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第二十二章 小谷、最後の夜

小谷の夜は、静かだった。


静かすぎるほどに。


昼間まで響いていた銃声も、怒号もない。


山の麓に連なる織田の陣では、無数の篝火が揺れている。


小谷山を囲むように並ぶそれらの火は、まるで逃げ道を一つずつ塞いでいくようだった。


城兵たちは知っている。


明日になれば、織田は動く。


そして、その時にはもう、小谷を守る戦ではなくなる。


浅井という家そのものの命運を決める戦になる。


*


本丸。


浅井長政は、一人で廊に座っていた。


刀は脇に置いてある。


だが、抜く気にはなれなかった。


月明かりの下、小谷山の向こうを見つめる。


あの先に、織田信長がいる。


かつて義兄と呼んだ男。


市の兄。


そして、自分が裏切った男。


長政は目を閉じた。


浮かんだのは、市の顔だった。


次に、娘たち。


そして――


息子。


幼い顔が浮かぶ。


「……」


長政は目を開けた。


あの子だけは。


この戦に巻き込みたくなかった。


浅井の嫡男として生まれた。


それだけで、すでに背負わされている。


浅井家。


浅井の旗。


父の罪。


家臣たちの期待。


そして、織田にとっての脅威。


長政は拳を握った。


「……父親というものは」


誰もいない闇へ呟く。


「子に何を残せばよいのだ」


答える者はいなかった。


*


その時だった。


「殿」


襖の向こうから声がした。


「何だ」


「織田より使者が参っております」


長政の目が細くなる。


「使者?」


「はい」


「……通せ」


やがて、織田の使者が本丸へ入ってきた。


敵陣から来た者とは思えぬほど、落ち着いている。


使者は深々と頭を下げた。


「織田信長様より、申し上げます」


長政は黙っている。


「これ以上の戦は無益である、と」


家臣たちがざわめいた。


使者は続ける。


「降伏するならば、長政殿の命について、信長様は考えるおつもりにございます」


「……命を、か」


長政が呟く。


使者は頷いた。


「はい」


「俺を許すというのか」


「そのようなことまでは、申されておりませぬ」


長政の口元がわずかに動いた。


「そうだろうな」


使者は懐から一通の文を取り出した。


「そして、こちらを」


長政が見る。


「市様からでございます」


その瞬間。


長政の表情が変わった。


「……市が」


「はい」


使者は文を差し出した。


長政はすぐには受け取らなかった。


しばらくして、ようやく手を伸ばす。


指先が震えていた。


封を切る。


文は短かった。


長政は読み始める。


そして――


途中で、一度目を閉じた。


*


そこには、市の言葉が並んでいた。


長政の罪を許してほしいとは書いていない。


浅井家を残してほしいとも書いていない。


武将として生き延びてほしいとも書いていない。


ただ。


子供たちの父として、生きてほしい。


そう書かれていた。


――私は、信長様にお願いしました。


――あなたの命だけでも、お助けください、と。


長政の指が止まる。


――私は、あなたが正しかったとは思いません。


――あなたがしたことを、忘れられるとも思いません。


長政は静かに読み進める。


――けれど。


――あの子たちにとって、あなたは父です。


――浅井の当主である前に。


――私の夫である前に。


――あの子たちの父です。


長政の目が伏せられた。


――もし戦を終えることができるのなら。


――浅井の名を捨てても構いません。


――武士としての誇りを捨てても構いません。


――どこかで、ひっそりと暮らしてください。


――市井の者として。


――ただの父として。


最後の一文だけ、筆が少し乱れていた。


――子供たちが、父上と呼べる人として生きてください。


長政は文を閉じた。


*


「……殿」


家臣の一人が声を掛ける。


長政は答えなかった。


「殿?」


「……黙れ」


低い声だった。


誰もそれ以上、何も言えない。


長政は文を握ったまま、俯いている。


「市は……」


しばらくして、ようやく声が出た。


「市は、俺に武士を捨てろと言っているのか」


誰も答えない。


「浅井を捨てろ、と」


長政は自嘲するように笑った。


「……そうか」


だが。


その笑いは長く続かなかった。


「いや」


長政は文を見た。


「違うな」


市が言っているのは。


捨てろ、ではない。


生きろ。


ただ、それだけだ。


*


「殿!」


一人の若い武将が立ち上がった。


「まさか、織田へ降るなどとはお考えではありますまいな!」


長政は顔を上げた。


「まだ、何も決めておらぬ」


「しかし!」


「座れ」


「殿!」


「座れと言った」


若武者は歯を食いしばりながら座った。


別の家臣が口を開く。


「織田は我らを滅ぼすつもりでございます」


「分かっている」


「ならば、最後まで戦うべきです!」


