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第三十一章 決着①――越前侵攻

第三十一章 決着①――越前侵攻


 越前の山々には、まだ雪が残っていた。


 春になったとはいえ、朝夕の冷え込みは厳しい。


 山肌には白い筋が残り、雪解け水が谷を流れている。


 その水が田へ流れ込む。


 田を潤し、村を生かす。


 そして同時に――軍勢の行く手を阻む。


 越前という国は、平地だけを見ていれば分からない。


 街道があり、川があり、谷があり、その先に山がある。


 山を越えれば別の村があり、その村には別の地侍がいる。


 朝倉が長く越前を支配できた理由の一つは、こうした土地そのものを知り尽くしていたことだった。


 織田軍は、その土地へ入ろうとしていた。


 先頭を進む旗があった。


 柴田勝家。


 その後ろには羽柴秀吉。


 さらにその後方に、織田の諸隊が続く。


 そして少し離れた場所に――高槻宗一郎の隊がいた。


「……静かですね」


 宗一郎が呟いた。


 隣にいた竹中半兵衛が、山道の先を見る。


「静かすぎる、ということですか」


「ええ」


 村がある。


 田もある。


 だが、人の姿が少ない。


 煙も上がっていない。


 犬の声すら聞こえない。


「逃げたのでしょう」


 半兵衛が言った。


「戦うつもりがない者は、先に山へ逃げた」


「でしょうね」


 宗一郎は頷いた。


 しかし、その顔から緊張は消えなかった。


「問題は、逃げた人たちじゃない」


「戦う者ですな」


「はい」


 半兵衛は前方を見た。


 そこでは柴田隊が進んでいる。


 勝家は馬上から周囲を見回していた。


「前方、道幅が狭くなります!」


 伝令が駆けてくる。


「柴田様へ伝えよ!」


 勝家が怒鳴った。


「兵を広げるな! 中央を固めろ!」


「はっ!」


 命令が伝わっていく。


 柴田隊の兵たちが槍を立て直す。


 先頭には盾代わりの竹束。


 その後ろに槍足軽。


 さらに鉄砲隊。


 羽柴隊も同じように進んでいた。


 秀吉は馬上で笑っていた。


「朝倉も、なかなかやるじゃねえか」


 隣の兵が振り返る。


「何がです?」


「姿が見えねえ」


 秀吉は目を細めた。


「姿を見せねえってことは、見せたくねえ場所にいるってことだ」


 その直後だった。


 ――ヒュッ。


 一筋の矢が飛んできた。


「伏せろ!」


 秀吉が叫ぶ。


 一本。


 続いて二本。


 そして――


 数十本。


 山の斜面から矢が降り注いだ。


「来たぞ!」


「盾を!」


「前を固めろ!」


 織田兵が竹束を立てる。


 矢が突き刺さった。


 何人かが倒れる。


「敵はどこだ!」


 柴田隊でも怒号が飛ぶ。


 だが、敵兵の姿がほとんど見えない。


 木々の間。


 岩陰。


 斜面の向こう。


 朝倉方は、地形を使っていた。


「鉄砲!」


 勝家が叫ぶ。


「撃つな!」


 家臣が驚いて振り返る。


「敵の位置が分からぬ!」


「分からぬから撃つのだ!」


 勝家が怒鳴った。


「山の木々を撃て!」


 鉄砲隊が構える。


 しかし、その時――


「待て!」


 別の声が飛んだ。


 秀吉だった。


「撃つなら、敵が出てくる場所を狙え!」


 秀吉は斜面を指した。


「奴らは矢を射るために、必ず一度姿を出す!」


 その言葉を裏付けるように、木の陰から人影が動いた。


「今だ!」


 秀吉が叫ぶ。


 ――ズドン!


 織田の鉄砲が一斉に鳴った。


 しかし、まだ一斉射撃ではない。


 先頭の十人ほどが撃ち、すぐに後ろへ下がる。


 次の列が前へ出る。


 宗一郎が高槻技術所で繰り返し訓練させてきた装填手順だった。


 火薬を測る。


 弾を入れる。


 槊杖で押し込む。


 火縄を確認する。


 撃つ。


 そして下がる。


 従来の鉄砲隊よりも、動きが揃っていた。


「撃て!」


 第二列。


 ――ズドン!


