↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/77

第二十六章 高槻の目

第二十六章 高槻の目


浅井長政が降り、万福丸が織田の手に渡った。


それによって、小谷を巡る戦は終わった。


だが――。


宗一郎には、戦が終わったという感覚がなかった。


むしろ。


何かが始まった。


そんな感覚だけが残っていた。


織田の陣。


夜。


篝火が静かに揺れている。


兵たちの声も、昼間に比べれば随分と少なくなっていた。


戦が終わった直後の夜には、独特の静けさがある。


勝った側にも。


負けた側にも。


疲労と緊張が残っているからだ。


宗一郎は一人、陣の外を眺めていた。


その隣に、半兵衛が立つ。


「……何を考えておられます?」


「情報だよ」


半兵衛が僅かに眉を上げた。


「情報?」


「万福丸の件だ」


宗一郎は小さく息を吐いた。


「おかしいと思わないか?」


「何がでしょう」


「浅井の嫡男が、どうやってあれほど巧みに逃がされたのか」


半兵衛は黙った。


宗一郎は続ける。


「小谷が落ちることを、長政はかなり早い段階で予想していた」


「はい」


「そして、万福丸を城から出した」


「はい」


「だが、ただ逃がしたわけじゃない」


宗一郎は地面に落ちた小石を拾った。


「追っ手を欺くために、途中で人を分けている。行き先も一つに絞られていなかった。しかも、最後には寺へ向かっていた」


「……確かに」


「長政一人で考えたとは思えない」


半兵衛の顔から、柔らかな笑みが消えた。


「誰かが手を貸した、と?」


「そうだ」


宗一郎は頷いた。


「しかも、かなり情報に長けた人間だ」


「浅井の家臣では?」


「可能性はある」


宗一郎は答えた。


「だが、それだけじゃない」


「では?」


宗一郎は夜の闇を見た。


そこには何もない。


少なくとも、目には。


「誰かが見ている」


半兵衛は黙った。


「小谷を」


宗一郎は言った。


「織田を」


そして。


「俺たちを」


風が吹いた。


陣幕が僅かに揺れる。


半兵衛が低い声で尋ねた。


「……源之丞のことですか?」


宗一郎は答えなかった。


その名は、まだ二人の間でも確かなものではない。


ただ。


あの男がいた。


小谷が落ちる前から。


万福丸が織田に保護された後も。


そして――。


あの男は、織田の動きを知っていた。


「半兵衛」


「はい」


「俺には、足りないものがある」


「……何でしょう」


宗一郎は少しだけ笑った。


「目と耳だ」


半兵衛は意味を理解した。


「商人の情報網では、足りませんか」


「足りない」


宗一郎は即答した。


「商人は人のいる場所では強い。宿場、港、町、市場、寺、街道」


「ですが」


「人のいない場所には弱い」


半兵衛が頷く。


「山」


「森」


「城の内側」


「夜道」


「そして――人が隠れている場所」


宗一郎は静かに言った。


「そこを見られる人間が必要だ」


半兵衛はしばらく考えた。


「忍び、ですか」


その言葉を聞いた瞬間。


宗一郎の脳裏に、現代で知っていた歴史が浮かんだ。


伊賀。


甲賀。


雑賀。


根来。


そして。


戦国の闇を動き回った、名も残らぬ者たち。


歴史の教科書に名前が残るのは、大名や武将ばかりだ。


だが。


実際に戦を動かしたのは、そうした表に名前の残らない者たちでもあった。


「……そうだ」


宗一郎は答えた。


「ただし、忍びだけを集めるつもりはない」


「?」


「必要なのは、忍びという名じゃない」


宗一郎は半兵衛を見る。


「情報を集める仕組みだ」


半兵衛の目が細くなる。


「仕組み……」


「一人の人間に頼るな」


宗一郎は指を一本立てた。


「情報を集める者」


二本目。


「伝える者」


三本目。


「確かめる者」


四本目。


「そして最後に、判断する者」


「……なるほど」


「一人の忍びが捕まったら全部が終わる。そんな組織にはしない」


宗一郎は言った。


「互いのことを知らないようにする」


半兵衛がじっと宗一郎を見る。


「随分と恐ろしいことを考えますな」


「未来を知っているからな」


その言葉が落ちた瞬間。


二人の間に沈黙が生まれた。


宗一郎が転生者であること。


それを知っているのは。


信長と半兵衛だけ。


半兵衛は、その秘密を決して軽く扱わない。


「……未来では」


半兵衛が静かに尋ねる。


「そういうものが、ありましたか?」


宗一郎は少しだけ考えた。


「もっと大きなものがあった」


「忍びよりも?」


「ああ」


宗一郎は苦笑する。


「国そのものが情報を集めていた」


半兵衛は目を丸くした。


「国そのもの……」


「だからこそ」


宗一郎は闇を見る。


「この時代でも、情報を制する者が強い」


