第三十章 帰還
第三十章 帰還
甲賀を離れて数日。
織田軍の陣へ戻る道を、高槻宗一郎は馬上から眺めていた。
山間の道を抜ければ、やがて近江へ出る。
見慣れた土地。
だが、宗一郎には以前とは違って見えた。
浅井長政は降った。
小谷城は落ちた。
そして、その背後にいた朝倉義景は、まだ越前にいる。
つまり――。
戦は、まだ終わっていない。
「……朝倉、か」
宗一郎が呟く。
隣を進む竹中半兵衛が、静かに答えた。
「そうなりますな」
「史実でも、ここから朝倉は崩れる」
「史実?」
半兵衛がわずかに笑った。
「……いや」
宗一郎は首を振った。
「この世界では、もう史実通りにはならない」
半兵衛は何も言わなかった。
その言葉の意味を、誰よりも理解している。
宗一郎は未来を知っている。
だが、その未来はすでに何度も変わっている。
桶狭間。
金ヶ崎。
姉川。
比叡山。
浅井。
そして今、甲賀。
一つ変えれば、その先も変わる。
「だからこそ、朝倉も油断できない」
「義景殿ですか」
「ああ」
宗一郎は前方を見る。
「朝倉義景は、負け続けているように見える。でも、それだけで無能とは限らない」
半兵衛が目を細めた。
「……ほう」
「朝倉家は、越前を長く支配してきた。国人も寺社も、家臣もいる。土地のことを知っている人間も多い」
「確かに」
「追い詰められれば、義景は必ず何かを考える」
宗一郎はそこで言葉を切った。
「問題は、それが何なのかだ」
半兵衛は微笑んだ。
「だから、甲賀なのですな」
「そういうこと」
宗一郎は懐から小さな紙片を取り出した。
そこには簡単な文字しか書かれていない。
越前。
その下に、
朝倉。
さらに、
一向宗。
そして、
織田。
それだけだった。
まだ情報は少ない。
だからこそ、宗一郎は焦らなかった。
「源八郎から連絡は?」
「まだありません」
「それでいい」
「……よろしいのですか?」
「ああ」
宗一郎は即答した。
「早すぎる報告は、時に危険だ」
半兵衛が黙って宗一郎を見る。
「情報を集める者が、自分の価値を示そうとすると、余計な情報まで送る。そうなると、受け取る側が混乱する」
「事実と推測を分ける」
「そう」
宗一郎は頷いた。
「それに、源八郎には別の仕事も頼んでいる」
「人を探すことですな」
「必要なだけ」
宗一郎はそう言った。
「大勢はいらない」
半兵衛が少し意外そうな顔をする。
「忍びを集めるのでは?」
「違う」
宗一郎は笑った。
「俺が欲しいのは、忍びという肩書じゃない」
「では?」
「目と耳だ」
宗一郎は指を一本立てた。
「越前に一人」
二本目。
「京に一人」
三本目。
「尾張に一人」
そして四本目。
「三河にも、必要なら一人」
半兵衛が頷く。
「各地に散らす、と」
「そう」
宗一郎は続けた。
「一つの場所に十人置いても、その十人が一度に捕まれば終わりだ」
「なるほど」
「でも、一人ずつ別の場所に置けば、誰か一人が捕まっても全部は見えない」
宗一郎は少し考えてから付け加えた。
「しかも、全員に同じ情報を渡さない」
「役割を分ける」
「そういうこと」
これが、宗一郎の考える高槻の情報網だった。
忍びの集団ではない。
軍でもない。
そして、誰か一人の頭領に全てを預けるものでもない。
各地に小さな点を置く。
点と点を直接つなげすぎない。
情報を集める者。
運ぶ者。
確かめる者。
最後に判断する者。
それぞれを分ける。
そして、その中心に立つのは――。
「宗一郎様」
半兵衛が言った。
「何です?」
「その最後の判断をする者は、誰ですかな?」
宗一郎は一瞬だけ黙った。
「今は俺」
「今は?」
「ああ」
宗一郎は前を見た。
「いつかは俺じゃなくても動くようにする」
半兵衛の表情が変わった。
「……そこまで考えておられるのですか」
「俺が死んだら全部終わり、じゃ困るからな」
その言葉に、半兵衛はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「宗一郎殿らしい」
「そうか?」
「ええ」
半兵衛は馬を進めながら答えた。
「天下を取ることより、その後を考えておられる」
