第二十五章 逃げる少年
第二十五章 逃げる少年
夜明け前。
敦賀へ向かう街道には、薄い霧が立ち込めていた。
人影は少ない。
荷を背負った旅人。
朝早くから市へ向かう商人。
そして――。
その中に、三人の姿があった。
二人の男。
その間を歩く、一人の少年。
*
「もう少しだ」
前を歩く男が言った。
少年は黙って頷いた。
疲れていた。
足は痛い。
腹も減っている。
それでも、泣かなかった。
泣けば大人たちが困る。
そんなことを、幼いながら感じ取っていた。
「ねえ」
少年が尋ねる。
「父上は、いつ迎えに来るの?」
男は答えなかった。
「父上は、強いんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、すぐ来る?」
男は足を止めた。
振り返る。
「……殿は、強い方だ」
「なら――」
「だからこそ」
男は静かに言った。
「お前を遠くへ逃がしたのだ」
少年には分からなかった。
父が強いなら、なぜ一緒にいないのか。
父が生きているなら、なぜ会えないのか。
だが、それ以上は聞かなかった。
*
その頃。
織田軍。
探索隊が敦賀へ向けて進んでいた。
先頭にいるのは、滝川一益の配下だった。
「足跡は?」
「こちらです」
地面に残った小さな跡。
大人のものが二つ。
そして――。
小さな足跡が一つ。
滝川の家臣がしゃがみ込む。
「間違いない」
「子供か」
「はい」
報告を受けた滝川は、馬を進めた。
「急げ」
*
宗一郎と半兵衛は、織田の本陣で待っていた。
「見つかるでしょうか」
宗一郎が言う。
半兵衛は地図から目を上げない。
「見つけねばなりません」
「……そうですね」
「ただし」
半兵衛は指を止めた。
「見つけた後の方が難しい」
宗一郎は頷いた。
「分かっています」
「浅井の嫡男として保護すれば、旧臣が寄ってくる」
「かといって、存在そのものを隠し続ければ、別の者が利用する」
「そういうことです」
半兵衛は微笑んだ。
「だから、第三の道が必要です」
*
宗一郎は考えた。
――嫡男を消すのではなく、浅井の「嫡男」という立場を消す。
それができればいい。
だが、名門の血筋というものは、本人の意思とは関係なく価値を持つ。
武士たちは血筋を旗にする。
寺は血筋を保護する。
領主は血筋を利用する。
商人でさえ、血筋を見て商売の相手を決めることがある。
「半兵衛殿」
「はい」
「名前を変えるだけでは足りませんね」
「ええ」
半兵衛が答える。
「生き方そのものを変える必要があります」
*
そこへ信長が入ってきた。
「話は聞いた」
二人が頭を下げる。
信長は地図を見る。
「敦賀まで行ったか」
「はい」
「朝倉の残党に捕まる可能性は?」
半兵衛が答えた。
「ございます」
「織田に捕まるより、そちらの方が危険かもしれません」
信長の顔が険しくなる。
「急がせろ」
「承知しました」
*
しかし。
その頃には、少年たちはすでに敦賀へ入っていた。
男の一人が周囲を見回す。
「ここから先は、別々になります」
もう一人の男が驚く。
「何?」
「私が一人で連れていく」
「それでは危険だ」
「二人で歩けば目立つ」
男は懐から小さな袋を取り出した。
「これを」
「これは?」
「銭です」
「そんなもの――」
「必要になります」
*
少年は二人の男を見ていた。
何が起きているのか分からない。
「ねえ」
少年が言った。
「どこへ行くの?」
男はしゃがんだ。
少年と目線を合わせる。
「寺へ行く」
「お寺?」
「そうだ」
「そこで父上を待つの?」
男は一瞬、答えに詰まった。
「……そうだ」
嘘だった。
だが、少年を安心させるには、それしかなかった。
*
その頃。
織田の探索隊が敦賀へ入った。
「この辺りです」
滝川の家臣が周囲を見回す。
「子供を連れた男を見なかったか」
町人に尋ねる。
「さあ……」
「浅井家の者だ」
その言葉を聞いた町人の顔色が変わった。
「……それなら」
「何だ」
「先ほど、寺の方へ向かった者が」
「子供は?」
「いたような……」
滝川の家臣が振り返る。
「寺へ向かえ!」
*
寺の門が見えた。
少年は、その門を見上げていた。
男は少年の肩に手を置いた。
「ここなら、しばらく大丈夫だ」
「父上は?」
「……」