「武力だけでは天下を取れない」


「そういうことですか」


「そういうことだ」


半兵衛が微笑んだ。


「信長様が聞けば、喜ばれそうですな」


「いや」


宗一郎は首を横に振った。


「信長様にはまだ言わない」


「なぜ?」


「これは俺自身の問題だからだ」


半兵衛は何も言わなかった。


宗一郎は続けた。


「織田家には織田家の目がある」


「俺には俺の目が必要だ」


「高槻屋の商人網とは別に?」


「ああ」


宗一郎は頷いた。


「高槻屋の者たちに、危険な仕事をさせるつもりはない」


その声音は真剣だった。


「商人には商人の仕事がある」


「ならば、誰を?」


「これから探す」


宗一郎はそう言った。


その時だった。


陣の外から、足音が聞こえた。


「高槻様」


織田の兵が一人、近づいてくる。


「何だ?」


「先ほど、陣の外で妙なものが見つかりました」


「妙なもの?」


兵が懐から小さな紙片を出した。


宗一郎が受け取る。


そこには、短い文字が書かれていた。


――織田、浅井嫡男を保護。


宗一郎の表情が変わった。


半兵衛も覗き込む。


「……誰が書いた?」


「分かりませぬ」


「どこに?」


「陣外の木に刺さっておりました」


宗一郎は紙を裏返した。


何もない。


ただの紙だ。


だが。


その意味は重い。


誰かが。


織田軍の動きを見ている。


「兵に聞かれたか?」


「いえ。私が最初に見つけました」


「誰にも言うな」


「はっ」


兵が去る。


宗一郎は紙を握り締めた。


「半兵衛」


「はい」


「始めよう」


「何を?」


宗一郎は闇を見つめた。


「俺の目と耳を作る」


その声には、決意があった。


「織田のためでもある」


「ですが、それだけではない」


「俺たちが作ろうとしている国を守るためだ」


半兵衛は頷いた。


「では、まず誰を探します?」


宗一郎は少し考えた。


そして。


「忍びを探す」


「どこへ?」


宗一郎は答えた。


「甲賀だ」


半兵衛が僅かに目を見開いた。


「近江ですな」


「そうだ」


「まだ浅井の残党がいる土地でもあります」


「だからこそだ」


宗一郎は言った。


「敵を探すのではない」


「使える者を探す」


「……それは難しいですぞ」


「分かっている」


宗一郎は笑った。


「だから、半兵衛に頼みたい」


「私に?」


「人を見る目は、俺よりお前の方が上だ」


半兵衛は苦笑した。


「随分と買われたものですな」


「転生する前から、お前のことは知っていたからな」


「……また、それですか」


二人は笑った。


だが。


笑いは長く続かなかった。


宗一郎は再び闇を見る。


その向こうには。


まだ誰も知らない世界がある。


織田にも。


浅井にも。


そして――。


宗一郎にも。


知らない者たちが蠢いている。


一方。


同じ夜。


織田の陣から遠く離れた場所。


一人の男が、木の陰に立っていた。


源之丞。


彼は小さな紙を懐にしまった。


そして。


別の紙を取り出す。


そこには、先ほどとは違う文字があった。


――高槻宗一郎、情報組織の構築を開始。


源之丞はそれを読み。


僅かに笑った。


「……やはり」


その目には、警戒があった。


「ただの商人ではない」


男は闇へ消えていく。


その頃。


さらに遠く。


京。


朝廷に仕える一人の老人が、灯明の前に座っていた。


誰も、その老人の正体を知らない。


ただ。


古くから朝廷に仕える一族。


代々、帝の側に仕える者たち。


表には名を残さない。


戦場にも立たない。


ただ。


見ている。


老人の前に、一枚の文が置かれた。


そこには。


こう記されていた。


――高槻宗一郎、独自の諜報組織を構築せんとしている。


老人は静かに目を閉じる。


「……また一つ」


歴史が変わった。


帝はまだ知らない。


宗一郎も知らない。


互いが転生者であることを。


ただ。


帝は確信し始めていた。


高槻宗一郎。


この男は。


史実には存在しない。


にもかかわらず。


歴史を変えている。


そして。


その変化がどこへ向かうのか。


帝には、まだ分からなかった。


だからこそ。


帝は、影に命じた。


「見よ」


短い命令だった。


「高槻宗一郎を」


「その者が、何を見ているのか」


「何を知っているのか」


そして。


「何を変えようとしているのか」


影は一礼した。


闇へ消える。


帝は一人、灯明を見つめた。


未来を知る自分。


未来を知らずして、未来を変え始めた宗一郎。


二人の転生者は。


まだ。


互いの存在すら知らない。


だが。


歴史はすでに。


二人の意思によって。


大きく軌道を変え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。