宗一郎は苦笑した。
「天下なんて、まだ先だよ」
だが、その目には冗談だけではないものがあった。
---
やがて織田軍の陣が見えてきた。
兵たちの姿。
旗。
馬。
炊煙。
戦場特有の緊張。
宗一郎が戻ってきたことに気づいた兵が、頭を下げる。
「高槻様!」
「お戻りになられたか!」
宗一郎は軽く手を上げて応えた。
そのまま本陣へ向かう。
すると――。
「遅かったな」
声がした。
織田信長だった。
宗一郎は馬を降りる。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない」
信長は宗一郎を見る。
「甲賀はどうであった?」
宗一郎は一瞬、半兵衛を見る。
半兵衛は何も言わない。
「……一人、得ました」
「一人?」
「鵜飼源八郎という男です」
信長の眉がわずかに動いた。
「使えるか」
「まだ分かりません」
宗一郎は正直に答えた。
「だから、使えるかどうかを見るための仕組みを作ります」
「仕組み?」
信長が興味深そうに聞き返す。
「はい」
宗一郎は答えた。
「人を集めるのではなく、必要な場所に必要な人数だけ置く」
「ほう」
「例えば越前に一人」
信長が黙って聞いている。
「京に一人。尾張に一人。三河に一人」
「少なすぎぬか?」
「少ないからいいんです」
宗一郎は答えた。
「十人集めて十人が同じことを知れば、十人のうち一人捕まっただけでも危険です」
「……なるほど」
「でも、別々の場所に一人ずつなら、敵は全体像を掴みにくい」
信長はしばらく考えた。
「面白い」
「それに」
宗一郎は続ける。
「忍びだけに頼るつもりもありません」
「では?」
「商人も使う。寺も使う。宿も使う。船頭も使う」
信長が笑った。
「お前らしいな」
「誰もが情報を持っています」
宗一郎は答えた。
「問題は、その情報が本当かどうかを確かめられるかどうかです」
信長の顔から笑みが消えた。
「……朝倉か」
「はい」
宗一郎も表情を引き締める。
「次は越前です」
本陣の空気が変わった。
信長は地図へ目を向ける。
「義景はどうすると思う?」
宗一郎は地図の越前を見つめた。
「逃げるだけなら、もう終わっています」
「では?」
「戦うでしょう」
「勝てぬと分かっていてもか?」
「朝倉家を残すために」
宗一郎は答えた。
「義景にとっては、越前そのものが最後の砦です」
信長は黙って地図を見つめた。
やがて、指先を越前へ置く。
「ならば、行くか」
「はい」
宗一郎は頷いた。
---
その夜。
高槻の小さな仮陣所。
宗一郎は一枚の紙を前にしていた。
甲賀で決めたことを、簡単に書き留めていく。
越前に一人。
その下に、
京に一人。
さらに、
尾張は一人。
いや、信長様のお側に一人必要か。
そして、
三河、必要なら一人。
まだ名前はない。
まだ顔もない。
それでいい。
急ぐ必要はない。
宗一郎は紙を折った。
その時だった。
外から、足音がした。
「高槻様」
「誰だ?」
「使いです」
宗一郎は扉を開けた。
兵が一通の書状を差し出した。
「越前からです」
宗一郎の目が細くなる。
まだ甲賀から帰ったばかりだというのに。
「誰から?」
「分かりません」
宗一郎は書状を受け取った。
封は簡素だった。
開く。
中には短い一文だけ。
――朝倉、越前にて兵を集め始める。
宗一郎は黙って紙を見る。
そして、裏返した。
何もない。
「……誰が見た?」
兵が答える。
「分かりません」
宗一郎は紙を握りしめた。
「それじゃ情報にならない」
「申し訳ありません」
「いや」
宗一郎は首を振った。
「今のは俺の問題だ」
彼は紙の端に小さく書き込んだ。
事実――朝倉が兵を集めているという報告が届いた。
そして、
推測――越前で織田への抗戦準備が進んでいる可能性。
さらに、
判断――確認が必要。
宗一郎は筆を置いた。
そして最後に、一文字だけ書く。
誰。
甲賀で置いた木札と同じ文字だった。
「……始まったな」
宗一郎は呟いた。
浅井が終わった。
次は朝倉。
そしてその先には――。
まだ誰も見ていない、新しい歴史が待っている。




