第六章 天下布武
第六章 天下布武
永禄十年、秋。
稲葉山城が落ちた。
斎藤家の旗が降ろされ、織田の旗が山上に翻った。
信長は、その城を岐阜城と改めた。
そして。
新たな印を作った。
――天下布武。
その四文字を初めて見たとき、宗一郎はしばらく言葉を失った。
「本当にやるつもりなんだ……」
思わず口から漏れた。
天下。
現代の歴史の教科書では、たった一文字で済ませてしまう。
だが。
この時代の「天下」は、途方もなく大きい。
尾張。
美濃。
その先には近江。
さらに京。
畿内。
そして全国。
信長は、その全てを視野に入れ始めていた。
◆
「宗一郎」
「はい」
「京へ行くぞ」
岐阜城の広間。
信長は地図を広げていた。
「足利義昭殿を奉じる」
宗一郎は息を呑む。
来た。
歴史が大きく動く。
足利義昭。
室町幕府最後の将軍となる男。
信長は、この男を担いで上洛する。
「京へ兵を入れるとなれば、相当な兵糧が必要になります」
「分かっている」
「街道も整えなければなりません」
「それもお前に任せる」
「……私に?」
「誰に任せる?」
信長は笑った。
「お前以外にいるか?」
宗一郎は苦笑する。
「分かりました」
地図を見る。
美濃から近江。
近江から京。
最大の問題は――浅井と朝倉。
特に北近江の浅井長政。
信長は浅井と同盟を結ぶ。
妹の市を嫁がせる。
史実を知る宗一郎には、その先の悲劇も分かっている。
「浅井……」
宗一郎は地図を見つめた。
この同盟。
どうするべきか。
史実を知っているからこそ、簡単には信用できない。
だが。
歴史を知っているからこそ。
変えられる可能性もある。
「宗一郎」
「はい」
「何を考えている?」
「浅井との同盟についてです」
「ほう」
「婚姻だけでは足りません」
信長が眉を上げた。
「どういう意味だ?」
「同盟というのは、人間関係だけでは維持できません」
宗一郎は答えた。
「利益が必要です」
「利益?」
「はい」
宗一郎は地図を指した。
「浅井が織田と組むことで、何が得られるのか」
「それを明確にするのです」
信長は黙って聞いている。
「米」
「鉄」
「塩」
「京への商路」
「そして――」
宗一郎は近江を指した。
「商売です」
「浅井家の領内を通る商人に、織田が保証を与える」
「浅井にも税収が入る」
「織田にも利益が入る」
「戦をするより、同盟を維持した方が儲かる仕組みにする」
信長が笑った。
「お前らしいな」
「戦争より商売の方が長続きします」
「だが、朝倉は?」
宗一郎の表情が変わった。
「……そこが問題です」
朝倉義景。
越前の大大名。
浅井家と深い関係を持つ。
そして。
信長とは、やがて敵対する。
「朝倉も、利益で縛ります」
「できるのか?」
「分かりません」
宗一郎は正直に答えた。
「ですが、敵に回す前に一度、商売を通してみます」
信長は頷いた。
「よし」
「朝倉との交渉は任せる」
「承知しました」
◆
岐阜城を出発する前。
宗一郎は妻の部屋を訪れた。
「京へ行くことになった」
「そうですか」
「危険な旅になる」
「分かっています」
妻は静かに答えた。
「あなたは、行くのでしょう?」
「はい」
「ならば、私も送り出します」
宗一郎は少し笑った。
「強くなりましたね」
「あなたの妻になった時点で、普通の暮らしは諦めました」
「……すみません」
「謝らないでください」
妻は宗一郎を見る。
「兄上のために働いているのでしょう?」
「はい」
「ならば」
彼女は微笑んだ。
「無事に帰ってきてください」
「約束します」
宗一郎はそう答えた。
だが。
心の中では。
別のことを考えていた。
京へ行けば。
歴史の中心に入る。
ここから先は。
自分の知識が、さらに大きな意味を持つ。
◆
上洛軍が動いた。
織田軍。
浅井軍。
そして足利義昭を奉じる軍勢。
宗一郎は後方で、兵站を指揮していた。
「米は?」
「二十日分」
「予備は?」
「さらに十日分」
「塩は?」
「十分です」
「火薬は?」
「予定より一割多くあります」
「鉄砲は?」
「三千丁」
宗一郎は頷いた。
三千。
現代人の感覚なら少ない。
だが。
この時代では、とてつもない数だ。
「火縄の予備を増やせ」
「はい」
「雨が降れば使えなくなるぞ」
「承知しました」
「それから」
宗一郎は地図を見る。
「街道沿いの宿場に食料を置け」
「ここから京まで?」
「全部だ」
「それほど必要ですか?」
「必要だ」
宗一郎は断言した。
「京へ入ることだけを考えるな」
