第三十六章 東からの急報
第三十六章 東からの急報
越前。
一乗谷を落としてから、数日。
高槻宗一郎は、朝から地図を広げていた。
机の上には、越前だけではない。
近江。
美濃。
三河。
遠江。
甲斐。
そして、その間を結ぶ街道が描かれている。
「報告を」
宗一郎が言った。
「まず越前です」
情報をまとめる男が答える。
「一乗谷周辺は、織田の支配下に入りつつあります。ただし、北部と山間部では朝倉残党の動きがあります」
「大きな集結は?」
「今のところありません」
「寺社は?」
「織田に敵対する動きは確認されていません。ただ、一部で兵糧や武器を集めているとの報告があります」
「分かった」
宗一郎は地図に印をつけた。
「追うな」
「はい」
「こちらから刺激する必要はない。武装した集団がこちらへ攻撃を仕掛けてきた時だけ知らせろ」
「承知しました」
宗一郎は次の報告を待った。
「東です」
その一言で、空気が変わった。
「武田が動いています」
「具体的には?」
「甲斐からの出陣が確認されています」
「兵力は?」
「正確には不明。ただ、通常の小規模な軍事行動ではありません」
「兵糧は?」
「多い」
「馬は?」
「多い」
「鉄砲は?」
「相当数あると思われます」
宗一郎は腕を組んだ。
「行き先は?」
「まだ分かりません」
「三河か」
「その可能性があります」
「遠江?」
「それも否定できません」
宗一郎は地図を見る。
甲斐から西へ。
武田軍が動く。
その先には遠江。
そして三河。
徳川家康の領地がある。
「徳川は?」
「大きな動きはありません」
「……妙だな」
半兵衛が口を開く。
「武田がこれほど動いているのに、徳川が動かない?」
「そこです」
宗一郎は頷いた。
「普通なら、警戒して兵を動かす」
「それをしていない」
「はい」
宗一郎はしばらく考えた。
「家康が動かない理由は二つある」
「二つ?」
「武田の動きを把握している」
宗一郎は指を一本立てた。
「もう一つは――」
二本目の指を立てる。
「まだ動く必要がないと思っている」
半兵衛が目を細めた。
「あるいは、動く時を待っている」
「そういうことです」
*
そこへ新しい伝令が入った。
「高槻様!」
「何だ?」
「京都から急報です」
宗一郎が振り向く。
「読み上げろ」
「はい」
伝令が紙を開く。
「武田の動きについて、京でも噂が広がっているとのこと」
「内容は?」
「武田が西へ向かう」
「織田が越前から兵を引く」
「徳川も動く」
「それらが、別々の場所から同じような形で流れているようです」
宗一郎の顔から笑みが消えた。
「……同じか」
「はい」
「いつから?」
「ここ数日です」
宗一郎は半兵衛を見る。
「越前と同じです」
「同じ紙ですか?」
「まだそこまでは分かりません」
「なら、まだ断定できませんな」
「ええ」
宗一郎は頷いた。
「ただし――」
紙を指で叩く。
「噂の内容が似すぎている」
「偶然ではない可能性が高い」
「そう思います」
*
宗一郎は地図を広げ直した。
越前。
京。
三河。
遠江。
甲斐。
点が増えていく。
「越前では、織田が兵を引くという噂」
「京では、武田が西へ来るという噂」
「三河では?」
半兵衛が尋ねる。
「まだ大きな報告はありません」
「なら、次はそこかもしれない」
宗一郎は呟いた。
「誰かが、少しずつ人の判断を動かしている」
「ですが、何のために?」
「まだ分からない」
「武田の仕業では?」
「それなら話は簡単です」
宗一郎は首を振った。
「武田が自分たちの動きを利用して噂を流している可能性はある」
「しかし――」
「越前と京と三河を同時に動かそうとしているなら、話が変わる」
半兵衛が黙った。
「武田だけではないかもしれない」
*
宗一郎は伝令を呼んだ。
「高槻の者へ伝えろ」
「はい」
「武田軍の監視を強化する」
「承知しました」
「ただし、甲賀の者だけに任せるな」
「はい」
「街道は商人」
「宿場は宿の者」
「河川は船頭」
「寺社は寺社の者」
「武田軍そのものは、必要な人数の忍びに見させる」
半兵衛が頷く。
「役割を分ける」
「そうです」
「一人が全部を見る必要はない」
「むしろ、一人に全部を見せてはいけない」
宗一郎は言った。
「情報を集める者と、判断する者を分ける」
「これまで通りですな」
「はい」
「そして――」
宗一郎は最後に付け加えた。
「追わない」
「追わない?」
「武田の忍びを見つけても、こちらから追跡しない」
「理由は?」
「相手が何を見せたいのか分からないからです」
半兵衛が静かに笑った。
「罠かもしれぬ、と」
「そうです」
*
同じ頃。
武田の陣。
歩き巫女が戻ってきていた。
「越前の様子は?」
武田家臣が尋ねる。
