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閑話 長政、新たな道

閑話 長政、新たな道


 朝倉家が滅びた頃。


 高槻領の城下町の一角に、一家の荷車が入ってきた。


 荷物は多くない。


 かつて浅井家を支えた武将の一家とは思えぬほど、質素なものだった。


 浅井長政は、荷車の後ろを歩きながら城下を眺めていた。


 道が整えられている。


 往来する人々の中には、武士だけではなく商人や職人、農民の姿も多い。


 そして何より目につくのが、子供たちだった。


 年齢の近い子供たちが数人ずつまとまり、書物を抱えて歩いている。


「父上」


 隣を歩いていた息子が声をかけた。


「本当に、ここで暮らすのですか?」


「ああ」


 長政は頷いた。


「しばらくは、な」


 だが、その言葉の意味を、長政自身が一番よく分かっていた。


 自由ではない。


 高槻の庇護。


 そして――監視。


 浅井長政という男を、宗一郎が完全に信用しているわけではない。


 当然だった。


 長政自身も、それを望んでいた。


 かつての自分ならば、屈辱に思っただろう。


 だが、今は違う。


 浅井の家は滅んだが、家族は残った。


 妻も子も生きている。


 自分も生きている。


 それだけで、十分だった。


「父上、あそこです」


 娘が指を差した。


 そこには大きな建物があった。


 門の脇には、


『幼年学校』


 と書かれている。


「ここが?」


「そうだ」


 長政は答えた。


「お前たちが学ぶ場所だ」


 子供たちは顔を見合わせた。


「武芸は?」


「ある」


「読み書きは?」


「もちろんある」


「算術も?」


「ああ」


 そこで長政は少し考えた。


「だが、それだけではないらしい」


「ほかにもあるのですか?」


「俺にも、まだ分からぬ」


 長政は苦笑した。


 それが、この城下に来てから何度も感じていることだった。


 高槻という場所は、分からないものが多すぎる。


 だが――。


 不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、知りたくなる。


 それは、幼い頃から長政が持っていた性質でもあった。


 武芸だけを好んだわけではない。


 兵法。


 地形。


 兵糧。


 農地。


 城の構造。


 人がなぜそのように動くのか。


 どうすれば少ない犠牲で戦を終わらせられるのか。


 長政は昔から、考えることが好きだった。


 ただ、戦国という時代では、それを考える時間よりも刀を握る時間の方が長かった。


 今は違う。


 刀を置いている。


 そして、考える時間がある。


 それから数日後。


 長政は、高槻研究所を訪れていた。


「ここが……研究所か」


 建物の中には、見たこともない器具が並んでいる。


 薬品。


 ガラス器具。


 顕微鏡。


 書物。


 記録帳。


 そして、何人もの研究員が、それぞれの作業に没頭していた。


「浅井様」


 研究員の一人が頭を下げる。


「本日は、こちらでよろしいですか?」


「ああ」


 長政は白衣姿の研究員について歩いた。


 最初に興味を持ったのは、薬だった。


「これは?」


「感染した傷に使う薬を研究しています」


「傷を治す薬か」


「正確には、傷を悪化させるものを抑えるための薬です」


 長政は眉を寄せた。


「傷を悪化させるもの?」


「目には見えないほど小さな生き物です」


「生き物……?」


「はい」


 研究員は顕微鏡を示した。


「この中にいるものです」


 長政は覗き込んだ。


 最初は何も分からなかった。


 だが、研究員が調整すると、視野の中に小さなものが浮かび上がった。


「……これが?」


「はい」


 長政は言葉を失った。


 戦場で何度も見てきた。


 矢傷。


 刀傷。


 銃創。


 そして、傷そのものよりも恐ろしい熱病。


 傷口が赤く腫れ、膿み、やがて死に至る。


 長政は、それを武士の運命だと思っていた。


 だが――。


「これが原因なのか」


「原因の一つと考えています」


 研究員は答えた。


「そして宗一郎様から聞いた話に、あるカビが関係しているそうです」


「カビ?」


「はい」


 長政は研究員の説明を聞きながら、何度も質問した。


 どのように増えるのか。


 どこに存在するのか。


 なぜ傷を悪化させるのか。


 どうすれば抑えられるのか。


 研究員の方が驚いていた。


「浅井様は、ずいぶん熱心ですね」


「……昔からこういう話は嫌いではなかった」


 長政は少し照れたように答えた。


「戦の話なら、もっと詳しい者がいくらでもいる。だが、これは違う」


 顕微鏡を見る。


「知らないことが多い」


「だから面白い?」


「ああ」


 長政は笑った。


「だから、知りたい」


 その日から、長政は研究所へ通うようになった。


 最初は見学だった。


 次第に記録を読むようになった。


 やがて研究員と議論するようになった。


 もちろん、医学の専門家ではない。


 それでも、長年兵を率いてきた経験が役に立つことがあった。


「この薬を戦場で使うなら、もっと簡単に扱える形にした方がいい」


「どういう意味でしょう?」


「兵士は薬師ではない」


 長政は答えた。


「戦場では手が震える。血も付く。水も足りぬ。複雑な手順は守れない」


 研究員たちは顔を見合わせた。


「……なるほど」


「治療する者だけが使える薬では意味がない」


 長政は続けた。


「誰でも、一定の手順で使えるようにする必要がある」


 その言葉に、研究員の一人が頷いた。


「宗一郎様がいつも言っていることと同じですね」


「そうなのか?」


「はい。技術は、使う人を選びすぎてはいけない、と」


 長政はしばらく黙った。


 それは、武器にも通じる。


 高槻の銃。


 弾薬。


 訓練。


 兵站。


 どれも、一部の達人だけが扱えるものではない。


 普通の兵が使っても、ある程度の結果を出せるようにする。


