第三十三章 決着③――刀根坂、崩れる朝倉
第三十三章 決着③――刀根坂、崩れる朝倉
夜が明ける少し前。
刀根坂には、白い霧が立ち込めていた。
山間の道。
左右には斜面。
その先には、越前へ続く道。
朝倉軍は、その道を押さえていた。
兵たちは疲れている。
昨日からの戦で、身体には傷がある。
握る槍には力が入りにくい。
それでも、誰も逃げなかった。
朝倉の旗が立っている。
それだけで、まだ戦えると思っていた。
「敵はまだ来ぬか」
朝倉方の武士が呟く。
「来る」
隣の男が答えた。
「必ず来る」
遠くから、鳥が飛び立った。
そして――
霧の向こうに、人影が現れた。
「織田だ!」
声が上がる。
次々に兵が槍を構える。
朝倉軍の陣が動き始めた。
*
「来たな」
柴田勝家が呟いた。
馬上から刀根坂を見る。
霧。
山。
敵の旗。
「鉄砲隊、前へ!」
命令が飛ぶ。
兵たちが進む。
宗一郎は少し後ろから、その動きを見ていた。
「柴田様、前へ出すぎないように」
伝令に言う。
「承知した!」
伝令が走っていく。
半兵衛が隣に並ぶ。
「聞いてくれるでしょうか」
「たぶん」
「たぶん?」
「柴田殿ですから」
宗一郎は苦笑した。
「止めても、前へ出ます」
「羽柴殿は?」
「もっと前へ出るでしょうね」
二人とも笑った。
だが、その笑みは長く続かなかった。
朝倉軍から、太鼓が鳴った。
ドン。
ドン。
ドン。
そして――
「来るぞ!」
朝倉軍が動いた。
織田軍へ向かって、一気に下ってくる。
「迎え撃て!」
柴田勝家が叫んだ。
「鉄砲!」
織田の鉄砲隊が構える。
火縄に火が入る。
「撃て!」
――ズドン!
霧の中で火花が走った。
煙が広がる。
朝倉兵が倒れる。
だが、止まらない。
「進め!」
「織田を押し返せ!」
朝倉兵が突っ込んでくる。
第二列。
――ズドン!
さらに撃つ。
だが距離が縮まる。
鉄砲を撃った兵が後ろへ下がる。
次の列が前へ出る。
装填。
火縄。
照準。
発砲。
一定の手順。
宗一郎が何度も訓練させた動きだった。
しかし、朝倉兵はそれでも迫ってきた。
「槍を!」
柴田隊が構える。
激突。
槍の穂先がぶつかる。
盾が軋む。
兵が押し合う。
「押せ!」
勝家自身が前へ出た。
「柴田隊、前へ!」
「おおおおおっ!」
織田兵が押し返す。
だが朝倉軍も負けない。
「まだだ!」
「まだ戦える!」
「ここで織田を止めろ!」
朝倉の武士たちが兵をまとめる。
その勢いに、柴田隊の一部が押された。
「柴田様!」
「下がるな!」
勝家が怒鳴る。
「ここを取られれば道が死ぬぞ!」
兵が踏みとどまる。
その瞬間だった。
横から別の朝倉隊が現れた。
「側面!」
織田兵が叫ぶ。
「朝倉の別隊です!」
勝家が振り返った。
「……来たか」
敵は一つではない。
朝倉方は複数の部隊を山中に伏せていた。
正面を止め。
側面を叩く。
そして織田軍を山道へ引き込む。
土地を知る朝倉ならではの戦いだった。
「柴田隊、左を固めろ!」
勝家が叫ぶ。
「羽柴は?」
伝令が答える。
「右側面へ!」
「ならば任せる!」
*
羽柴秀吉は、すでに走っていた。
「敵が左から来ています!」
「分かっとるわ!」
秀吉は周囲を見回した。
正面。
左。
右。
どこも敵だ。
普通なら、ここで隊列を下げる。
だが秀吉は逆だった。
「前へ出るぞ!」
「前ですか!?」
「そうだ!」
秀吉が笑う。
「敵が多いってことは、そこへ兵を集めてるってことだ」
兵が理解する。
「つまり……」
「薄いところがある」
秀吉は右手の山を指した。
「あそこだ」
「敵が少ない!」
「行くぞ!」
羽柴隊が斜面を駆け上がる。
朝倉側の兵が慌てた。
「羽柴が動いた!」
「止めろ!」
しかし秀吉隊は止まらない。
「鉄砲!」
羽柴隊の鉄砲が鳴る。
――ズドン!
