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第二十一章 小谷の亀裂

第二十一章 小谷の亀裂


「降る者には、命を助ける」


その言葉は。


小谷城の中を、静かに広がっていった。


誰かが大声で叫んだわけではない。


武将が触れ回ったわけでもない。


ただ。


一人が聞き。


二人が聞き。


やがて。


城内の誰もが知るところとなった。


「織田が、降伏を許すそうだ」


「本当にか?」


「ああ」


「ならば……」


そこで言葉が止まる。


誰も。


「降りたい」


とは言えなかった。


まだ。


浅井長政がいる。


*


長政は、その話を聞いていた。


「……そうか」


それだけだった。


家臣が尋ねる。


「殿は、どうなされますか」


長政はしばらく黙っていた。


「どうするも何もない」


「しかし」


「俺が決めることではない」


長政は家臣を見る。


「お前たちの命は、お前たちのものだ」


「殿……」


「俺の戦に付き合って死ぬ必要はない」


その言葉に。


家臣は唇を噛んだ。


「ですが、殿を残して城を出れば……」


「俺を裏切ったことになるか?」


長政は静かに尋ねた。


家臣は答えられない。


「違う」


長政が言った。


「生きることは、裏切りではない」


それは。


以前、市に向けて言った言葉と同じだった。


長政は。


ようやく理解していた。


人を守るということは。


必ずしも。


自分と同じ道を歩ませることではない。


*


その日の夜。


城内の一角で。


一人の家臣が荷をまとめていた。


妻子のためだった。


「本当に行くのか」


友が尋ねる。


「……ああ」


「殿を置いて?」


「置いていくのではない」


男は答えた。


「殿が行けと言われた」


「だが」


「俺にも家族がいる」


その声が震える。


「子供を、俺の意地のために死なせるわけにはいかん」


友は黙った。


やがて。


「……分かった」


男は頭を下げた。


「すまぬ」


「謝るな」


友は肩を叩いた。


「生きろ」


それは。


長政が言った言葉でもあった。


*


一人。


また一人。


小谷を離れる者が出始めた。


しかし。


織田軍は、それを無闇に追わなかった。


降伏の意思を示した者には。


それぞれの事情を聞き。


武器を置かせ。


命を取らない。


その噂が。


さらに城内へ広がった。


「本当に殺されないらしい」


「女子供も?」


「そうらしい」


「ならば……」


また。


迷いが生まれる。


長政は。


それを止めなかった。


*


「殿」


重臣の一人が長政の前に座った。


「城内の兵が減っております」


「知っている」


「このままでは……」


「分かっている」


長政は窓の外を見た。


織田の篝火。


その数は。


以前とは比べものにならない。


「朝倉は?」


「まだ動きはありません」


長政は頷いた。


「そうか」


それ以上。


聞かなかった。


朝倉義景が再び兵を送ってくる可能性。


それが低いことは。


長政自身にも分かっていた。


*


一方。


織田軍本陣。


宗一郎は報告書を読み終えた。


「……城内から出る者が増えています」


半兵衛が頷く。


「当然でしょう」


「当然?」


「戦は兵が戦うだけではありません」


半兵衛は言った。


「心が先に折れれば、城は持ちません」


宗一郎は小谷を見た。


「でも、長政はまだ戦う」


「ええ」


「なぜでしょう」


半兵衛は少し考えた。


「長政殿は、勝つために戦っているのではないのかもしれません」


「では?」


「自分が選んだ道を、自分自身で終わらせるため」


宗一郎は黙った。


その言葉が。


妙に胸に残った。


*


その頃。


信長のもとへ。


一通の報せが届いた。


「浅井家臣の一部が、織田への降伏を申し出ております」


信長は書状を見る。


「そうか」


「いかがいたしましょう」


「受けよ」


即答だった。


柴田勝家が尋ねる。


「浅井の家臣を、そのまま助けるので?」


「助ける」


信長は言った。


「戦が終われば、必要なのは敵を増やすことではない」


勝家が頷く。


「承知しました」


信長は再び小谷を見る。


「長政だけは別だ」


宗一郎は黙って聞いていた。


信長の声には。


まだ怒りがあった。


だが。


以前のような激情ではない。


すでに。


信長の中で。


長政をどう処するかという答えは。


ほとんど決まっているように見えた。


*


その夜。


