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第三十二章 決着②――刀根坂

第三十二章 決着②――刀根坂


 夜が明けた。


 越前の山々には、薄い霧がかかっていた。


 昨日までの戦場には、まだ煙の匂いが残っている。


 折れた槍。


 散らばった矢。


 泥に埋まった具足。


 そして、回収されていない武具。


 織田軍は、夜明けとともに動き始めていた。


 戦は休んでいても、軍は休まない。


「弾薬の残りは?」


 宗一郎が尋ねる。


「柴田隊、羽柴隊ともに昨日の戦でかなり消費しています」


「補給は?」


「今朝中には届きます」


「よし」


 宗一郎は頷いた。


 その横で半兵衛が地図を広げていた。


「朝倉は、昨夜のうちに移動したようです」


「一乗谷へ?」


「いえ」


 半兵衛が指を動かす。


「こちらです」


 宗一郎は地図を見る。


「刀根坂……」


「はい」


 山間の要衝。


 道は狭い。


 両側には山。


 そして、その先には越前と近江をつなぐ道がある。


「ここで止めるつもりか」


「朝倉にとっては、最後に近い防衛線でしょう」


 宗一郎は黙って地図を見た。


「……なら、ここは昨日より激しくなる」


「おそらく」


 そこへ伝令が駆けてきた。


「高槻様!」


「どうした?」


「柴田様からです。先行するとのこと」


 宗一郎はため息をついた。


「やっぱりか」


 半兵衛が苦笑する。


「休む気はないようですな」


「羽柴殿は?」


「すでに出ています」


「……二人とも元気すぎる」


    *


 柴田勝家は、朝霧の中を進んでいた。


 馬上から前方を見る。


 道は狭い。


 敵の姿はない。


「警戒を緩めるな!」


 勝家が叫ぶ。


「昨日の敵は、まだ死んでいない!」


 兵たちが槍を構える。


 その時だった。


 山の上から、石が転がってきた。


 ――ゴロゴロゴロ。


 兵が顔を上げる。


「伏せろ!」


 石が道へ落ちた。


 続いて――


 矢。


「敵だ!」


 山の木々の間から矢が降る。


 勝家は即座に叫んだ。


「竹束!」


 盾が上がる。


「鉄砲、前へ!」


 鉄砲隊が構える。


 だが、敵の姿が見えない。


「撃つな!」


 勝家が一度止めた。


「敵が出てくるまで待て!」


 兵たちが息を殺す。


 すると山の斜面から朝倉兵が現れた。


「今だ!」


 勝家が叫ぶ。


 鉄砲が鳴った。


 ――ズドン!


 朝倉兵が倒れる。


 だが、後ろからさらに兵が出てくる。


「多いぞ!」


「押し返せ!」


 柴田隊が槍を構える。


 朝倉兵が斜面を駆け下りてきた。


 槍がぶつかる。


 刀が閃く。


 怒号が山に響く。


「柴田様!」


 家臣が叫ぶ。


「右手からも来ています!」


「なら右を潰せ!」


「はっ!」


 勝家は自ら前へ出た。


「ここを抜けるぞ!」


 柴田隊が進む。


 朝倉兵も退かない。


 昨日よりも激しい。


 朝倉側も分かっている。


 ここを破られれば、一乗谷まで一気に近づかれる。


 だからこそ、死力を尽くしていた。


    *


 一方、別の道。


 羽柴秀吉は、兵を率いて山を回っていた。


「敵は正面にいる」


 秀吉が言う。


「なら、俺たちは正面へ行かない」


 兵が笑う。


「いつものことですね」


「そうだ」


 秀吉は山道を見た。


「戦は、強いところを殴り続けるもんじゃない」


 少し先に、朝倉側の見張りがいる。


「敵を見つけたら、まず黙れ」


 秀吉が指を立てる。


 兵が止まる。


「鉄砲は?」


「あります」


「合図まで撃つな」


 秀吉が低く言った。


 そして――


「今だ!」


 鉄砲が鳴る。


 朝倉兵が混乱する。


「敵だ!」


「横から来たぞ!」


「回り込まれた!」


 秀吉隊が一気に斜面を駆け下りる。


「行け!」


 秀吉自身も前へ出た。


 槍隊が朝倉兵を押し込む。


「ここを取る!」


 羽柴隊が進む。


 しかし、朝倉側もただでは退かなかった。


「羽柴隊を止めろ!」


 別の朝倉武士が兵を集める。


 数十人が横から突っ込んできた。


「来たか!」


 秀吉が刀を抜く。


「受けろ!」


 羽柴隊が構える。


 激突。


 秀吉隊の前列が押された。


「下がるな!」


 秀吉が叫ぶ。


「一歩下がったら、十歩取られるぞ!」


 兵が踏みとどまる。


 そして、後方から鉄砲が鳴った。


 ――ズドン!


