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第二十九章 目と耳の仕組み

第二十九章 目と耳の仕組み


甲賀の夜は、静かだった。


静かすぎる、と宗一郎は思った。


山の夜とは、本来もっと騒がしい。


風が木々を揺らし、虫が鳴き、獣が草を踏む。


人の気配が消えることはない。


だが、それらを聞き分ける者にとっては、静けさそのものが情報になる。


「……源八郎」


「はい」


「さっきの男。どう思う?」


小さな灯の前で、鵜飼源八郎が腕を組んだ。


「怪しい、というだけなら簡単です」


「だろうな」


「ですが、あの男自身が本命とは思えませぬ」


宗一郎は顔を上げた。


半兵衛も黙って源八郎を見る。


「理由は?」


「こちらを探っていた者にしては、動きが素直すぎる」


「素直?」


「はい」


源八郎は膝元に置いた木片を指で叩いた。


「こちらが織田の名を出した時、あの男は反応した。ですが、反応を隠そうとする者なら、普通は一度間を置きます」


「……なるほど」


「ところが、あの男はすぐに話題を変えた」


半兵衛が頷いた。


「つまり」


「誰かに命じられて探っている者ではなく、何かを知っている者が、自分の判断で動いている可能性がある」


宗一郎は腕を組んだ。


「その場合、一番厄介だな」


「はい」


源八郎は即答した。


「命令を受けている者なら、命令の元を辿れる。しかし、自分で判断している者は、どこへ繋がっているか分からない」


宗一郎は苦笑した。


「俺が欲しかった情報組織の話をしたばかりなのに、いきなりこっちが調べられる側か」


「それが世の中というものでしょう」


半兵衛が静かに笑った。


「殿。情報を集める者は、必ず誰かに見られます」


「半兵衛」


「はい」


「嫌なことをさらっと言うな」


「事実ですので」


宗一郎はため息をついた。


しかし、笑ってはいられなかった。


自分が情報を集めようとした。


ならば、相手も自分を調べる。


当たり前のことだった。


問題は――


相手が誰なのか。


「源八郎」


「はい」


「今夜から、一つ決まりを作る」


「何でしょう」


「情報を三つに分ける」


源八郎の目が細くなった。


「三つ?」


「事実。推測。判断」


宗一郎は木片を三つ並べた。


「例えば、あの旅人を見た。これは事実」


一つ目。


「織田を探っているように見えた。これは推測」


二つ目。


「危険だから排除する。これは判断」


三つ目。


「この三つをごちゃ混ぜにすると、情報は簡単に間違う」


源八郎は黙って聞いていた。


「俺が一番怖いのは、嘘じゃない」


宗一郎は言った。


「間違った推測を、事実だと思い込むことだ」


半兵衛の表情が変わった。


「……なるほど」


「敵が嘘をつくより、味方が間違える方が怖い」


宗一郎は木片を指で押さえた。


「だから報告するときは、必ず分ける」


源八郎はしばらく考えた。


やがて、


「面白い」


と呟いた。


「何が?」


「忍びの仕事は、見たものを伝えることだと思っておりました」


「違うのか?」


「半分は正しい。しかし、伝え方を誤れば、見たものそのものが消える」


宗一郎は頷いた。


「そういうことだ」


「ならば、これは必要でしょう」


源八郎は木片を拾った。


「そしてもう一つ」


「何だ?」


「誰が見た情報なのかも、残すべきです」


宗一郎が目を見開いた。


「……それだ」


半兵衛が笑った。


「殿より先に、源八郎に気づかれましたな」


「いや、俺も考えてた」


「本当ですか?」


「……今、考えた」


「正直でよろしい」


三人の間に、小さな笑いが起きた。


だが、その笑いの後。


宗一郎は真顔になった。


「情報には、名前を付ける」


「名前を?」


「誰が見たのか。いつ見たのか。どこで見たのか」


宗一郎は木片に簡単な印を刻んだ。


「後から検証できるようにする」


源八郎は、その印をじっと見つめた。


「つまり、情報そのものを管理する」


「そうだ」


「……なるほど」


源八郎の声には、わずかな興奮が混じっていた。


これは単なる忍び働きではない。


宗一郎が作ろうとしているものは、もっと別の何かだった。


一人の人間の腕に頼るのではない。


一人が死んでも、別の者が引き継げる。


一人が裏切っても、全てが崩れない。


情報そのものを残す。


そして、複数の人間が確認する。


源八郎は、そこまで理解し始めていた。


「ですが」


源八郎が言った。


「一つ問題があります」


「何だ?」


「情報を扱う者が増えれば、情報が漏れる」


