第三十七章 武田、西へ
第三十七章 武田、西へ
越前・一乗谷。
朝倉の本拠が落ちてから、幾日かが過ぎていた。
焼け残った建物の整理。
武器庫の確認。
文書や土地台帳の回収。
そして、朝倉家に仕えていた者たちの処遇。
戦が終わった直後というのに、宗一郎の仕事はむしろ増えていた。
だが――。
「殿」
半兵衛が一枚の紙を持って入ってきた。
「東からです」
宗一郎は顔を上げた。
「武田か」
「はい」
紙には、簡潔な報告だけが記されている。
甲斐から出た武田軍。
兵数は確定していない。
だが、騎馬の動きが明らかに増えている。
兵糧の搬送も多い。
鉄砲や弾薬を運ぶ荷駄も確認されている。
そして何より――。
「西へ向かっている」
宗一郎が呟いた。
「まだ目的地は確定していません」
半兵衛が地図を広げた。
甲斐。
信濃。
遠江。
三河。
そして、その先に尾張がある。
「武田が本気で動くなら、徳川を狙う可能性が高い」
「徳川を潰すためか」
「あるいは、徳川を動かして織田を引きずり出すためか」
宗一郎は地図を見つめた。
この時代の戦は、兵力だけで決まらない。
誰を動かすか。
誰を動かさないか。
どこに兵を置かせるか。
どこへ兵糧を送らせるか。
そして――。
誰に、何を信じさせるか。
「……妙だな」
「何がです?」
「武田の動きそのものは、別におかしくない」
宗一郎は地図の上に指を置いた。
「だが、最近、越前でも東の話が増えている」
「武田が西へ向かうという話ですな」
「それだけじゃない」
宗一郎は別の紙を取り出した。
「織田が越前から兵を引く。
武田が動けば織田は東へ兵を向ける。
徳川も動く――」
半兵衛が目を細める。
「同じ話が、少しずつ形を変えて流れている」
「そうだ」
宗一郎は頷いた。
「誰かが武田を見ているだけなら、武田の情報だけが流れる」
指が地図の上を滑る。
越前。
京都。
三河。
遠江。
「だが、今は違う」
「織田、武田、徳川を一つの話にしている」
「そういうことだ」
半兵衛はしばらく黙った。
「……では、敵は武田ではない?」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「武田は敵だ」
その言葉には迷いがなかった。
「ただし、武田が動いていることと、誰かがその動きを利用していることは別の話だ」
半兵衛が静かに笑う。
「殿らしい」
「何が?」
「敵を一つに決めつけない」
「決めつけたら、間違えた時に全部が崩れるからな」
宗一郎は紙を折った。
「情報は情報。
判断は判断だ」
それは、高槻の情報網に繰り返し伝えている原則でもあった。
「武田の兵が西へ向かった」
これは事実。
「徳川を狙っている」
これは推測。
「織田を東へ引きずり出すためだ」
これは、まだ判断材料が足りない。
「だから――」
宗一郎は顔を上げた。
「まず、武田が何を狙っているのかを見る」
「忍びを?」う
「必要なところだけだ」
半兵衛が頷く。
「甲賀衆を大量に動かすつもりはない、と」
「当たり前だ」
宗一郎は苦笑した。
「高槻が忍びを抱えすぎれば、それだけで目立つ」
高槻の情報網は、忍びだけで構成されているわけではない。
街道を見る者。
宿を営む者。
船頭。
商人。
寺の者。
農民。
そして、その中に必要な人数だけの甲賀の者がいる。
見る者。
伝える者。
確かめる者。
判断する者。
それぞれが別々に動く。
だからこそ、一人を捕らえた程度では全体が崩れない。
「武田軍そのものを見るのは、忍びの仕事だ」
宗一郎は言った。
「ただし、兵糧の流れを見るのは商人でもできる。街道の混雑を見るのは宿の者でもできる。船の動きを見るなら船頭の方が詳しい」
「そして、最後に我らが繋げる」
「そういうことだ」
半兵衛が報告書をまとめた。
「では、東を見ながら越前を維持する」
「いや」
宗一郎は答えた。
「越前を維持するのではない」
少しだけ間を置く。
「越前を、戦場に戻さない」
半兵衛はその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「承知しました」
その頃――。
遠く東。
甲斐から遠江へ向かう道。
一人の女が歩いていた。
白い装束。
小さな荷。
腰には短刀。
そして背には、旅のための包み。
歩き巫女。
彼女は街道沿いの村で足を止めると、何気ない顔で茶を求めた。
「武田様の軍が通ったそうですね」
「ええ。大勢でしたよ」
「どちらへ?」
「西だと聞きました」
「遠江でしょうか」
「そこまでは……」
女は笑った。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