 朝倉兵が崩れる。


 羽柴隊が前へ出た。


「よし!」


 秀吉が叫ぶ。


「今だ!」


    *


 昼。


 宗一郎は前線へ向かっていた。


 馬上から見る限り、戦況はまだ決まっていない。


「柴田隊、前進!」


「羽柴隊、右側を確保!」


 伝令が行き交う。


 宗一郎は戦場を見ながら考える。


 朝倉は昨日よりもまとまっている。


 撤退しながら戦っている。


 つまり――


「義景は、軍を捨てて逃げるつもりじゃない」


 半兵衛が頷いた。


「少なくとも、今は」


「なら、ここで無理に追えば危険だ」


「ですが、柴田殿は止まりません」


「……ですよね」


 宗一郎は苦笑した。


 その時だった。


 前方から大きな音が響いた。


 ――ズドン!


 続いて、


 ――ズドン!


 宗一郎が顔を上げる。


「高槻式の鉄砲です」


 兵が報告する。


「柴田隊が一斉射撃を始めました!」


「行くぞ」


 宗一郎は馬を進めた。


    *


 柴田隊。


 勝家は前方を睨んでいた。


「鉄砲隊!」


「はっ!」


「二列に分かれろ!」


 兵が動く。


 第一列が構える。


 撃つ。


 後退。


 第二列が前へ。


 撃つ。


 その間に第一列が装填する。


 火薬。


 弾丸。


 槊杖。


 火縄。


 動きが揃っている。


 朝倉側から見れば、不気味なほどだった。


「鉄砲が止まらぬ!」


「次から次へと来るぞ!」


 しかし――


 朝倉側も工夫していた。


 山の陰に伏せる。


 鉄砲が鳴った瞬間に移動する。


 木々を盾にする。


 そして、鉄砲隊が装填する僅かな時間を狙って突撃する。


「今だ!」


 朝倉兵が飛び出した。


「槍を!」


 柴田隊の前列が受け止める。


 槍と槍。


 刀と刀。


 兵と兵。


 距離が近くなれば、鉄砲の優位は消える。


 勝家自身が前へ出た。


「押せ!」


 朝倉武士と槍を交える。


 勝家が一歩進む。


 さらに一歩。


「柴田隊、前へ!」


 兵たちが続く。


 朝倉兵が下がる。


 だが、その瞬間。


 山の奥から新たな兵が現れた。


「まだいる!」


 勝家が叫ぶ。


「どれだけ出てくる!」


 それは朝倉方が最後まで温存していた兵だった。


 織田軍の進撃を止めるための予備兵力。


 勝家の顔が険しくなる。


「……面白い」


 その声には怒りよりも闘志があった。


「ならば、全部出させてやる!」


    *


 同じ頃。


 羽柴隊も苦戦していた。


 秀吉は敵の動きを見ていた。


「正面の敵が減った?」


 家臣が頷く。


「はい」


「おかしい」


 秀吉はすぐに気づいた。


「減ったんじゃない」


「では?」


「移ったんだ」


 秀吉は柴田隊の方向を見る。


「柴田のところへ兵を集めてる」


 秀吉の顔から笑みが消える。


「柴田を止めている間に、俺たちを山へ閉じ込めるつもりだ」


「どうします?」


 秀吉は即答した。


「柴田を助ける」


「ですが、こちらも――」


「構わん」


 秀吉が刀を抜く。


「柴田が止まったら、全軍が止まる」


 羽柴隊が方向を変えた。


 山道を駆ける。


 朝倉兵が気づく。


「羽柴が動いたぞ!」


「止めろ!」


「追わせるな!」


 だが秀吉は止まらない。


「走れ!」


 羽柴隊が突っ込む。


 その勢いのまま、朝倉側面へ食い込んだ。


「羽柴だ!」


「横から来たぞ!」


 朝倉隊が乱れる。


 その瞬間。


 柴田隊が前へ出た。


「今だ!」


 勝家が叫ぶ。


 正面と側面。


 二つの隊が同時に押す。


 朝倉軍の戦線が崩れた。


「退け!」


「一度下がれ!」


 朝倉兵が山の奥へ退いていく。


 織田軍が追う。


 しかし――


「追いすぎるな!」


 宗一郎の声が飛んだ。


 勝家が振り返る。


「高槻!」


「そこで止めてください!」


「敵を逃がすのか!」


「はい!」


 勝家が眉をひそめる。


 宗一郎は叫んだ。


「今の朝倉は、逃げながら戦える!」


「……」


