第三十五章 東の風
第三十五章 東の風
朝倉が滅びてから、まだ幾日も経っていなかった。
しかし、越前の空気はすでに変わっていた。
一乗谷には織田の旗が立っている。
だが、山間の村々まで織田の支配が届いているわけではない。
朝倉の家臣だった者たちは、それぞれの故郷へ戻ろうとしていた。
寺へ逃げ込む者もいる。
山へ身を隠す者もいる。
武器を捨てて農民に戻る者もいれば、逆に刀を手放せず、仲間を集め始める者もいた。
誰もが、次に何が起きるのか分からなかった。
*
「年貢をどうするか、ですか」
高槻宗一郎は、机の上に並べられた書類を見ていた。
「はい」
報告役の男が答える。
「朝倉の代官がいなくなった村では、誰が取り決めをするのか分からず、村同士で揉めているところもあります」
「当然でしょうね」
宗一郎は一枚の紙をめくった。
「支配する者が変わったのに、決まりが残っていない」
「はい」
「なら、勝手に決める者が出る」
半兵衛が横から口を挟む。
「一乗谷を落としただけでは、越前は治まらぬということですな」
「その通りです」
宗一郎は地図を見る。
越前。
敦賀。
北へ続く道。
寺社。
山間の村。
それぞれを指で追う。
「まず、織田に従う村と、朝倉を慕う村を分けて考えるのをやめます」
「ほう」
「朝倉を慕っていても、戦いたくない人間はいる」
「逆に、織田に従っていても不満を持つ者はいる」
「そうです」
宗一郎は地図から目を上げた。
「今見るべきなのは、誰が味方かじゃない」
「何をするつもりなのか」
半兵衛が頷いた。
「敵になるのか、静かに暮らしたいのか」
「その違いを見ます」
*
その日の午後。
北の村から、一人の男がやって来た。
「高槻様に、お伝えしたいことが」
「何だ?」
「寺で人が集まっております」
「朝倉の残党か?」
「分かりません」
「人数は?」
「二十ほど」
「武器は?」
「槍や刀を持つ者が何人か」
宗一郎は少し考えた。
「寺の者は何と言っている?」
「織田と戦うためではない、と」
「では何のために?」
「村を守るためだと」
宗一郎は半兵衛を見る。
「……始まりましたな」
「何がです?」
「朝倉がなくなった後にできる、新しいまとまりです」
まだ、それが何なのか。
宗一郎には分からなかった。
ただ一つ。
朝倉が倒れたことで、人々が新しい拠り所を探し始めている。
それだけは確かだった。
*
同じ頃。
越前から遠く離れた場所。
山道を、一人の女が歩いていた。
粗末な衣。
肩には小さな荷。
腰には小さな袋。
そして、手には鈴のついた杖。
見る者が見れば、ただの旅の巫女にしか見えない。
女は村に入ると、井戸端にいた女たちに声を掛けた。
「こちらでは、戦があったそうですね」
「ええ。朝倉が負けたそうですよ」
「織田が勝ったのですか?」
「そうらしいです」
「では、織田の兵はまだ多いので?」
「一乗谷には大勢いるそうです」
女は驚いた顔をする。
「まあ……怖いこと」
そして、何気ない調子で尋ねた。
「東のほうはどうなのでしょう?」
「東?」
「武田のほうです」
村人が首を傾げる。
「武田も動いているそうですよ」
「どちらへ?」
「さあ……」
女は笑った。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
宿に入る。
食事を取る。
そして夜になると、一人で帳面を開いた。
小さな字で書き込む。
――織田、越前へ進出。
――朝倉滅亡。
――兵力、多数。
――村々には動揺あり。
少し考え、最後に一行を書いた。
――織田、高槻宗一郎の名が各地で聞かれる。
女は帳面を閉じた。
*
翌朝。
女は再び歩き始めた。
山を越え。
川を渡り。
次の村へ入る。
そこで聞いた話を書き留める。
その次の村でも聞く。
戦のこと。
兵の数。
道の状態。
米の値段。
どこに兵が集まっているか。
誰が何を恐れているか。
女は何気なく歩いているように見えた。
だが、その情報は一人の武将のもとへ届けられる。
甲斐。
武田の陣。
女が差し出した紙を、一人の武将が受け取った。
「越前は?」
「朝倉は滅びました」
「織田は?」
「一乗谷を押さえています」
「高槻は?」
女は答えた。