 朝倉兵が斜面から転げ落ちた。


 しかし、それでも敵は退かなかった。


「来るぞ!」


 朝倉側から鬨の声が上がった。


 山の中から、槍を持った兵が一気に飛び出してくる。


「柴田様!」


「分かっておる!」


 勝家が刀を抜いた。


「柴田隊、前へ出るぞ!」


 兵たちが吠える。


「おおおおおっ!」


 柴田隊が斜面へ突っ込んだ。


 槍と槍がぶつかる。


 鉄砲の煙が漂う。


 土が跳ねる。


 怒号が重なる。


 柴田勝家は自ら前へ出ていた。


「押せ!」


 敵の槍を受け止める。


 横から別の朝倉兵が斬り込んできた。


 勝家が身をひねる。


 刀が閃いた。


「まだだ!」


 柴田隊がさらに前へ出る。


 だが、朝倉方も必死だった。


「織田を山へ入れるな!」


「ここを越えさせるな!」


「朝倉の国を守れ!」


 地元の地侍たちが叫ぶ。


 彼らにとって、これは単なる主家のための戦ではなかった。


 自分たちの田。


 家。


 家族。


 先祖から受け継いだ土地。


 そこへ織田軍が入ってきた。


 だから退けない。


 柴田隊の勢いが、一瞬止まった。


「押し返されている!」


 後方から伝令が叫ぶ。


 宗一郎が顔を上げた。


「秀吉隊は?」


「右側面へ回っています!」


「……なるほど」


 宗一郎は地図を見る。


 山道。


 川。


 小さな集落。


 朝倉方が中央に兵を集中させている。


「秀吉は、そこを狙うか」


 半兵衛が微笑んだ。


「柴田殿が正面から叩き、羽柴殿が横から崩す」


「いつものやり方ですね」


「ええ。そして――」


 半兵衛は宗一郎を見る。


「それを支えるのが、あなたの役目です」


 宗一郎は少しだけ苦笑した。


「俺は武勇担当じゃありませんから」


「知っています」


「なら安心しました」


 宗一郎は伝令を呼んだ。


「高槻隊へ伝えろ」


「はっ!」


「前線へ弾薬を送る。ただし一度に全部出すな」


「はい!」


「柴田隊と羽柴隊、それぞれに分けろ。撃てる兵が撃てるようにする」


 宗一郎が続ける。


「そして、負傷者を後ろへ送る道を確保する」


 兵が頷いた。


「敵を倒すことばかり考えるな」


 宗一郎は前を見る。


「兵が倒れたら、戦はそこで終わる」


 高槻隊の荷駄が動き始めた。


 紙に包まれた弾薬。


 一定量の火薬。


 弾丸。


 それらが一組になっている。


 一人の兵が毎回火薬の量を測る必要がない。


 それだけでも、前線では大きな違いだった。


 だが――


「簡単にはいかないな」


 宗一郎が呟いた。


 山から再び矢が飛んできた。


 荷駄隊の一人が倒れる。


「負傷!」


「運べ!」


 兵が駆け寄る。


 宗一郎は歯を食いしばった。


 新しい道具があっても。


 仕組みを整えても。


 戦場から血を消すことはできない。


 それが現実だった。


    *


 その頃。


 羽柴秀吉は山の反対側へ回り込んでいた。


「殿、敵がいます!」


「見えてる」


 秀吉は笑っていた。


 正面では柴田隊が戦っている。


 その音が山に響いている。


 朝倉側の兵は、柴田隊を止めるために中央へ集中している。


 だから――


 横が薄くなる。


「今だ」


 秀吉が手を上げた。


「走れ!」


 羽柴隊が斜面を駆け上がる。


「敵だ!」


 朝倉兵が気づいた。


「回り込まれたぞ!」


 だが遅かった。


 秀吉隊が横から突入する。


 槍がぶつかった。


「押せ!」


 秀吉自身も前へ出る。


「ここを取れば、中央が楽になる!」


 兵たちが続く。


 朝倉側も必死に隊を組み直した。


「羽柴を止めろ!」


「後ろへ回すな!」


 地侍たちが槍を構える。


 秀吉の前に一人の武士が立った。


「織田の猿め!」


 武士が斬り込む。


 秀吉が刀で受けた。


 金属音。


 もう一度。


 秀吉が踏み込む。


「悪いな」


 低い声。


「今日は俺たちが勝つ日だ」


 秀吉が押し返す。


 その隙に羽柴兵が横へ回った。


 朝倉隊の陣形が崩れ始める。


「今だ!」


 秀吉が叫ぶ。


 しかし――