小谷城。


長政のもとへ。


最後まで残っていた重臣たちが集まった。


「殿」


「何だ」


「我らは」


一人が言葉を選んだ。


「最後までお供いたします」


長政は顔を上げた。


「……そうか」


「はい」


「死ぬぞ」


「承知しております」


「家族はどうする」


「すでに城外へ」


長政はしばらくその男を見つめた。


そして。


小さく笑った。


「そうか」


「殿?」


「それならば、よい」


長政は立ち上がった。


「お前たちは、最後まで俺の家臣だ」


男が深く頭を下げる。


「ありがたきお言葉」


「だが」


長政は続けた。


「最後の最後まで、無駄に死ぬな」


「……はい」


*


夜が更けた。


長政は一人で廊下を歩いた。


小谷城。


幼い頃から見てきた場所。


父の姿。


母の声。


家臣たちの笑い声。


そして。


市と過ごした日々。


すべてが。


この山に残っている。


長政は足を止めた。


「……終わるのか」


誰も答えない。


それでも。


長政には分かっていた。


浅井家が。


このままの形で残ることはない。


だが。


それならば。


最後に一つだけ。


守らなければならないものがある。


市。


そして。


子供たち。


*


翌日。


織田軍では。


小谷への攻撃準備が進んでいた。


しかし。


信長はすぐに総攻撃を命じなかった。


「まだ待つ」


「殿?」


勝家が尋ねる。


「城内が動いている」


「……なるほど」


「こちらから無理に押し込む必要はない」


信長は言った。


「中から門が開けば、それでよい」


宗一郎は小谷を見上げた。


その時。


山の中腹に。


一つの火が灯った。


次いで。


少し離れた場所に。


また一つ。


「……合図でしょうか」


宗一郎が言う。


半兵衛が目を細めた。


「まだ分かりません」


さらに。


三つ目の火が灯る。


信長が立ち上がった。


「見張れ」


「はっ」


「だが、まだ動くな」


*


小谷城。


その同じ時刻。


一人の男が長政の前に跪いていた。


「殿」


「申せ」


「城内の一部が」


男は声を落とした。


「織田へ通じようとしております」


長政は目を閉じた。


ついに。


その時が来た。


「誰だ」


男は名を告げた。


長政は驚かなかった。


むしろ。


どこか寂しそうに笑った。


「……そうか」


「殿、処分を」


「必要ない」


「しかし!」


「もうよい」


長政は首を横に振る。


「その者も、生きたかったのだろう」


「……」


「俺には、それを責める資格はない」


男は俯いた。


「殿……」


長政は窓の外を見る。


織田の陣。


そして。


小谷山を覆う無数の篝火。


「市は」


突然。


長政が言った。


「もう、安全なところにいるだろうか」


「おそらく」


「そうか」


それだけで。


長政の顔が少しだけ和らいだ。


*


その頃。


織田の陣。


市は。


遠く小谷を見つめていた。


「まだ……」


市が呟く。


「まだ、あそこにいる」


宗一郎は答えなかった。


「高槻殿」


「はい」


「兄上は……」


市は言葉を止めた。


宗一郎は静かに答える。


「信長様は、長政様を許してはいません」


市の目が伏せられる。


「ですが」


宗一郎は続けた。


「市様や姫君たちまで巻き込むつもりもありません」


「……はい」


市は小谷を見る。


「長政さまは……」


その先の言葉が。


出てこなかった。


*


小谷山。


夜が明けようとしていた。


浅井家の旗は。


まだ立っている。


だが。


城内では。


すでにいくつもの心が。


それぞれの道を選び始めていた。


戦う者。


降る者。


逃げる者。


そして。


最後まで長政に従う者。


一つだった浅井家が。


少しずつ。


別々の道へ分かれていく。


長政は。


それを止めなかった。


止めることができなかった。


いや。


止めようとはしなかった。


なぜなら。


市を逃がしたあの日。


すでに。


自分の死と。


浅井家の終わりを。


どこかで受け入れていたからだ。


それでも。


最後の一日までは。


浅井長政として生きる。


小谷の旗を。


自ら降ろすことだけはしない。


その覚悟だけが。


まだ残っていた。


そして。


織田軍の包囲は。


ついに。


小谷城の最後の防衛線へと迫っていた。

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