第二十七章 甲賀の道
第二十七章 甲賀への道
小谷を離れて数日。
織田軍は、近江の各地に残る浅井方の動きを確かめながら、ゆっくりと次の戦へ備えていた。
戦は終わった。
だが、近江が静かになったわけではない。
敗れた者たちがいる。
逃げた者たちがいる。
降った者たちがいる。
そして。
まだ、戦うことを諦めていない者もいる。
宗一郎は、その現実を眺めながら馬を進めていた。
隣には半兵衛。
少し後ろには、数名の供だけ。
大軍ではない。
むしろ、あえて少人数にしていた。
「本当に甲賀へ行くのですか?」
半兵衛が尋ねる。
「行く」
宗一郎は答えた。
「ただし、忍びを買いに行くわけじゃない」
「では?」
「人を探しに行く」
「同じことでは?」
「違う」
宗一郎は笑った。
「忍びだから雇うんじゃない」
「この先、俺たちが必要とするものを持っている人間だから雇う」
半兵衛は少し考えた。
「忠誠ですか」
「それも必要だ」
「腕?」
「それも」
「口の堅さ?」
「絶対に必要」
「では、何をもって決めるのです?」
宗一郎は少し黙った。
そして。
「自分で考えられること」
半兵衛がこちらを見る。
「命令されたことだけをする人間は、使いやすい」
宗一郎は言った。
「だが、情報を扱う人間には、それだけじゃ足りない」
「なぜ?」
「見たものを、そのまま伝えるだけなら誰でもできる」
宗一郎は前を見た。
「何が重要なのか」
「何がおかしいのか」
「何を確かめるべきなのか」
「そこまで考えられる人間が欲しい」
半兵衛は微笑んだ。
「随分と高望みですな」
「そうか?」
「はい」
「なら、探すしかない」
宗一郎は笑った。
馬が歩みを進める。
やがて。
山道へ入った。
甲賀。
山と谷が複雑に入り組んだ土地。
街道から一歩外れれば、人の姿は簡単に見えなくなる。
宗一郎は周囲を見回した。
「……ここだな」
「何がです?」
「人が隠れるには、最高の土地だ」
半兵衛が苦笑する。
「そこを見て忍びを考えるところが、いかにも宗一郎殿らしい」
「未来の知識だよ」
「それは便利ですな」
二人は進んだ。
しかし。
その時だった。
半兵衛が突然、手綱を引いた。
「止まりましょう」
宗一郎も馬を止める。
「どうした?」
半兵衛は答えない。
ただ、前方を見ている。
「……鳥が鳴いていません」
宗一郎も耳を澄ます。
山は静かだった。
静かすぎる。
「誰かいる?」
「分かりません」
半兵衛が答える。
「だから止まりました」
宗一郎は小さく笑った。
「さすが半兵衛」
その瞬間。
道の脇から声がした。
「そこから先へは、行かぬ方がよい」
宗一郎は馬上から周囲を見る。
誰もいない。
「誰だ?」
返事はない。
「俺は高槻宗一郎」
名乗った。
「織田信長様に仕える者だ」
しばらく沈黙。
やがて。
木の陰から一人の男が姿を現した。
年は三十ほど。
粗末な着物。
腰には刀。
しかし。
刀を抜く気配はない。
男は宗一郎たちを見た。
「何用で甲賀へ?」
「人を探しに来た」
「誰を?」
「まだ分からない」
男の眉が動く。
「妙なことを言われる」
「そうか?」
「探す者の名も知らぬとは」
宗一郎は笑った。
「だから、探しに来た」
男は宗一郎をじっと見た。
「織田の者が、甲賀で何を探す?」
「力だ」
「武士を?」
「違う」
「忍びを?」
宗一郎は少しだけ間を置いた。
「……それも違う」
男の目が細くなる。
「では?」
宗一郎は馬から降りた。
そして。
男に近づく。
「情報を扱える人間だ」
男は黙った。
「戦をするためじゃない」
宗一郎は続けた。
「戦を減らすために必要なんだ」
男の表情が僅かに変わった。
「戦を減らす?」
「天下を取った後も、戦を続ける国にしたくない」
その言葉に。
半兵衛が一瞬だけ宗一郎を見た。
それは。
以前、信長が言った言葉と同じだった。
――戦わずに済む世を作るために、今は戦う。
男は宗一郎を見つめた。
やがて。
「……おかしな男だ」
「よく言われる」
「織田の家臣にしては、妙だ」
「それもよく言われる」
男は小さく笑った。
だが。
次の瞬間。
その笑みは消えた。
「だが」
男が言う。
「甲賀の者は、簡単には主を変えぬ」
「分かっている」
「織田に従えと言われても?」
「言わない」
「では?」
「俺に仕えろ、とも言わない」
男が怪訝そうにする。
宗一郎は続けた。
「まず、話を聞きたい」
「何を?」
「何ができるのか」
「何を考えているのか」
