第二十四章 嫡男は何処に
第二十四章 嫡男は何処に
「浅井の嫡男を探せ」
信長の命が下った。
それから半刻もしないうちに、織田の陣から幾人もの兵が散っていった。
小谷城。
清水谷。
北近江へ抜ける道。
越前へ向かう街道。
浅井家臣の屋敷。
寺社。
あらゆる場所が探られることになった。
だが――。
*
「妙ですな」
竹中半兵衛が呟いた。
「何がだ?」
宗一郎が尋ねる。
「市様と姫君たちは、城外へ出たことが確認されております」
「そうだな」
「ところが、嫡男については、誰も見ていない」
半兵衛は地図に目を落とした。
「城がこれほど追い詰められているなら、普通は嫡男をどうするか、もっと早く決めるはずです」
「つまり?」
「長政殿は、かなり前から考えていたのでしょう」
宗一郎は黙った。
長政が市と娘たちを逃がした。
それだけではない。
息子についても、何か手を打っていた。
*
「殿」
勝家が戻ってきた。
「城内を改めましたが、嫡男の姿はありません」
「どの程度探した」
「隠し部屋から土蔵まで、すべてです」
「死体は?」
「それらしきものもありません」
信長は黙っている。
「ならば、城外へ出された可能性が高い」
丹羽長秀が言った。
勝家が頷く。
「ただ、誰と共に出たかが分かりませぬ」
信長は目を細めた。
「長政を呼べ」
*
ほどなくして、長政が現れた。
昨日まで敵だった男。
今は織田の監視下にある。
長政は信長の前で頭を下げた。
「お呼びでしょうか」
「嫡男はどこだ」
長政は黙った。
その顔を見て、宗一郎は確信した。
――やはり知っている。
信長も同じことを感じたらしい。
「答えろ」
「……小谷にはおりませぬ」
「それは聞いた」
信長の声が低くなる。
「どこへやった」
長政はしばらく黙っていた。
やがて言った。
「ある者に託しました」
「誰だ」
「名は申し上げられませぬ」
勝家が一歩前へ出る。
「長政!」
だが信長が手で制した。
「よい」
勝家が止まる。
信長は長政を見た。
「なぜ隠す」
「守るためです」
「誰からだ」
長政は一瞬だけ目を伏せた。
「……世の中から」
*
その言葉に、宗一郎は息を呑んだ。
長政は分かっている。
自分の息子が浅井の嫡男である限り、本人にその気がなくても、誰かが担ぎ上げる。
そして担がれた少年は、自分の意思とは関係なく戦場へ送られる。
「私は、あの子を浅井の後継者にはいたしませぬ」
長政が言った。
「ですが、だからといって――」
声が僅かに震える。
「父親として、息子を捨てることもできませぬ」
*
信長は黙っていた。
勝家が言う。
「ならば、なおさら織田の目の届くところに置くべきです」
「分かっております」
長政は答えた。
「だからこそ、見つけていただきたい」
勝家が眉をひそめる。
「何?」
「私はもう、浅井の当主ではない」
長政は静かに言った。
「私があの子を匿えば、浅井再興の疑いを持たれる」
「しかし織田が見つければ――」
「そうです」
長政は頷いた。
「織田の庇護下に置いていただきたい」
*
その言葉に、勝家が黙った。
宗一郎も驚いた。
長政は息子を織田へ差し出そうとしている。
いや――。
正確には違う。
織田に預けようとしている。
自分の手元に置けば、息子は「浅井の嫡男」として見られる。
織田の管理下に置けば、少なくとも「反乱の旗」として利用される可能性は減る。
長政は、自分の子を守るために、自分から手放そうとしているのだ。
*
「長政」
信長が口を開いた。
「お前は、本当にそれでいいのか」
「……はい」
「息子を他人に預けるのだぞ」
長政は苦しそうに笑った。
「私のところに置いておけば、あの子は浅井の子として生きることになります」
「それが悪いのか」
「悪いとは思いませぬ」
長政は答えた。
「ですが――」
一度、言葉を切った。
「私は浅井を終わらせました」
「ならば、あの子まで浅井の終わりに巻き込むわけにはいかぬ」
*
半兵衛が静かに口を開いた。
「殿」
信長が見る。
「一つ、方法がございます」
「言え」
「嫡男を、浅井家の後継者として扱わないことです」
勝家が言う。
「しかし、嫡男であることは変わらぬ」
「だからこそ」
半兵衛は答えた。
「家督を継がせなければよい」
「……」
「浅井の領地を与えない」
「旧臣を付けない」
「兵を持たせない」
