っているのか?」
「名前だけです」
「何者だ」
「非常に優れた男です」
宗一郎は慎重に答える。
「敵に回すべきではありません」
「ならば、味方にするか」
「それが理想です」
信長は笑った。
「お前は欲しいものを何でも買おうとするな」
「買えるものなら」
「金で買えぬものは?」
宗一郎は少し考えた。
「信頼です」
「ほう」
「それだけは時間をかけるしかありません」
信長は頷いた。
◆
そして。
稲葉山城。
斎藤家の本拠。
難攻不落の城。
宗一郎は、ここを見上げていた。
「……すごい」
山城。
高い。
険しい。
正面から攻めれば被害が大きい。
だが。
宗一郎は別のものを見ていた。
道。
川。
食料。
薪。
水。
「城は兵だけで守っているわけじゃない」
宗一郎は呟いた。
「城を維持する仕組みで守っている」
ならば。
その仕組みを壊せばいい。
◆
宗一郎は信長へ進言した。
「城攻めを急がないでください」
「なぜだ」
「周辺の市場を押さえます」
「市場?」
「はい」
「城内の兵が必要とするものを、外から入れなくします」
「兵糧攻めか」
「それだけではありません」
宗一郎は言った。
「情報を流します」
「何を?」
「斎藤家の中に不満がある」
「それを広める」
「そして、味方になった者には条件を提示する」
信長は笑った。
「お前は本当に戦を嫌うな」
「戦が嫌いなのではありません」
宗一郎は答えた。
「勝てる戦だけしたいのです」
信長は大きく笑った。
◆
しかし。
斎藤家も黙ってはいなかった。
ある日。
高槻屋の荷駄が襲われた。
「高槻様!」
兵が駆け込む。
「荷駄が襲われました!」
「何を奪われた?」
「火薬です」
宗一郎の顔が険しくなった。
これは偶然ではない。
敵は、自分たちの兵站を狙っている。
「敵も気付いたか」
宗一郎は呟いた。
その夜。
宗一郎は帳簿をすべて閉じた。
「商売のやり方を変える」
「はい?」
部下が聞き返す。
「これからは、荷物を一つの隊に集中させるな」
「分散させるのですか?」
「そうだ」
さらに。
「重要物資には偽装荷を混ぜる」
「偽装?」
「空の樽に石を入れて、火薬だと思わせる」
「……」
「本物は別の道から運ぶ」
宗一郎は地図を広げる。
「敵がこちらの物流を狙うなら」
指を動かす。
「こちらも敵の物流を狙う」
商人同士の争いではない。
国と国の戦いになっていた。
◆
数週間後。
信長のもとへ一通の書状が届いた。
「高槻」
「はい」
「お前に客だ」
「客?」
「美濃からだ」
宗一郎は顔を上げた。
「誰です?」
信長は書状を渡した。
そこに記されていた名前。
――竹中半兵衛。
宗一郎は息を呑んだ。
「……来たか」
歴史が動いている。
しかし。
ここから先は。
宗一郎が知っている歴史とは違う。
自分がすでに介入しているからだ。
そして。
その数日後。
美濃の情勢は大きく変わることになる。
織田信長は、ついに美濃攻略の核心へ踏み込む。
その中心にいるのは。
一人の天才軍師と。
一人の未来を知る商人。
そして――。
天下を狙う若き織田信長だった。




