第二十三章 長政、降る
第二十三章 長政、降る
夜が明ける。
小谷城を包む霧は、まだ山肌に残っていた。
城内には、もう戦の気配が薄れていた。
兵糧は尽きかけている。
援軍は来ない。
朝倉の軍も敗れ、越前へ退いた。
そして何より――。
長政自身が、もう戦い続ける理由を失っていた。
*
「殿」
家臣の一人が声をかけた。
長政は振り返った。
「何だ」
「本当に……降られるのでございますか」
「ああ」
迷いのない返事だった。
「ここまでだ」
家臣は唇を噛んだ。
「しかし、殿が降れば浅井は……」
「もう終わっている」
長政は静かに言った。
「俺が何をしても、この城を守ることはできぬ」
誰も口を挟めなかった。
長政は、しばらく小谷山の麓を見つめていた。
そこには織田の旗が並んでいる。
あの中に、信長がいる。
兄であり――。
自分が裏切った男だ。
そして、その妹、市がいる。
*
長政は目を閉じた。
市から届いた文が、頭から離れない。
責める言葉ではなかった。
恨みでもなかった。
ただ、子供たちのことが書かれていた。
生きてほしい。
父親として、生きてほしい。
その言葉が、長政の胸に残っていた。
自分は何を守ろうとしていたのか。
浅井の名か。
領地か。
家臣か。
武士としての面目か。
それとも――。
「……俺は」
長政が呟く。
「何を守ろうとしていたのだろうな」
誰も答えられなかった。
*
やがて長政は立ち上がった。
甲冑を身につけることはなかった。
刀も持たなかった。
ただ、一人の男として織田の陣へ向かう。
「殿!」
家臣が声を上げる。
長政は振り返った。
「心配するな」
そして、わずかに笑った。
「もう、戦いに行くのではない」
*
織田の陣。
信長は長政が来たという知らせを聞くと、黙って立ち上がった。
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益らも続く。
やがて――。
長政が姿を現した。
武器を持たぬ姿だった。
信長と長政。
二人の視線が交わる。
長い沈黙。
先に頭を下げたのは長政だった。
「降伏を申し上げに参りました」
信長の目は冷たい。
「……そうか」
それだけだった。
長政は顔を上げる。
「私は、戦に負けたから降るのではありませぬ」
勝家が眉を動かした。
長政は続ける。
「市から文を受けました」
信長の表情が僅かに変わった。
「そこに書かれていたことを、何度も考えました」
長政は拳を握った。
「私は、浅井を守ろうとしていた」
「だが――」
声が震えた。
「守るべきものを、間違えていた」
*
長政は深く息を吸う。
「家を守る」
「領地を守る」
「家臣を守る」
「名を守る」
それらを一つずつ口にした。
「そう思っていた」
そして――。
「だが、最も守らねばならぬものを忘れていた」
信長は黙っている。
「子供です」
その言葉が、陣中に落ちた。
「私は父親だった」
長政は言った。
「それを、今になって思い出しました」
*
「私は、市を泣かせた」
「貴方を裏切った」
長政は信長を見る。
「浅井の家を失った責任も、すべて私にあります」
信長の目が鋭くなる。
「それを、死んで償うつもりか」
「……いいえ」
長政は首を横に振った。
「生きて、背負います」
勝家が驚いた顔をした。
長政は続ける。
「死ねば、私一人で終わる」
「だが、生きていれば――」
「裏切った責任を、忘れずに済む」
*
信長は長政を見つめた。
怒りは消えていない。
許したわけでもない。
市を傷つけたことも。
信長を裏切ったことも。
その事実は変わらない。
「俺は、お前を許していない」
「承知しております」
「裏切りは、裏切りだ」
「はい」
「それでも、生きたいというのか」
長政は答えた。
「はい」
「なぜだ」
「子供のためです」
*
そのときだった。
勝家が口を挟んだ。
「殿」
信長が振り返る。
「何だ」
「長政を生かすことには、危険がございます」
長政は黙って聞いている。
「浅井の旧臣が残っております」
丹羽が続けた。
「長政殿を旗にして、再び兵を集める者が出る可能性も」
滝川も頷く。
「生かすなら、それなりの処置が必要でしょう」
長政は三人を見た。
そして、静かに言った。
「私は浅井の旗を捨てます」
*
勝家が目を細める。
「口だけでは?」
「ならば誓います」
長政は答えた。
「浅井の再興を求めぬ」
「旧臣を集めぬ」
「兵を集めぬ」
「領地を求めぬ」
「浅井の旗を掲げぬ」
一つずつ、言葉にした。
「私は、もう浅井を背負うつもりはない」
そして――。
「ただの一人の男として、生きます」
*
宗一郎は長政を見ていた。
これは、武将としての降伏ではない。
家を守るための降伏でもない。
一人の父親が、生きることを選んだのだ。
宗一郎は静かに口を開いた。
「殿」
「何だ」
「長政殿を生かすことと、浅井家を残すことは同じではありません」
勝家が見る。
「どういう意味だ」
「長政殿が浅井再興を捨てるなら、長政殿自身を生かすことは可能です」
竹中半兵衛も頷いた。
「むしろ、生かす価値はあるでしょう」
「何?」
「越前、若狭、北近江」
半兵衛は淡々と言った。
「長政殿しか知らぬことも多い」
長政は黙っている。
「戦が終わった後に、その知識は役に立ちます」
*
信長は長く沈黙した。
やがて――。
「長政」
「はっ」
「生きろ」
長政が顔を上げた。
「ただし、勝手に死ぬな」
「……」
「俺が許すまで、勝手に死ぬことは許さん」
長政の目が僅かに潤んだ。
「承知しました」
信長は続ける。
「そして、子らに恥じぬ父親になれ」
長政は深く頭を下げた。
「……はい」
*
その日の夕刻。
長政は織田の監視下に置かれることとなった。
浅井の家は終わる。
だが、長政の命は終わらない。
そして――。
まだ一つ。
決着していない問題が残っていた。
*
陣幕の中。
信長が書状を眺めていると、勝家が戻ってきた。
「殿」
「何だ」
勝家は一瞬、言葉を選んだ。
「……浅井の嫡男についてです」
信長が顔を上げる。
「嫡男?」
「はい」
一同の間に、沈黙が落ちた。
長政が降ったこととは、別の問題だった。
長政は浅井再興を捨てた。
ならば、嫡男を巡って長政を疑う必要はない。
だが――。
その少年が生きている限り、別の問題が生じる。
誰かが、その少年を「浅井の旗」にするかもしれない。
信長の目が細くなった。
「……どこにいる」
誰も答えられなかった。
*
宗一郎は、静かに息を吐いた。
史実では――。
ここから先、その少年には過酷な運命が待っている。
だが。
この世界では、まだ決まっていない。
長政は生きることを選んだ。
ならば、その子も――。
生きる道を与えられるのではないか。
宗一郎は、そう思った。
そして半兵衛も、同じことを考えているようだった。
「殿」
半兵衛が言う。
「まず、探しましょう」
信長が頷く。
「そうだ」
そして、短く命じた。
「浅井の嫡男を探せ」
この瞬間――。
小谷城の戦いは、終わりを迎えようとしていた。
しかし。
一人の少年の命を巡る、もう一つの戦いが始まろうとしていた。




