↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
37/82

第三十五章 東の風

第三十五章 東の風


 朝倉が滅びてから、まだ幾日も経っていなかった。


 しかし、越前の空気はすでに変わっていた。


 一乗谷には織田の旗が立っている。


 だが、山間の村々まで織田の支配が届いているわけではない。


 朝倉の家臣だった者たちは、それぞれの故郷へ戻ろうとしていた。


 寺へ逃げ込む者もいる。


 山へ身を隠す者もいる。


 武器を捨てて農民に戻る者もいれば、逆に刀を手放せず、仲間を集め始める者もいた。


 誰もが、次に何が起きるのか分からなかった。


    *


「年貢をどうするか、ですか」


 高槻宗一郎は、机の上に並べられた書類を見ていた。


「はい」


 報告役の男が答える。


「朝倉の代官がいなくなった村では、誰が取り決めをするのか分からず、村同士で揉めているところもあります」


「当然でしょうね」


 宗一郎は一枚の紙をめくった。


「支配する者が変わったのに、決まりが残っていない」


「はい」


「なら、勝手に決める者が出る」


 半兵衛が横から口を挟む。


「一乗谷を落としただけでは、越前は治まらぬということですな」


「その通りです」


 宗一郎は地図を見る。


 越前。


 敦賀。


 北へ続く道。


 寺社。


 山間の村。


 それぞれを指で追う。


「まず、織田に従う村と、朝倉を慕う村を分けて考えるのをやめます」


「ほう」


「朝倉を慕っていても、戦いたくない人間はいる」


「逆に、織田に従っていても不満を持つ者はいる」


「そうです」


 宗一郎は地図から目を上げた。


「今見るべきなのは、誰が味方かじゃない」


「何をするつもりなのか」


 半兵衛が頷いた。


「敵になるのか、静かに暮らしたいのか」


「その違いを見ます」


    *


 その日の午後。


 北の村から、一人の男がやって来た。


「高槻様に、お伝えしたいことが」


「何だ?」


「寺で人が集まっております」


「朝倉の残党か?」


「分かりません」


「人数は?」


「二十ほど」


「武器は?」


「槍や刀を持つ者が何人か」


 宗一郎は少し考えた。


「寺の者は何と言っている?」


「織田と戦うためではない、と」


「では何のために?」


「村を守るためだと」


 宗一郎は半兵衛を見る。


「……始まりましたな」


「何がです?」


「朝倉がなくなった後にできる、新しいまとまりです」


 まだ、それが何なのか。


 宗一郎には分からなかった。


 ただ一つ。


 朝倉が倒れたことで、人々が新しい拠り所を探し始めている。


 それだけは確かだった。


    *


 同じ頃。


 越前から遠く離れた場所。


 山道を、一人の女が歩いていた。


 粗末な衣。


 肩には小さな荷。


 腰には小さな袋。


 そして、手には鈴のついた杖。


 見る者が見れば、ただの旅の巫女にしか見えない。


 女は村に入ると、井戸端にいた女たちに声を掛けた。


「こちらでは、戦があったそうですね」


「ええ。朝倉が負けたそうですよ」


「織田が勝ったのですか?」


「そうらしいです」


「では、織田の兵はまだ多いので?」


「一乗谷には大勢いるそうです」


 女は驚いた顔をする。


「まあ……怖いこと」


 そして、何気ない調子で尋ねた。


「東のほうはどうなのでしょう?」


「東?」


「武田のほうです」


 村人が首を傾げる。


「武田も動いているそうですよ」


「どちらへ?」


「さあ……」


 女は笑った。


「そうですか」


 それ以上は聞かなかった。


 宿に入る。


 食事を取る。


 そして夜になると、一人で帳面を開いた。


 小さな字で書き込む。


 ――織田、越前へ進出。


 ――朝倉滅亡。


 ――兵力、多数。


 ――村々には動揺あり。


 少し考え、最後に一行を書いた。


 ――織田、高槻宗一郎の名が各地で聞かれる。


 女は帳面を閉じた。


    *


 翌朝。


 女は再び歩き始めた。


 山を越え。


 川を渡り。


 次の村へ入る。


 そこで聞いた話を書き留める。


 その次の村でも聞く。


 戦のこと。


 兵の数。


 道の状態。


 米の値段。


 どこに兵が集まっているか。


 誰が何を恐れているか。


 女は何気なく歩いているように見えた。


 だが、その情報は一人の武将のもとへ届けられる。


 甲斐。


 武田の陣。


 女が差し出した紙を、一人の武将が受け取った。


「越前は?」


「朝倉は滅びました」


「織田は?」


「一乗谷を押さえています」


「高槻は?」


 女は答えた。


「越前におります」


 武将は眉を動かした。