宿を出る。
少し歩いたところで、道端の石の陰に小さな紙を置く。
そこには短く書かれていた。
『兵、多し』
『騎馬、多し』
『荷駄、多し』
『西進』
そして最後に。
『目的地、不明』
それだけだった。
女は東へ向かった。
やがて別の道へ入り、今度は寺に立ち寄る。
そこで別の情報を拾う。
「徳川様のところも、兵を集めているらしい」
「徳川が?」
「武田が動いたからでしょう」
女は黙って聞いていた。
だが、その夜。
寺を出た彼女は一人になって呟いた。
「……織田は、まだ動かない」
それは、彼女自身が得た情報だった。
織田軍が越前を放棄したわけではない。
むしろ、越前で戦後処理を続けている。
高槻宗一郎もいる。
ならば――。
武田が西へ進めば、織田はどうするのか。
女は考えながら歩いた。
その頃、三河。
徳川家康のもとにも報告が届いていた。
「武田が動いたか」
「はい」
家康は地図を見つめる。
武田。
遠江。
三河。
そして、その向こうには織田がいる。
「織田は越前に兵を置いている」
「はい」
「高槻もか」
「高槻宗一郎も越前におります」
家康は黙った。
以前なら、ここで喜んだかもしれない。
織田が東へ兵を向ければ、越前が薄くなる。
武田が西から圧力をかければ、織田は徳川を助けざるを得ない。
そうなれば――。
「……いや」
家康は小さく呟いた。
「簡単には動かぬな」
家臣が顔を上げる。
「殿?」
「織田は以前とは違う」
そして家康は、ある人物を思い浮かべた。
高槻宗一郎。
あの男ならば、武田が動いた程度で越前を捨てるとは思えない。
「高槻は、どう動く?」
家康の問いに、答えられる者はいなかった。
その頃、尾張。
信長のもとにも報告が届いていた。
「武田が西へ」
信長は報告書を読み終えると、火鉢の前に置いた。
「狙いは徳川か」
「おそらく」
家臣が答える。
信長はすぐには答えなかった。
「宗一郎は?」
「越前です」
「そうか」
信長は地図を見る。
越前。
三河。
遠江。
武田。
徳川。
「……面白い」
信長の目が細くなった。
「武田は、儂らが東へ来ると思っているかもしれぬ」
「では、兵を?」
「まだだ」
信長は即答した。
「武田が何をしたいのか、分からぬうちに動く必要はない」
そして少し考えた後、家臣へ命じる。
「徳川には備えさせよ」
「援軍を?」
「それも、まだ決めぬ」
信長は立ち上がった。
「敵が動いたからこちらも動く――」
その言葉を、信長は嫌った。
「それでは、敵に戦を決められる」
同じ頃。
越前、一乗谷。
宗一郎のもとへ新しい報告が届いた。
「武田軍、さらに西へ」
「目的地は?」
「まだ不明です」
「兵数は?」
「これも確定せず」
「徳川は?」
「動き始める兆候があります」
宗一郎は地図を見つめた。
東の風が、確かに強くなっている。
だが、その風がどこから吹いているのかは、まだ分からない。
「半兵衛」
「はい」
「越前から兵を抜くな」
「分かりました」
「ただし、東で何か起きた時に備える」
「兵を分ける?」
「まだ分けない」
半兵衛が目を細める。
「では?」
「準備だけする」
宗一郎は地図の横に、別の紙を置いた。
兵糧。
弾薬。
馬。
船。
街道。
「戦は兵だけで動かない」
そして、高槻研究所から届いていた報告にも目を通す。
新型の弾薬。
小型砲。
火薬の改良。
まだ実戦で大量に使えるほどではない。
だからこそ、宗一郎は研究者たちに繰り返し言っている。
急ぐな、と。
強い武器を作ることよりも。
壊れにくい武器。
運べる武器。
誰が使っても一定の性能を出せる武器。
そして、それによって戦う時間を短くすること。
それが高槻の目指すものだった。
「……武田も、徳川も、織田も」
宗一郎は呟いた。
「誰もが、自分の都合で動く」
半兵衛が答える。
「そして、その動きを誰かが利用する」
「そうだ」
宗一郎は窓の外を見る。
越前の空には、まだ戦の煙が残っている。
朝倉は滅びた。
だが、戦国そのものは終わらない。
むしろ――。
新しい戦の形が、始まろうとしていた。
そして東では。
武田の旗が、西へ進んでいた。
その先に待つのは徳川。
さらに、その先には織田。
そして誰かが――。
その三者を、同じ盤面に並べようとしていた。
宗一郎はまだ、その存在を知らない。
ただ一つだけ。
確信に近い感覚があった。
「……東で、何かが始まる」
宗一郎は地図から目を離さなかった。
「なら、俺たちは――」
一度、越前を見る。
そして東を見る。
「目を離さない」
武田、西へ。
その一歩が、戦国の新たな局面を開こうとしていた。