「そう思う者は、戦えばよい」


「殿!」


「俺は止めぬ」


長政は静かに言った。


「だが」


家臣たちを見る。


「お前たちまで、俺のために死ぬ必要はない」


室内が静まり返った。


「浅井のために死ぬ」


誰かが言った。


「それが武士の務めにございましょう」


長政は首を振った。


「違う」


「では何が」


「生きることもまた、武士の務めだ」


誰も言葉を返せなかった。


*


長政は立ち上がり、外を見る。


「市は……」


呟く。


「俺に、子供たちの父として生きろと言った」


その言葉を、自分自身に言い聞かせるように繰り返す。


「父として……」


長政の脳裏に、息子の姿が浮かぶ。


幼い手。


幼い声。


「父上」


あの声を、もう一度聞けるのか。


長政は目を閉じた。


だが。


その時。


一人の重臣が口を開いた。


「殿」


「何だ」


「……嫡男のことは」


長政の目が開いた。


空気が変わった。


「その話はするな」


「しかし――」


「今は、まだだ」


長政はそれだけ言った。


重臣は深く頭を下げた。


だが、長政の胸の中には、その言葉が重く残った。


嫡男。


浅井の血を継ぐ者。


もし自分が降れば。


あの子はどうなる。


*


長政は知っていた。


あの子は、もう小谷にはいない。


落城が近づく前に、密かに城外へ出した。


誰にも詳しい行き先を知らせてはいない。


知っている者も、ごく僅かだ。


それだけが、今の長政に残された希望だった。


「……生きていろ」


長政は暗闇へ向かって呟いた。


「俺がどうなろうとも」


それ以上は言わなかった。


*


その頃、織田本陣。


信長の前には、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益らがいた。


そして宗一郎と竹中半兵衛もいる。


「長政から返事は?」


勝家が問う。


使者が答える。


「まだにございます」


勝家は鼻を鳴らした。


「当然でしょう」


滝川が腕を組む。


「ここまで戦った男が、今さら降るとは思えませぬ」


丹羽も黙って頷いた。


信長は何も言わない。


宗一郎が静かに口を開いた。


「市様の文は、渡しました」


勝家が宗一郎を見る。


「だから何だ」


「長政殿の心は、揺れるでしょう」


「揺れたところで裏切り者は裏切り者だ」


勝家の声には怒りがあった。


「殿。長政を生かすなど、私は反対です」


信長が勝家を見る。


「理由は」


「一度裏切った者は、二度裏切ります」


勝家は即答した。


「まして浅井の血筋が残れば、後々の禍根となりましょう」


滝川も言う。


「北近江の者が再び浅井を担ぐ可能性もございます」


丹羽が続ける。


「今ここで根を絶つべきかと」


宗一郎は黙って聞いていた。


半兵衛も口を挟まない。


やがて信長が言った。


「……お前たちは、長政を殺せと言うのだな」


「はい」


三人が答えた。


信長はしばらく黙っていた。


「俺はまだ、そう決めてはいない」


勝家が眉をひそめる。


「殿!」


「市が願った」


その一言で、全員が黙った。


「市は、長政を許せとは言わなかった」


信長は続ける。


「ただ、命だけはと願った」


勝家はなおも納得しない。


「しかし――」


「分かっている」


信長は勝家の言葉を遮った。


「俺も長政を許してはいない」


*


宗一郎は信長の横顔を見る。


その目には、怒りがある。


だが。


それとは別のものもあった。


「長政が明日、何を選ぶか」


信長は小谷を見た。


「それを見てから決める」


半兵衛が初めて口を開いた。


「賢明かと」


勝家が振り返る。


「半兵衛、お前も長政を生かせと言うのか」


「私は、まだ何も申しておりません」


半兵衛は静かに笑った。


「ただ、人は追い詰められた時に、本当の選択をするものです」


「選択?」


「武士として死ぬのか」


半兵衛は小谷を見る。


「それとも――」


一拍。


「父として生きるのか」


誰も口を開かなかった。


*


夜が更ける。


小谷では、まだ明かりが消えない。


長政は一人、最後にもう一度、市の文を開いた。


何度読んでも。


最後の一文だけが、胸に残った。


――子供たちが、父上と呼べる人として生きてください。


長政は文を畳む。


そして懐にしまった。


「……明日」


小さく呟く。


「信長に会おう」


降るとは、まだ言わなかった。


戦うとも、言わなかった。


ただ。


明日、自分自身の口で答えを出す。


長政は夜空を見上げた。


「市……」


その声は、誰にも届かなかった。


「俺は……どうすればいい」


答えはない。


だが。


長政の中で、確かに何かが変わり始めていた。


浅井長政として死ぬこと。


それだけが道ではない。


初めて。


そう思った。


小谷の最後の夜は、静かに過ぎていった。

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