 山の奥から、さらに朝倉兵が現れた。


「まだいるのか!」


 羽柴隊の兵が驚く。


 秀吉は笑った。


「いるに決まってるだろ」


 その目は鋭かった。


「ここは朝倉の国だ」


    *


 戦は昼を越えた。


 山道のあちこちで小さな戦闘が続いている。


 一つの部隊が押せば、別の場所で押し返される。


 織田軍は優勢だった。


 だが、圧倒しているわけではない。


 朝倉方は土地を知っている。


 道を知っている。


 どこへ逃げれば別の谷へ出られるのか。


 どの斜面なら伏兵を置けるのか。


 どの川なら馬が渡れないのか。


 その全てを知っていた。


 宗一郎は地図を睨んでいた。


「朝倉は、まだ本隊を出していない」


 半兵衛が頷く。


「おそらく、ここは時間稼ぎです」


「一乗谷へ下がるための?」


「でしょうな」


 宗一郎は地図上の道を指でなぞる。


「なら、無理に追いすぎると危ない」


「はい」


「柴田様に伝えてください」


 伝令が走る。


「敵を追い詰めすぎない。逃げ道を完全に塞ごうとしない」


 半兵衛が少し意外そうな顔をした。


「逃がすのですか?」


「逃げる敵を全部追えば、こっちの隊列が伸びる」


 宗一郎は答えた。


「伸びたところを逆に叩かれたら、被害が増える」


「なるほど」


「勝つことと、敵を全滅させることは違います」


 その時だった。


 遠くから伝令が駆けてきた。


「高槻様!」


「どうした?」


「柴田様より! 敵が反撃に出ました!」


 宗一郎の表情が変わった。


「場所は?」


「川沿いです!」


「……まずい」


 宗一郎は馬に乗った。


「行きます」


「自ら?」


「前線が崩れたら、後ろも危ない」


 半兵衛も馬に乗る。


「では私も」


「半兵衛までか?」


「あなた一人では危なすぎます」


 宗一郎は苦笑した。


「否定できんな」


    *


 川沿いでは激戦になっていた。


 柴田隊が押し込んだ直後。


 朝倉方が一斉に反撃してきたのだ。


「押し返せ!」


 勝家が叫ぶ。


「織田に越前を渡すな!」


 朝倉兵が突撃する。


 柴田隊の一部が下がった。


「下がるな!」


 勝家が怒鳴る。


 だが、敵の数が多い。


 そして地面が悪い。


 ぬかるみ。


 川。


 狭い道。


 足が取られる。


「柴田様!」


 家臣が駆け寄った。


「左翼が崩れかけています!」


「羽柴は?」


「まだ右です!」


「なら――」


 勝家が刀を掲げた。


「俺たちがここを止める!」


 柴田隊が踏みとどまる。


「柴田様と共に死ぬぞ!」


「馬鹿を言うな!」


 勝家が怒鳴った。


「生きて勝つんだ!」


 その声に兵たちが奮い立つ。


 そこへ――


「柴田様!」


 秀吉隊が側面から現れた。


「羽柴!」


「遅くなりました!」


「何をしていた!」


「敵の後ろを取ってきました!」


 秀吉が笑う。


 勝家が一瞬だけ笑った。


「なら、行くぞ!」


「はい!」


 二人の隊が同時に前へ出る。


 柴田が正面を押す。


 羽柴が側面を叩く。


 朝倉隊の陣形が揺れた。


「退くな!」


 朝倉側の武士が叫ぶ。


「まだ戦える!」


 だが、側面を崩されると戦線は維持できない。


 一人。


 二人。


 十人。


 兵が後退する。


 それでも朝倉方は最後まで抵抗した。


 織田軍も無傷ではない。


 倒れた兵が川辺に残る。


 血が水に混じる。


 宗一郎がそこへ到着した。


 目の前に広がる光景を見て、馬を止める。


「……」


 半兵衛も何も言わない。


 勝家が宗一郎に気づいた。


「高槻!」


「柴田殿」


「助かったぞ」


「勝ったんですか?」


 勝家は首を横に振った。


「まだだ」


 その顔には疲労があった。


「敵は退いた。だが、まだ戦える」


 秀吉が近づいてくる。


「朝倉は強いですよ」


「知っている」


 宗一郎は頷いた。


「ここまで戦えるとは思わなかった、という顔をしているぞ」


 秀吉が笑う。


「正直に言えば、少しな」


 宗一郎は山を見た。


 その向こうに、一乗谷がある。