「そして」
宗一郎は男の目を見る。
「何を守りたいのか」
男は黙った。
長い沈黙だった。
やがて。
「……名は」
「宗一郎」
「いや」
男が言った。
「あなたではない」
宗一郎は笑った。
「そうだったな」
男は名乗った。
「鵜飼源八郎」
その名を聞いた瞬間。
半兵衛の目が僅かに変わった。
宗一郎は気づく。
「知っているのか?」
「名前だけは」
半兵衛が答える。
「甲賀には、いくつもの家がある。その中でも鵜飼の名は聞いたことがあります」
源八郎は半兵衛を見る。
「竹中半兵衛……」
今度は宗一郎が驚いた。
「俺のことは知っているのか?」
「近江で知らぬ者の方が少ない」
源八郎は言った。
「稲葉山を落とし」
「姉川で浅井を破り」
「小谷を落とした軍師」
「俺は軍師じゃない」
半兵衛が苦笑する。
「では?」
「ただの織田家臣です」
源八郎は再び宗一郎を見る。
「そして、その隣にいるのが高槻宗一郎」
「そうだ」
「妙な男だ」
「二度目だな」
「商人上がりでありながら、戦を知り」
「薬を作り」
「鉄砲を改良し」
「兵糧を考え」
「今度は忍びを探している」
宗一郎は少しだけ警戒した。
「よく調べているな」
源八郎は答えなかった。
その沈黙だけで。
宗一郎は理解した。
ここにいる者たちは。
自分たちが思っている以上に、外の世界を見ている。
「……なるほど」
宗一郎は呟いた。
「俺が探していたのは、こういう人間だ」
「何?」
「俺たちが何をしているのか、俺たち自身より先に調べる人間」
源八郎の目が細くなる。
「ならば、もう一つ聞こう」
「何だ?」
「あなたは何を恐れている?」
宗一郎は答えなかった。
源之丞。
あの男の姿が頭をよぎった。
織田の陣を見ていた男。
万福丸の情報を持っていた男。
そして。
宗一郎が諜報組織を作ろうとしたことまで、すでに知っていた。
「……見えない敵だ」
宗一郎は言った。
「姿が見えない」
「名前も分からない」
「目的も分からない」
「だが」
宗一郎は源八郎を見る。
「俺たちのことを知っている」
源八郎はしばらく黙っていた。
そして。
「それならば」
静かに言った。
「忍びが一人では足りませぬ」
宗一郎は頷いた。
「俺もそう思っている」
「何人必要だと思われる?」
「分からない」
「十人?」
「分からない」
「百人?」
宗一郎は首を横に振る。
「人数の問題じゃない」
「では?」
「信頼できる人間を少しずつ増やす」
宗一郎は言った。
「そして、その人間たちがさらに人を見つける」
源八郎は黙った。
宗一郎は続ける。
「俺は、巨大な組織を一気に作るつもりはない」
「最初は小さくていい」
「ただし」
宗一郎の声が低くなる。
「俺が死んでも残る仕組みにする」
その言葉に。
半兵衛が振り返った。
「宗一郎殿」
「ん?」
「縁起でもない」
宗一郎は笑った。
「歴史では、どれだけ優れた人間でも死ぬ」
「ならば、人ではなく仕組みを残す」
源八郎は黙って宗一郎を見た。
その目に。
初めて興味が浮かんだ。
「……面白い」
「何が?」
「あなたが、どこまで本気なのか」
源八郎は言った。
「一つ、試してみてもよいか」
「何を?」
「あなたが本当に、情報を欲しているのか」
「どうする?」
源八郎は山道の先を指差した。
「この先に、小さな寺がある」
「そこに?」
「昨日から、見慣れぬ男が一人いる」
半兵衛が反応した。
「見慣れぬ?」
「旅人を装っている」
源八郎は続ける。
「だが、旅人にしては荷が少ない」
「武士か?」
「分からない」
「何者だ?」
「それを調べてほしい」
宗一郎は少し考えた。
「俺たちが?」
「はい」
「俺たちが調べて、何になる?」
「あなた方が情報をどう扱うのかを見る」
宗一郎は笑った。
「なるほど」
半兵衛を見る。
半兵衛も頷いた。
「やってみましょう」
三人は寺へ向かって歩き始めた。
その途中。
宗一郎は気づかなかった。
だが。
山の上。
さらに高い場所から。
別の視線があった。
その者は三人を見ていた。
宗一郎。
半兵衛。
そして。
源八郎。
その男は、懐から小さな紙を取り出した。
そこには。
一行だけ。
――高槻宗一郎、甲賀に入り、鵜飼源八郎と接触。
男は紙を折った。
そして。
別の場所へ向かう。
しかし。
その報告を受け取る者が誰なのか。
まだ。
誰にも分からなかった。
京の帝にも。
織田信長にも。
宗一郎にも。
そして。
源之丞にも。
まだ。
この時点では。