「まだいるか」


「はい」


「何をしている?」


「戦の後始末をしているようです」


「後始末?」


「村々の年貢や兵糧について、記録を作らせているとのこと」


 武将は黙った。


 やがて、小さく笑う。


「……戦の後まで手を入れるか」


    *


 その報告は、さらに上へ送られた。


 武田信玄のもとへ。


 病に伏していた信玄は、横になったまま紙を読んだ。


「高槻宗一郎」


 その名を、静かに口にする。


 側近が尋ねる。


「いかがなされますか」


「織田は越前を取った」


「はい」


「だが、高槻は越前に兵を残している」


「そのようです」


 信玄は目を閉じた。


「ならば、織田が東へ兵を向けるのをためらわせることができる」


 側近が息を呑む。


「高槻を?」


「いや」


 信玄は首を横に振った。


「高槻のいる場所を使う」


    *


 その頃、越前。


 宗一郎のもとへ、新しい報告が届いた。


「高槻様」


「どうした?」


「北の寺で、人が集まっています」


「朝倉の残党?」


「一部はそうですが……違う者もいます」


「違う?」


「農民や商人も混じっているようです」


 宗一郎は地図を見る。


「何を話している?」


「織田に対して、どうするか」


「戦うと言っているのか?」


「まだ、そこまでは」


「では、何を恐れている?」


「年貢です」


 宗一郎は黙った。


「織田が米を全部持っていく」


「男を兵に取る」


「寺を潰す」


「そんな噂が広がっています」


「誰から聞いた?」


「それが……」


 報告役が困った顔をする。


「皆、別々の場所で聞いたと言うのです」


 宗一郎の目が細くなる。


「同じ噂を?」


「はい」


「誰から?」


「分かりません」


 半兵衛が静かに言った。


「誰かが流している?」


「可能性はあります」


 宗一郎は即答しなかった。


「まだ断定しない」


「はい」


「まず、事実を集める」


    *


 その夜。


 越前の小さな寺で、一人の僧が人々を前にしていた。


「織田は、何をする?」


 誰かが尋ねる。


「分からぬ」


 僧は答えた。


「だからこそ、村を守る備えが必要だ」


「戦うのか?」


「戦いたい者だけが戦えばいい」


 僧はそう言った。


「だが、戦いたくない者まで巻き込むな」


 その言葉に、集まった者たちが顔を見合わせる。


 僧自身も、まだ答えを決めてはいなかった。


 朝倉は消えた。


 織田は来た。


 ならば、自分たちはどうするのか。


 それを考えているだけだった。


    *


 翌日。


 宗一郎のもとへ、もう一つの報告が入った。


「東からです」


「東?」


「武田が動いています」


 宗一郎が顔を上げた。


「どこへ?」


「まだ分かりません」


「兵力は?」


「増えております」


「徳川は?」


「今のところ、大きな動きはありません」


 宗一郎は地図を見る。


 越前。


 近江。


 三河。


 甲斐。


 そして、その間にある街道。


「……武田が動いたか」


 半兵衛が尋ねる。


「どう見ます?」


 宗一郎はしばらく黙っていた。


「まだ分からない」


「しかし」


「可能性はいくつもある」


 宗一郎は地図に指を置いた。


「織田を東へ引きつけたいのかもしれない」


「越前を揺さぶりたいのかもしれない」


「あるいは、本当に別の目的があるのかもしれない」


 半兵衛が頷く。


「では?」


「越前から目を離さない」


 宗一郎は言った。


「同時に、東も見る」


    *


 その頃。


 東へ向かう街道を、一人の歩き巫女が歩いていた。


 鈴が鳴る。


 風が吹く。


 女は振り返らない。


 その先には、武田の陣がある。


 さらにその向こうには、徳川がいる。


 そして西には――


 織田と高槻。


 女は歩きながら、ふと空を見上げた。


「風向きが変わりましたね」


 誰に言うでもなく呟く。


 そして、また歩き出した。


 この時。


 まだ誰も知らない。


 越前の火と、東から吹き始めた風が――


 やがて一つの戦場へ向かって重なっていくことを。


 ただ宗一郎だけが、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。


 ――朝倉が滅びた。


 ――武田が動いた。


 偶然なのか。


 それとも。


 誰かが、この二つを繋ごうとしているのか。


 宗一郎は答えを出さなかった。


「……まだ、決めつけるな」


 そう呟き、地図を閉じた。


 越前の空には、夕暮れが迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。