「いつ来る?」
男は答えられなかった。
そのとき。
遠くから馬の音が聞こえた。
男の顔色が変わる。
「来たか……」
少年が振り返る。
街道の向こう。
織田の旗が見えた。
*
「浅井の嫡男!」
声が響く。
少年が驚いて男を見る。
「浅井……?」
男の顔から血の気が引いた。
「走れ!」
少年の手を取る。
「え?」
「早く!」
だが――。
その前に、別の声が響いた。
「待て!」
男が振り返る。
織田兵が道を塞いでいる。
逃げ道はなかった。
*
「その子を渡せ」
男は少年を抱き寄せた。
「何のことでしょう」
「とぼけるな」
織田兵が近づく。
「浅井長政殿の嫡男であろう」
少年が怯えた。
「父上……?」
その言葉を聞いた瞬間。
男の表情が変わった。
「……そうだ」
「なに?」
「この子は、浅井長政様の子だ」
兵たちが構える。
だが、次の瞬間。
「待て!」
滝川一益の声が響いた。
「刃を抜くな」
兵が止まる。
滝川は馬から降りた。
少年の前まで歩いていく。
「怖がらなくてよい」
少年は震えている。
「お前を殺すために来たのではない」
*
男が尋ねる。
「……ならば、何をする」
「殿の命だ」
滝川は答えた。
「その子を生かせ、と」
男が目を見開く。
「生かす……?」
「そうだ」
滝川は頷く。
「浅井の嫡男としてではない」
「一人の子供としてだ」
少年は、その言葉を聞いていた。
意味は分からない。
ただ――。
殺されない。
その言葉だけは分かった。
*
少年が、小さな声で尋ねた。
「父上は?」
滝川は答えなかった。
代わりに言った。
「お前の父上は、生きている」
少年の顔が明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「会える?」
滝川は少しだけ目を伏せた。
「いつかはな」
その答えに、少年は頷いた。
*
その日の夕刻。
少年は織田の陣へ送られた。
長政が待っていた。
息子の姿を見た瞬間――。
長政の足が止まった。
「……万福丸」
少年も父を見る。
「父上!」
走り出そうとする。
だが、長政は一歩も動かなかった。
動けば、抱きしめてしまう。
抱きしめれば――。
この子を手放せなくなる。
だから、耐えた。
少年が目の前まで来る。
「父上」
長政は、ゆっくり膝をついた。
「……大きくなったな」
「うん」
「怖くなかったか」
少年は首を横に振った。
「父上が生きているって聞いたから」
長政は目を閉じた。
そして、少年の頭に手を置いた。
「そうか」
声が震えた。
「それなら……よかった」
*
信長が少し離れた場所から見ていた。
宗一郎も。
半兵衛も。
誰も口を挟まなかった。
やがて長政が少年から離れた。
そして信長の前へ進み出る。
「殿」
「何だ」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うな」
信長は言った。
「これからだ」
「……はい」
信長は少年を見る。
「この子をどうするかは、まだ決めていない」
長政は頭を下げた。
「お任せいたします」
「本当にそれでいいのか」
「はい」
長政は答えた。
「私の子である前に、この子には生きる道があります」
そして――。
「私は、その道を奪いたくない」
*
宗一郎は、その言葉を聞いていた。
――これでいい。
そう思った。
だが。
問題はまだ終わっていない。
少年は浅井長政の嫡男。
その事実は消えない。
どれだけ本人が望まなくても。
どれだけ長政が浅井再興を否定しても。
誰かが担ぎ上げれば、旗になる。
だからこそ――。
この子の未来を決める必要があった。
「半兵衛殿」
「はい」
「明日、話しましょう」
「何をです?」
宗一郎は少年を見る。
「この子に、どんな名前を与えるか」
半兵衛は静かに頷いた。
「そして――」
宗一郎は続けた。
「どんな人生を与えるか」
*
その夜。
誰も知らない場所で。
一人の男が、織田の陣を遠くから見ていた。
源之丞。
その目は、少年ではなく――。
長政を見ていた。
そして、織田の旗を見た。
「……面白くなった」
男は小さく呟く。
懐から一枚の紙を取り出す。
そこには、たった一行。
――浅井嫡男、織田の手に入る。
男は紙を折った。
そして闇の中へ消えていった。