「帰り道も考えろ」
家臣が驚く。
「帰り?」
「戦が終わったら、兵は帰る」
「その時に腹が減れば、街道沿いの村から奪う」
「そうなれば、民は織田を恐れる」
「そして次に来た時、協力してくれなくなる」
宗一郎は言った。
「兵站は、兵を食わせるだけじゃない」
「民に『織田軍が来ても生活が壊れない』と思わせることも兵站だ」
家臣は深く頭を下げた。
「勉強になります」
◆
やがて。
京が見えてきた。
宗一郎は馬上から、その町を眺めた。
現代の京都とはまるで違う。
荒廃している。
焼けた跡。
壊れた家。
人の少ない通り。
しかし。
それでも。
ここは京だった。
政治の中心。
文化の中心。
権威の中心。
信長がここを欲しがる理由が分かった。
「ここを取れば……」
宗一郎は呟いた。
「天下の形が変わる」
しかし。
京に入った瞬間。
宗一郎は別の問題に気付いた。
「……商人が少ない」
「はい?」
「市場が死んでいる」
物価が異常に高い。
米がない。
薪がない。
人がいない。
宗一郎はすぐに部下へ命じた。
「岐阜へ連絡」
「はい」
「米を追加で送る」
「しかし、軍用の備蓄が……」
「構わない」
「京の民へ売る」
「売るのですか?」
「配るのではない」
宗一郎は言った。
「安く売る」
「なぜ?」
「商売を戻すためだ」
宗一郎は市場を見る。
「無料で配れば、一時的には喜ばれる」
「だが、商人は商売にならない」
「商人が戻ってこなければ、また物がなくなる」
だから。
市場を生かす。
◆
宗一郎は京の商人たちを集めた。
「織田軍は、京を略奪しない」
最初。
誰も信じなかった。
「本当に?」
「本当です」
「税は?」
「必要最低限にします」
「兵が勝手に物を持っていったら?」
「その兵を処罰します」
「商売は?」
「自由にしてください」
商人たちは互いに顔を見合わせた。
「条件があります」
宗一郎が言った。
「織田軍へ物資を売ってください」
「……」
「正当な価格で買います」
「代金は?」
「必ず払います」
商人の一人が聞いた。
「本当に?」
「約束します」
宗一郎は銀を机に置いた。
「商売をしてください」
それから。
少しずつ。
京の市場が動き始めた。
◆
その報告を聞いた信長は、笑った。
「戦をせずに京を取ったな」
「まだ取っていません」
「何を言う」
信長は言った。
「兵が歩けば、京は恐れる」
「商人が戻れば、京は俺たちを受け入れる」
信長は宗一郎を見る。
「お前は、戦とは違う方法で人を従わせるな」
「従わせるのではありません」
宗一郎は答えた。
「得をしてもらうだけです」
「それが一番難しい」
「はい」
二人は笑った。
◆
そして。
足利義昭が将軍となった。
京の街に、再び幕府の旗が立つ。
信長は上洛を成し遂げた。
だが。
宗一郎は知っている。
これからが危険なのだ。
信長と将軍。
最初は協力する。
だが。
やがて。
両者の間には溝が生まれる。
そして。
信長包囲網。
浅井。
朝倉。
本願寺。
武田。
毛利。
各地の大名が織田を取り囲む。
「それを防がなければ」
宗一郎は夜の京で呟いた。
歴史を知っている。
だからこそ。
未来が怖い。
しかし。
その時。
「何を一人で考えている?」
背後から声がした。
信長だった。
「信長様」
「眠れぬのか?」
「はい」
「何を恐れている?」
宗一郎は少し迷った。
そして。
「敵が多すぎます」
と答えた。
信長は笑った。
「それだけか?」
「……」
「お前らしくないな」
宗一郎は信長を見る。
言えない。
未来を知っているとは。
だが。
信長はしばらく黙っていた後。
「心配するな」
と言った。
「俺は死なん」
宗一郎の胸が締め付けられた。
「……はい」
「お前もな」
「はい」
信長は歩き出した。
宗一郎は、その背中を見送る。
そして。
拳を握る。
「絶対に……」
今度こそ。
歴史を変える。
浅井長政との関係を。
朝倉との関係を。
将軍との関係を。
そして。
信長包囲網そのものを。
◆
数日後。
宗一郎のもとへ、一通の書状が届いた。
差出人――。
浅井長政。
内容を読んだ宗一郎は、顔色を変えた。
「これは……」
そこには。
織田家にとって極めて重要な情報が記されていた。
朝倉義景。
そして。
浅井家の動き。
歴史では。
この先。
金ヶ崎で。
織田軍は背後を断たれる。
宗一郎は書状を握りしめた。
「……金ヶ崎」
その名を口にした瞬間。
物語は。
次の大きな戦いへ向かって動き始めた。