「ここで追えば、また地形に引き込まれます!」


 勝家は一瞬考えた。


 そして――


「分かった!」


 刀を下ろした。


「止まれ!」


 柴田隊が止まる。


 秀吉も兵を止めた。


 山の向こうへ、朝倉兵が消えていく。


 秀吉が宗一郎を見る。


「相変わらず慎重だな」


「慎重じゃないと、死にますから」


「違いねえ」


 秀吉が笑った。


 だが、勝家は笑っていなかった。


「高槻」


「はい」


「敵はまだ戦うぞ」


「分かっています」


「次はもっと激しくなる」


 宗一郎は山の奥を見る。


「……そうでしょうね」


    *


 その頃。


 一乗谷。


 朝倉義景は、新たな報告を受けていた。


「柴田隊、羽柴隊ともに前進しております」


「どこまで来た」


「刀根坂を越えました」


 義景の顔が強張った。


「……そうか」


 家臣が恐る恐る尋ねる。


「殿、一乗谷へ戻り、籠城の準備を――」


「籠城?」


 義景が言葉を遮った。


「一乗谷でか」


「はい」


「織田が一乗谷へ入れば、我らの逃げ道はなくなる」


 義景は地図を見る。


 しばらく沈黙する。


「ならば」


 義景は言った。


「ここで迎え撃つ」


 家臣が驚く。


「しかし、兵の疲労が――」


「知っている」


「ならば……」


「だからこそだ」


 義景は立ち上がった。


「織田は勝っていると思っている」


 地図の上に指を置く。


「昨日、今日と進んできた」


 そして一乗谷を見る。


「ならば、今こそ」


 義景の声が低くなる。


「織田に、朝倉の力を見せる」


    *


 夜。


 織田陣。


 宗一郎の前に、負傷兵が並んでいた。


 今日も多くの兵が傷ついた。


 鉄砲の性能が上がっても。


 装填が速くなっても。


 命令が揃っていても。


 槍が届く距離まで敵が来れば、人と人の戦いになる。


 宗一郎は一人の兵の傷を見た。


「深いな」


「はい」


「助かるか?」


「医師は、助かる可能性はあると」


「そうか」


 宗一郎は立ち上がった。


 少し離れた場所では、柴田勝家が武具を整えている。


 羽柴秀吉もいた。


「二人とも、少し休んでください」


 宗一郎が言った。


 秀吉が笑う。


「お前もだろ」


「俺は前線に出てない」


「それでもだ」


 勝家が口を挟む。


「明日はもっと厳しくなる」


 宗一郎は頷いた。


「はい」


「なら、寝ろ」


「柴田殿も」


「俺は寝る」


「本当ですか?」


「……少しはな」


 秀吉が笑い出した。


「こりゃ珍しい」


「羽柴、お前もだ」


「へいへい」


 三人の間に、一瞬だけ穏やかな空気が流れた。


 だが――


 山の向こうから、太鼓の音が聞こえた。


 ドン。


 ドン。


 ドン。


 三人が同時に振り返る。


 宗一郎の表情が変わった。


「……朝倉が動いた」


 半兵衛が地図を持ってくる。


「夜襲でしょうか?」


「いや」


 宗一郎は耳を澄ませた。


 太鼓。


 そして、遠くから聞こえる鬨の声。


「違う」


 宗一郎は立ち上がった。


「明日のための配置だ」


 勝家が刀に手をかける。


「ならば、こちらも備える」


 秀吉も立ち上がる。


「いよいよか」


 宗一郎は暗闇の向こうを見る。


 そこには、朝倉の旗があった。


 まだ倒れていない。


 まだ戦える。


 まだ越前を諦めていない。


 宗一郎は静かに息を吐いた。


「次で決める」


 半兵衛が尋ねる。


「一乗谷へ?」


「その前に」


 宗一郎は地図上の一点を指した。


「刀根坂を完全に抜く」


 その目に迷いはなかった。


「ここで朝倉軍の主力を崩す」


 風が吹いた。


 山の向こうから、冷たい風が流れてくる。


 それはまるで――


 越前そのものが、最後の抵抗を見せているようだった。


 翌朝。


 刀根坂で、朝倉軍と織田軍は再び激突する。


 そしてその戦いが――


 朝倉という名を、一乗谷へ追い詰めていくことになる。

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