宗一郎は頷いた。


「だから、全員に全部を知らせない」


「……やはり」


「役割を分ける」


宗一郎は静かに言った。


「見る者」


「伝える者」


「確かめる者」


「そして最後に判断する者」


半兵衛が目を細めた。


「最後の判断は、殿が?」


「今はな」


宗一郎は答えた。


「でも、俺一人に全部を集めるのも危険だ」


「なぜです?」


「俺が死んだら終わる」


源八郎が黙った。


「だから、最終的には俺がいなくても動く仕組みにする」


半兵衛はしばらく宗一郎を見つめた。


そして、静かに言った。


「……殿は、本当に先の世を知っているのですな」


宗一郎の手が止まった。


この言葉を口にできる者は、二人しかいない。


信長。


そして半兵衛。


「そうだ」


宗一郎は小さく答えた。


「俺のいた時代では、情報は国そのものを動かしていた」


「国が、情報を?」


「ああ」


宗一郎は遠くを見るように言った。


「だから知っている」


「何を?」


「情報を制する者が、戦場だけじゃなく、その先の世まで変えることを」


半兵衛はそれ以上聞かなかった。


宗一郎が未来について語る時。


そこにはいつも、言葉にできない重さがある。


「……では」


源八郎が口を開いた。


「まず、何から始めますか」


宗一郎は少し考えた。


「人を増やす」


「すぐに?」


「いや」


宗一郎は首を振った。


「一人ずつだ」


「なぜ?」


「急に増やしたら、誰が誰なのか分からなくなる」


宗一郎は笑った。


「俺たちはまだ、何も知らない」


源八郎も頷いた。


「では、次の者を探します」


「ああ」


「どのような者を?」


宗一郎は少し考えた。


「戦の上手い奴じゃない」


「では?」


「嘘をつくのが上手い奴でもない」


「……難しい注文ですな」


「人を見るのが上手い奴」


宗一郎は答えた。


「人の話を聞いて、違和感に気づける奴だ」


源八郎は頷いた。


「承知しました」


「それから」


宗一郎は付け加えた。


「金で簡単に動かない奴」


「それは難しい」


半兵衛が笑った。


「人は金で動くものです」


「だからこそだ」


宗一郎は真顔になった。


「金で動く奴は、もっと高い金を出す奴に動く」


「……確かに」


「俺が欲しいのは、金よりも守りたいものがある奴だ」


源八郎の表情が変わった。


甲賀を守りたい。


家族を守りたい。


故郷を守りたい。


そういう人間なら、簡単には裏切らない。


宗一郎はそれを理解していた。


「源八郎」


「はい」


「甲賀には、そういう人間がいるか?」


「おります」


即答だった。


「なら、頼む」


「分かりました」


源八郎は立ち上がった。


だが、戸口へ向かう前に振り返った。


「殿」


「何だ?」


「一つだけ」


「うん」


「この組織に、名前は付けますか?」


宗一郎は少し考えた。


「……まだ早い」


「なぜ?」


「名前を持った瞬間、存在するものになる」


源八郎が黙った。


「今は、存在しないくらいでいい」


宗一郎は灯を見つめた。


「敵に知られる必要はない」


半兵衛が小さく笑った。


「殿らしい」


その夜。


宗一郎は一人になってから、木片を机の上に並べた。


事実。


推測。


判断。


そして最後に――


一枚だけ、別の木片を置いた。


そこには一文字だけ。


『誰』


と刻んだ。


誰が見ている。


誰が動いている。


誰が、浅井の嫡男を追っていたのか。


そして。


誰が、自分たちの動きを知っているのか。


宗一郎は灯を消した。


闇の中で、呟く。


「……俺たちだけが、見てるんじゃない」


その頃。


甲賀から遠く離れた場所でも、一人の男が紙を広げていた。


そこには短い報告があった。


――高槻宗一郎。


――甲賀にて鵜飼源八郎と接触。


――情報を扱う仕組みを構築し始める。


男はしばらく紙を見つめていた。


「……ただの商人ではない」


呟きは、夜の闇に消えた。


そして別の紙を取り出す。


その紙には、さらに短い言葉が記されていた。


――高槻宗一郎を、引き続き見よ。


男は紙を畳んだ。


まだ誰も知らない。


この国には、織田とは別に。


高槻とも別に。


すでに長い年月をかけて、世の動きを見続けてきた者たちがいることを。


そして、その者たちもまた。


一人の男が歴史を変え始めていることに、気づき始めていた。


甲賀の夜は、明けようとしていた。

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