朝倉兵が倒れる。
「槍!」
続いて槍足軽が突っ込む。
「押せ!」
秀吉自身も前へ出た。
刀を振る。
一人。
二人。
敵を押し退ける。
「羽柴隊を止めろ!」
朝倉側も必死に兵を集める。
秀吉はその動きを見て笑った。
「そうだ」
低く呟く。
「もっと来い」
*
一方。
柴田隊では、戦線が再び押し合いになっていた。
「敵が多すぎます!」
家臣が叫ぶ。
「だから何だ!」
勝家が怒鳴り返す。
「槍を立てろ!」
柴田隊が踏みとどまる。
朝倉兵が押す。
織田兵が押し返す。
その繰り返しだった。
勝家は前線を見ていた。
敵の勢い。
味方の疲労。
そして――
朝倉兵の動き。
「……おかしい」
勝家が呟いた。
「何がです?」
「奴ら、死ぬ気で止めている」
「はい」
「ならば――」
勝家が山の奥を見る。
「後ろに何かある」
家臣が息を呑む。
「一乗谷……でしょうか」
「そうだ」
勝家は刀を掲げた。
「ここを抜けば、朝倉は後ろへ下がるしかない」
「ならば!」
「押すぞ!」
勝家が叫んだ。
「柴田隊、前へ!」
「おおおおおっ!」
柴田隊が突進する。
朝倉兵が押される。
一歩。
また一歩。
織田軍が刀根坂を進む。
*
宗一郎は後方から戦場を見ていた。
「前線の弾薬は?」
「まだ持ちます!」
「負傷者は?」
「後送を続けています!」
「なら、補給線を切らすな」
「はっ!」
宗一郎は別の伝令を呼ぶ。
「羽柴隊へ」
「はい」
「弾薬を追加で送れ」
「柴田隊は?」
「そちらにも」
半兵衛が宗一郎を見る。
「かなり使っていますな」
「ええ」
「これだけ使えば、高槻の備蓄も減ります」
「分かっている」
宗一郎は答えた。
「でも、今は惜しむところじゃない」
半兵衛が頷く。
「戦のために作ったものですからな」
「そうだ」
宗一郎は戦場を見る。
「ただし――」
一瞬、言葉を止める。
「弾薬があるから勝てる、とは思わない」
「ほう」
「最後は人だ」
前線から怒号が響く。
「人が怖くても前へ出る」
「仲間が倒れても隊列を崩さない」
「それができる兵がいるから、道具が役に立つ」
半兵衛が静かに笑った。
「よい答えですな」
「何がだ?」
「宗一郎様が、武器そのものを信じていない」
宗一郎は答えなかった。
*
昼近く。
戦場はさらに激しくなった。
朝倉軍の中央が崩れ始めた。
だが、そこへ別の隊が入る。
織田軍が押す。
朝倉軍が退く。
織田軍が追う。
朝倉軍が反撃する。
その繰り返し。
刀根坂全体が戦場になった。
そして――
一本の旗が倒れた。
「朝倉の旗が倒れたぞ!」
織田兵から声が上がる。
だが、それは勝利を意味しなかった。
朝倉側の兵が新しい旗を立てる。
「まだだ!」
「朝倉はまだいる!」
その声に、織田兵も息を呑んだ。
宗一郎はそれを見ていた。
「……強いな」
半兵衛が頷く。
「朝倉という家が長く越前を支配してきた理由が分かります」
「はい」
宗一郎は山を見た。
「でも――」
その時。
羽柴隊から伝令が来た。
「高槻様!」
「どうした?」
「羽柴様より! 朝倉の左翼が崩れ始めています!」
「柴田隊は?」
「中央を押しています!」
宗一郎は地図を見る。
そして、初めて確信した。
「……いける」
半兵衛が尋ねる。
「何が?」
「朝倉は、もう一つの隊を動かす余裕がない」
宗一郎が指を動かす。
「ここまで兵を出して、それでも織田を止められない」
「つまり?」
「次に崩れたところを塞ぐ兵がいない」
半兵衛が目を細めた。
「なるほど」
「伝令!」
「はっ!」
「柴田殿へ」
宗一郎は言った。
「中央を押してください。敵が下がったら追いすぎず、横を取る」
「承知!」
「羽柴殿へ」
「はい!」
「左翼を崩しても、山奥へ深入りしないように」
「はっ!」
宗一郎は最後に言った。
「朝倉軍を壊すのではなく、退路を繋げる」
半兵衛が驚く。
「退路を?」
「追い詰めすぎたら、死に物狂いで反撃してくる」
「なるほど」
「逃げられると思えば、人は戦い方を変える」
*
しかし――
宗一郎の予想よりも早く、朝倉側に異変が起きた。
「殿!」
一乗谷方面から戻ってきた伝令が、息を切らして駆け込む。
「織田軍が刀根坂を越えています!」
朝倉義景は顔を上げた。