「一乗谷は織田が押さえました」
「高槻は?」
「越前に残っています」
「兵を引く様子は?」
「今のところありません」
家臣が眉をひそめた。
「東へ動かすことはできそうか」
女は首を横に振った。
「まだ難しいでしょう」
「なぜだ?」
「高槻宗一郎は、武田の動きだけで兵を動かす男ではありません」
「……」
「確かな情報が出るまで待つでしょう」
家臣が考え込む。
「ならば、確かな情報があると思わせればいい」
歩き巫女は黙っていた。
やがて尋ねる。
「噂を流すのですか?」
「必要ならば」
女は目を伏せた。
「それで高槻が動くでしょうか」
「分からん」
武田家臣は答えた。
「だが、動かせれば大きい」
*
さらに甲斐。
病床の武田信玄は、報告を聞いていた。
「高槻は動かぬか」
「はい」
「越前を離れない?」
「今のところ」
信玄はしばらく黙っていた。
「……慎重な男だ」
「いかがいたしますか?」
「急ぐな」
意外な言葉だった。
「高槻を動かすことだけを考えるな」
「では?」
「織田が高槻を必要とする状況を作れ」
家臣が顔を上げる。
「高槻自身ではなく、織田全体を動かす?」
「そうだ」
信玄は薄く目を開いた。
「一人を釣るより、国を動かした方が早い」
*
越前。
夕方。
宗一郎のもとに、新たな報告が届いた。
「武田軍、西へ向かっているとのこと」
「確定か?」
「まだです」
「どこまで来た?」
「遠江方面へ向かっている可能性があります」
「可能性?」
「街道の複数の地点で、武田方と思われる兵糧輸送を確認しています」
「ならば、軍は動いている」
宗一郎は地図を見る。
甲斐。
遠江。
三河。
そして越前。
一本の線を指でなぞった。
「武田が西へ来る」
半兵衛が言う。
「徳川が狙われる?」
「そう見える」
「ならば、織田は徳川を助けるべきでは?」
宗一郎はすぐには答えなかった。
「信長様がどう判断するかです」
「宗一郎様は?」
「俺なら――」
宗一郎は地図を見る。
「まだ兵を大きく動かさない」
「なぜ?」
「武田の目的が徳川とは限らない」
「しかし、三河へ入れば」
「その時は動く」
宗一郎は顔を上げた。
「今は、武田を見失わないことが一番重要です」
*
その夜。
宗一郎から信長へ急使が走った。
文には短く書かれていた。
――朝倉は滅亡。
――越前は現在、織田が掌握中。
――ただし、北部・山間部には不安定要素あり。
――武田軍、甲斐より大規模に出陣。
――西進の可能性。
――徳川の動きは未だ小さい。
そして最後に。
――越前と東方で、類似した噂が同時に発生。
――偶然か、意図的なものかは未確認。
信長は文を読み終えると、しばらく黙っていた。
「武田か」
隣にいた家臣が答える。
「はい」
「そして、高槻か」
信長は紙を机に置いた。
「面白くなってきたな」
しかし、その目は笑っていなかった。
「東を見よ」
家臣が頭を下げる。
「はっ」
「だが、越前も捨てるな」
「承知しました」
信長は立ち上がった。
「武田が何を狙っているのか、確かめる」
*
同じ夜。
越前の山中。
小さな火が一つ。
その前に、あの僧が座っていた。
そこへ、一人の男が近づく。
「織田は東へ動く」
僧は顔を上げた。
「誰から聞いた」
「旅の者から」
「確かな話か?」
「分からん」
僧は黙った。
男は続ける。
「武田が動けば、織田も東へ行く」
「そうすれば越前は?」
「兵が減る」
僧は火を見つめた。
「……それで?」
「その時に、動けばいい」
僧はすぐには答えなかった。
「誰が?」
「我らが」
僧は男を見た。
「何のために?」
男は答えられなかった。
僧は静かに立ち上がる。
「理由のない戦は、長く続かぬ」
「……」
「帰れ」
男が去っていく。
僧は一人になった。
遠くでは、一乗谷の復旧作業をする織田兵の声が聞こえる。
その声を聞きながら、僧は呟いた。
「また誰かが、人を戦わせようとしている」
*
その頃。
東へ向かう街道を、歩き巫女が進んでいた。
鈴の音だけが、夜道に響いている。
彼女はまだ知らない。
いや――
知っていることと、知らされていないことの境目を、彼女自身も理解していなかった。
彼女が集めているのは、武田のための情報。
しかし、その情報をさらに利用しようとしている者がいる。
武田の外側に。
織田の外側に。
そして、徳川の外側に。
誰かが、戦国の各地へ小さな言葉を落としている。
その言葉は、まだ戦ではない。
まだ誰も刀を抜いていない。
だが――
人を動かすには、刀より先に必要なものがある。
宗一郎はまだ、その正体を知らなかった。
ただ一つ。
確信し始めていた。
――越前で起きていることは、越前だけの問題ではない。
東から吹き始めた風が、確実に強くなっていた。