「そして、浅井の旗を掲げさせない」
宗一郎が続けた。
「それでも、一人の子として生きることはできる」
半兵衛が頷く。
「その通りです」
*
勝家は腕を組んだ。
「甘すぎぬか?」
「そうでしょうか」
宗一郎が尋ねる。
「もし、その子が成長して浅井再興を望んだら?」
「そのときは、そのときです」
宗一郎は答えた。
「十歳の子供に、まだ起きてもいない反乱の罪を背負わせる必要はありません」
勝家は黙った。
宗一郎は続けた。
「危険なのは、その子自身ではありません」
「周りの者が、その子を旗にすることです」
半兵衛が微笑む。
「ならば、旗にされぬ環境を作ればよい」
*
信長は考えていた。
やがて――。
「決めた」
全員が信長を見る。
「見つける」
「はっ」
「見つけたら、殺すな」
勝家の顔が僅かに動いた。
信長は続けた。
「ただし、浅井の嫡男として扱うな」
「……承知しました」
「俺の許しなく、浅井の旧臣と会わせるな」
「はっ」
「領地も兵も与えぬ」
「はっ」
そして最後に。
「だが、子供として生かせ」
*
その言葉に、長政は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
信長は長政を見る。
「礼を言うな」
「……」
「お前のためではない」
長政は顔を上げた。
「市のためだ」
その一言に、長政は目を伏せた。
「そして――」
信長は続ける。
「子供に親の罪を背負わせるほど、俺は腐っておらん」
*
長政は何も言えなかった。
ただ、深々と頭を下げた。
その肩が小さく震えている。
*
その日の夜。
探索隊の一人が戻ってきた。
「申し上げます!」
信長が振り返る。
「何だ」
「小谷より北へ向かう街道で、浅井家臣と思われる者の足跡を確認しました」
「人数は?」
「大人が二人ほど」
「子供は?」
「……分かりませぬ」
宗一郎が立ち上がった。
「その者たちが向かった先は?」
「敦賀方面へ向かっているように見えます」
半兵衛が地図を見る。
「越前……」
宗一郎も地図に目を落とした。
敦賀。
朝倉領へ続く道。
だが、朝倉はすでに崩れ始めている。
「急ぎましょう」
宗一郎が言った。
「朝倉が崩れれば、あの子を守っている者も行き場を失います」
信長が頷く。
「滝川に追わせろ」
「はっ」
*
一方――。
夜の街道。
月明かりの下を、二人の男と一人の少年が歩いていた。
少年は疲れていた。
それでも、歩き続けている。
「父上は?」
何度目かの問いだった。
前を歩く男は答えない。
「父上は、どこへ行ったの?」
やがて男は足を止めた。
振り返る。
「……生きておられる」
少年の顔に安堵が浮かんだ。
「本当?」
「ああ」
「母上は?」
「市様も、生きておられる」
少年はほっとしたように息を吐いた。
だが、男は続けた。
「だからこそ、お前も生きなければならぬ」
少年は意味が分からない。
「どうして?」
男は答えなかった。
その代わり、懐から一通の文を取り出した。
それには、短い言葉だけが記されていた。
――この子を、浅井の子として死なせるな。
男は文を握りしめる。
そして、少年を見た。
「もう少しだ」
「どこへ行くの?」
男は、遠くに見える灯りを指した。
「人の多いところへ」
「そこで何をするの?」
男はしばらく黙っていた。
「お前を、生かす」
*
その頃。
織田の陣では、信長が地図を見つめていた。
「敦賀へ向かったか」
半兵衛が頷く。
「まだ確証はありません。しかし、可能性は高いかと」
信長はしばらく黙った。
やがて宗一郎を見る。
「宗一郎」
「はい」
「この先、あの子をどうする」
宗一郎は答えた。
「浅井の嫡男ではなく、一人の子供として育てる道を探します」
「できるか?」
「やります」
宗一郎は即答した。
信長は僅かに笑った。
「お前らしい答えだ」
そして、再び地図を見る。
小谷。
敦賀。
越前。
その線を指でなぞる。
「行け」
「はい」
「見つけてこい」
宗一郎は頭を下げた。
*
だが――。
誰もまだ知らなかった。
少年を連れて逃げている男の中に、一人。
織田でも浅井でもない者が混じっていることを。
そして、その男が持つ一通の文が――。
後に、家康の周辺で起きるある出来事へと繋がっていくことを。
その名を――。
源之丞。
この時点では、まだ誰も、その名を知らなかった。