「どこまで来た」
「柴田隊、羽柴隊ともに前進!」
「……」
義景は黙った。
周囲の家臣たちも沈黙している。
誰も口には出さない。
だが、全員が分かっていた。
ここを抜かれれば――
一乗谷までの道が開く。
「まだ戦える兵は?」
「……かなり減っております」
「退路は?」
「確保しております」
義景は目を閉じた。
そして、しばらくして言った。
「退く」
家臣が驚く。
「殿!」
「ここで全滅するわけにはいかぬ」
「しかし……」
「朝倉はまだ終わっていない」
義景は立ち上がった。
「一乗谷へ戻る」
「籠城を?」
「違う」
義景は答えた。
「まず兵を集める」
その声には、まだ希望があった。
だが――
義景自身が、その希望がどれほど薄いものかを理解していた。
*
刀根坂。
「敵が退いていくぞ!」
織田兵が叫んだ。
朝倉軍が少しずつ後退していく。
柴田勝家がそれを見た。
「追うぞ!」
だが、宗一郎の伝令が駆け込んできた。
「高槻様より! 追いすぎるなとのこと!」
勝家が眉をひそめる。
「またか!」
伝令が震える。
「は、はい!」
「……」
勝家は山の向こうを見る。
逃げている。
確かに逃げている。
だが、逃げる敵を追いすぎれば、こちらも崩れる。
勝家は刀を下げた。
「分かった」
「え?」
「追う」
伝令が目を丸くする。
「ただし、隊列を崩すな!」
「はっ!」
勝家は兵に向かって叫んだ。
「走るな!」
「敵を見失うな!」
「だが、勝手に山へ入るな!」
柴田隊が進む。
そこへ秀吉が合流してきた。
「柴田様!」
「羽柴!」
「敵、かなり崩れました!」
「見れば分かる」
勝家が笑う。
「だが、まだ終わっていない」
「はい」
秀吉も山を見る。
「一乗谷ですね」
「ああ」
二人の目が合った。
「行くぞ」
「はい!」
二人の隊が進む。
*
夕方。
刀根坂の戦場に、ようやく静けさが戻り始めた。
朝倉軍は退いた。
織田軍は刀根坂を確保した。
勝った。
だが――
誰も歓声を上げなかった。
倒れた兵が多すぎた。
敵も。
味方も。
宗一郎は戦場を歩いた。
足元に、折れた槍があった。
少し先には、朝倉の旗が落ちている。
それを拾い上げた兵がいた。
「高槻様」
「どうした?」
「これ、どうしますか?」
宗一郎は旗を見る。
朝倉の家紋。
「燃やすな」
「え?」
「持って帰れ」
「はい」
「敵の旗だからといって、燃やす必要はない」
兵が頷く。
宗一郎は山の向こうを見た。
一乗谷。
そこにはまだ朝倉義景がいる。
そして、朝倉の家臣たちもいる。
「……次は一乗谷か」
半兵衛が隣に立った。
「そうなりますな」
「でも、今日で分かった」
「何がです?」
宗一郎は答えた。
「朝倉は、ただ逃げているんじゃない」
「はい」
「まだ、朝倉という家を残そうとしている」
半兵衛は黙っていた。
「だから一乗谷では、もっと厳しい判断をする」
宗一郎は遠くを見る。
「守るのか」
「逃げるのか」
「戦うのか」
「それとも――」
言葉を止める。
夕陽が山を赤く染めていた。
「朝倉義景が何を選ぶか」
その答えは、まだ分からない。
ただ一つ確かなことがあった。
刀根坂で、朝倉軍の主力は大きく崩れた。
そして織田軍は――
一乗谷へ続く道を手に入れた。
*
その夜。
朝倉義景は、一乗谷へ戻っていた。
疲れた兵たち。
傷ついた家臣。
減った兵糧。
そして――
迫り来る織田軍。
義景は暗い庭を眺めていた。
「……ここまでか」
誰にも聞こえない声だった。
しかし、その手はまだ震えていなかった。
「いや」
義景は顔を上げた。
「まだ、朝倉は終わらぬ」
その言葉だけが、静かな一乗谷に残った。
だが同じ頃。
織田軍では、別の男が同じ一乗谷を見つめていた。
高槻宗一郎。
その胸には、一つの予感があった。
――次の戦は、刀根坂とは違う。
兵と兵がぶつかるだけではない。
朝倉という家そのものの終わりが、そこにある。
そして、その終わりの後には――
誰も支配していない越前が残る。
宗一郎はまだ知らなかった。
朝倉が倒れた後。
越前で、別の力が動き始めることを。
それは朝倉ではない。
織田でもない。
そして――
まだ、誰の目にもその正体は見えていなかった。