「越前におります」
武将は眉を動かした。
「まだいるか」
「はい」
「何をしている?」
「戦の後始末をしているようです」
「後始末?」
「村々の年貢や兵糧について、記録を作らせているとのこと」
武将は黙った。
やがて、小さく笑う。
「……戦の後まで手を入れるか」
*
その報告は、さらに上へ送られた。
武田信玄のもとへ。
病に伏していた信玄は、横になったまま紙を読んだ。
「高槻宗一郎」
その名を、静かに口にする。
側近が尋ねる。
「いかがなされますか」
「織田は越前を取った」
「はい」
「だが、高槻は越前に兵を残している」
「そのようです」
信玄は目を閉じた。
「ならば、織田が東へ兵を向けるのをためらわせることができる」
側近が息を呑む。
「高槻を?」
「いや」
信玄は首を横に振った。
「高槻のいる場所を使う」
*
その頃、越前。
宗一郎のもとへ、新しい報告が届いた。
「高槻様」
「どうした?」
「北の寺で、人が集まっています」
「朝倉の残党?」
「一部はそうですが……違う者もいます」
「違う?」
「農民や商人も混じっているようです」
宗一郎は地図を見る。
「何を話している?」
「織田に対して、どうするか」
「戦うと言っているのか?」
「まだ、そこまでは」
「では、何を恐れている?」
「年貢です」
宗一郎は黙った。
「織田が米を全部持っていく」
「男を兵に取る」
「寺を潰す」
「そんな噂が広がっています」
「誰から聞いた?」
「それが……」
報告役が困った顔をする。
「皆、別々の場所で聞いたと言うのです」
宗一郎の目が細くなる。
「同じ噂を?」
「はい」
「誰から?」
「分かりません」
半兵衛が静かに言った。
「誰かが流している?」
「可能性はあります」
宗一郎は即答しなかった。
「まだ断定しない」
「はい」
「まず、事実を集める」
*
その夜。
越前の小さな寺で、一人の僧が人々を前にしていた。
「織田は、何をする?」
誰かが尋ねる。
「分からぬ」
僧は答えた。
「だからこそ、村を守る備えが必要だ」
「戦うのか?」
「戦いたい者だけが戦えばいい」
僧はそう言った。
「だが、戦いたくない者まで巻き込むな」
その言葉に、集まった者たちが顔を見合わせる。
僧自身も、まだ答えを決めてはいなかった。
朝倉は消えた。
織田は来た。
ならば、自分たちはどうするのか。
それを考えているだけだった。
*
翌日。
宗一郎のもとへ、もう一つの報告が入った。
「東からです」
「東?」
「武田が動いています」
宗一郎が顔を上げた。
「どこへ?」
「まだ分かりません」
「兵力は?」
「増えております」
「徳川は?」
「今のところ、大きな動きはありません」
宗一郎は地図を見る。
越前。
近江。
三河。
甲斐。
そして、その間にある街道。
「……武田が動いたか」
半兵衛が尋ねる。
「どう見ます?」
宗一郎はしばらく黙っていた。
「まだ分からない」
「しかし」
「可能性はいくつもある」
宗一郎は地図に指を置いた。
「織田を東へ引きつけたいのかもしれない」
「越前を揺さぶりたいのかもしれない」
「あるいは、本当に別の目的があるのかもしれない」
半兵衛が頷く。
「では?」
「越前から目を離さない」
宗一郎は言った。
「同時に、東も見る」
*
その頃。
東へ向かう街道を、一人の歩き巫女が歩いていた。
鈴が鳴る。
風が吹く。
女は振り返らない。
その先には、武田の陣がある。
さらにその向こうには、徳川がいる。
そして西には――
織田と高槻。
女は歩きながら、ふと空を見上げた。
「風向きが変わりましたね」
誰に言うでもなく呟く。
そして、また歩き出した。
この時。
まだ誰も知らない。
越前の火と、東から吹き始めた風が――
やがて一つの戦場へ向かって重なっていくことを。
ただ宗一郎だけが、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
――朝倉が滅びた。
――武田が動いた。
偶然なのか。
それとも。
誰かが、この二つを繋ごうとしているのか。
宗一郎は答えを出さなかった。
「……まだ、決めつけるな」
そう呟き、地図を閉じた。
越前の空には、夕暮れが迫っていた。