「……なるほどな」


 長政は呟いた。


「だから宗一郎は、強いのか」


「はい?」


「いや」


 長政は首を振った。


「こちらの話だ」


 別の日。


 長政は別の研究室にいた。


 そこでは牛痘を利用した天然痘対策の研究が進められていた。


「牛痘?」


「ああ」


 研究員が説明する。


「天然痘に似ているが、性質が違う病です」


「それを使って?」


「病気に対する抵抗力を身につけられないかと」


 長政は腕を組んだ。


「病にかからぬようにするために、別の病を利用する?」


「正確には、病原性の弱いものを利用して身体に備えを作る、という考え方です」


「……不思議なものだな」


 長政は思わず笑った。


「戦場では、敵を倒して生き残る」


 研究室を見回す。


「ここでは、敵そのものを倒さずに、人を生かそうとしている」


 研究員は答えなかった。


 長政自身も、しばらく黙っていた。


 そして――。


「宗一郎は、これを戦より重要だと思っているのか?」


「……おそらく」


「そうか」


 長政は再び研究資料に目を落とした。


 かつての自分なら、理解できなかったかもしれない。


 国を守る。


 家を守る。


 領地を守る。


 そのためには兵が必要だった。


 兵を強くする。


 城を強くする。


 武器を強くする。


 それが当然だと思っていた。


 だが、高槻では違う。


 人を死なせないために、武器を研究する。


 人を殺さないために、病を研究する。


 戦で失われる人間を減らすために、教育する。


 そして――。


 そもそも、戦わなくても生きていける仕組みを作ろうとしている。


「……変な男だ」


 長政は小さく笑った。


 だが、その笑みには以前とは違うものがあった。


 数日後。


 研究所から帰る道で、長政は幼年学校から帰ってくる子供たちと出会った。


「父上!」


 子供たちが駆け寄ってくる。


「今日は何を習った?」


「算術です!」


「私は地理!」


「僕は理科!」


「理科?」


 長政が聞き返す。


「はい!」


 子供が嬉しそうに答える。


「先生が、なぜ雨が降るのか教えてくれました!」


 長政は笑った。


「そうか」


 かつて自分が子供だった頃。


 学ぶことと言えば、武家の子として必要なことだった。


 だが、この子たちは違う。


 武士になる必要もない。


 農民になるかもしれない。


 商人になるかもしれない。


 医者になるかもしれない。


 研究者になるかもしれない。


 そのための道が、最初から用意されている。


 長政は子供たちの背中を見つめた。


 そして、ふと思った。


 自分は、戦に敗れた。


 だが――。


 この子たちは、戦そのものから遠ざかっている。


 それが、何より大きなことなのではないか。


 夜。


 長政は一人、机に向かっていた。


 以前ならば、そこには軍議のための地図があった。


 敵の兵数。


 城の位置。


 兵糧。


 退路。


 だが、今そこにあるのは医学の書物だった。


 長政は筆を取った。


 しばらく考えた後、紙に書く。


『傷が悪化する理由』


『病を防ぐ方法』


『牛痘を利用した予防』


『カビと薬の関係』


 そして最後に。


『戦場で使える形にするには』


 そこまで書いて、長政は筆を止めた。


 ふっと笑う。


「俺は……何をしているのだろうな」


 武将だった男が。


 研究者たちと医学について議論している。


 妻と子は安全な場所にいる。


 子供たちは学んでいる。


 自分は刀を抜かずに一日を終える。


 奇妙な生活だった。


 だが――。


 不思議なほど、心が穏やかだった。


 武将として生きていた頃。


 死は常に隣にいた。


 戦が始まれば、誰かが死ぬ。


 勝っても死ぬ。


 負ければもっと死ぬ。


 そして、家族を守るためにまた戦う。


 それが浅井長政の人生だった。


 今は違う。


 死は、研究の対象として目の前にある。


 どうすれば人が死なずに済むのか。


 どうすれば傷ついた者を助けられるのか。


 どうすれば病に倒れる者を減らせるのか。


 考えることができる。


 そして、それを誰かが実際に試している。


 長政は窓の外を見た。


 城下には小さな明かりがいくつも灯っている。


 妻も子供たちも、そのどこかにいる。


 自分を監視する者もいるだろう。


 高槻の者が、毎日の生活を記録しているのかもしれない。


 それでも――。


「悪くない」


 長政は呟いた。


 むしろ。


 この生活は、元来研究肌だった自分に合っているのかもしれない。


 戦場ではなく。


 研究室で。


 刀ではなく。


 筆と知識で。


 人を守る。


 それが今の自分にできることなのだろう。


 そして翌朝。


 長政はいつものように研究所へ向かった。


「浅井様、おはようございます」


「おはよう」


「昨日の続きですが――」


「ああ。見せてくれ」


 研究員と並んで歩く。


 その姿を、少し離れた場所から高槻の者が見ていた。


 監視は続いている。


 それは変わらない。


 だが、報告書に記される内容は、以前とは少しずつ変わっていた。


『浅井長政、研究所への通所を継続』


『医学研究への関心、極めて高い』


『研究員との関係、良好』


『軍事情報への接触、なし』


『家族との生活、安定』


 そして最後に、一行。


『現状、危険性は低いと思われる』


 報告書を受け取った宗一郎は、その一行を見て少しだけ笑った。


「……そうか」


 それ以上は言わなかった。


 長政を完全に信用したわけではない。


 長政もまた、それを望んではいない。


 ただ――。


 戦場でしか生きられなかった男が。


 戦場ではない場所で、生きる道を見つけ始めている。


 それだけは、宗一郎にも分かっていた。


 高槻の城下で。


 浅井長政の第二の人生が、静かに始まっていた。

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