「義景は、まだ戦うつもりでしょうか」


 勝家が答えた。


「戦うしかないだろう」


 秀吉が続ける。


「ここで逃げれば、朝倉は終わる」


「……終わりますね」


 宗一郎は静かに答えた。


「だからこそ、次はもっと激しくなる」


    *


 その頃。


 一乗谷。


 朝倉義景は報告を聞いていた。


「織田軍は、川沿いを突破しました」


「……そうか」


「柴田隊と羽柴隊が前面に出ています」


 義景は目を閉じた。


 自分の軍が弱いわけではない。


 地侍も戦っている。


 兵も逃げていない。


 だが――


 織田軍は違った。


 兵の動きが揃っている。


 鉄砲の音が一定の間隔で響く。


 補給が途切れない。


 倒れた兵が放置されない。


 戦場全体が、一つの生き物のように動いている。


「高槻宗一郎……」


 義景が呟いた。


「はい」


「あの者は、戦そのものを変えている」


 家臣は答えなかった。


「だが」


 義景は目を開ける。


「だからといって、越前を渡すわけにはいかぬ」


 家臣が頭を下げる。


「次はどうなされますか」


 義景は地図を見る。


 山。


 谷。


 街道。


 そして一乗谷。


「ここで決着をつける」


 その声には、先ほどまでとは違うものがあった。


 迷いではない。


 覚悟だった。


「織田を、一乗谷へ入れるな」


「はっ!」


 だが、その命令を出した直後。


 義景の胸に一つの考えが浮かんだ。


 ――本当に、ここで戦い続けてよいのか。


 戦えば勝てる可能性はある。


 だが、負ければ全てを失う。


 家臣も。


 領地も。


 朝倉の名も。


 それでも――


「……まだだ」


 義景は呟いた。


「まだ終わっておらぬ」


    *


 夕暮れ。


 織田軍は山中に陣を置いた。


 兵たちは疲れている。


 負傷者の手当てが続く。


 鉄砲の火縄を乾かす者。


 弾薬を確認する者。


 壊れた槍を直す者。


 馬に水を与える者。


 戦は終わっても、軍は止まらない。


 宗一郎は負傷者の列を見ていた。


「今日だけで、これだけか」


 半兵衛が答える。


「多いですか?」


「多い」


 宗一郎は即答した。


「でも、もっと多くなると思っていた」


「新しい鉄砲運用が効いています」


「それでも人は死ぬ」


 宗一郎は目を伏せた。


「俺は、戦を短くするために武器を作っている」


「はい」


「なのに、武器が強くなるほど、戦争そのものが大きくなるかもしれない」


 半兵衛は黙っていた。


「矛盾してるよな」


「矛盾ではありません」


 半兵衛が静かに言った。


「矛盾を抱えたままでも、進むしかないのでしょう」


 宗一郎は少しだけ笑った。


「……そうかもしれません」


 その時、伝令が来た。


「高槻様!」


「どうした?」


「朝倉軍、山を越えて後退したとのこと!」


「一乗谷へ?」


「はい」


 宗一郎は地図を見る。


 一乗谷。


 朝倉の本拠。


 そこへ朝倉軍が集まる。


 つまり――


「次が、本番だ」


 半兵衛が頷く。


「ええ」


 宗一郎は柴田と羽柴の陣を見る。


 柴田勝家。


 羽柴秀吉。


 二人とも、今日の戦で大きく傷ついた。


 だが、退く気配はない。


「柴田殿と秀吉殿には、明日の朝まで休ませた方がいい」


「休むと思いますか?」


「無理だろうな」


「そうだな」


 二人は顔を見合わせた。


 そして宗一郎は、遠くの山を見た。


 その向こうに、朝倉の本拠がある。


 一乗谷。


 朝倉義景。


 そして――


 越前という国そのもの。


「次は、もっと大きな戦になる」


 宗一郎は呟いた。


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


「ここからが、本当の決着だ」


 夜の越前に、風が吹いた。


 その風は、一乗谷から織田陣へ向かっていた。


 戦はまだ終わっていない。


 むしろ――


 始まったばかりだった。

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