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第二十章 崩れゆく城

第二十章 崩れゆく城


小谷山を取り囲む織田の旗は。


日を追うごとに増えていった。


山麓。


街道。


谷。


そして、城を見下ろす高所。


織田軍は、ただ兵を並べているのではなかった。


逃げ道を塞ぐ。


兵糧の流れを断つ。


城外との連絡を絶つ。


そして。


浅井が動けば、その動きを見逃さない。


「まるで、蛇だな」


小谷を見上げながら、宗一郎が呟いた。


半兵衛が笑う。


「蛇?」


「締め上げているのに、急いで殺そうとはしない」


「なるほど」


半兵衛は小谷山を見た。


「信長様は、城そのものよりも」


一呼吸置いて。


「中にいる人間を見ているのでしょう」


宗一郎は黙った。


その意味は分かっていた。


信長が欲しいのは。


小谷山そのものではない。


浅井長政をどう処するか。


そして。


この戦をどう終わらせるか。


それが重要なのだ。


*


小谷城。


「兵糧は?」


「残りは、そう多くありません」


「何日持つ」


「節約すれば……」


家臣が言葉を濁す。


長政はそれ以上聞かなかった。


数字を聞けば。


現実が重くなるだけだ。


「朝倉からの使者は?」


「ありません」


「援軍は?」


「……」


答えはなかった。


長政は目を伏せた。


朝倉義景は。


もう北へ退いた。


追撃を受けながら。


越前へ向かっている。


小谷を救うために来た軍は。


小谷を残して去っていった。


長政は、それを責めることができなかった。


朝倉にも朝倉の事情がある。


だが。


浅井には。


浅井の事情がある。


「……皆を集めよ」


「はっ」


*


重臣たちが集まった。


誰もが疲れていた。


顔には不安が浮かんでいる。


長政は皆を見渡した。


「朝倉の援軍は去った」


誰も口を開かない。


「織田は再び小谷を囲んだ」


それも。


皆、分かっている。


「この先」


長政はゆっくりと言った。


「長くは持たぬ」


ざわめきが起きた。


「殿!」


「まだ戦えます!」


「そうだ!」


若い家臣が声を上げる。


だが。


別の重臣が静かに言った。


「戦える兵はおります」


全員がそちらを見る。


「しかし、兵糧が続きませぬ」


沈黙。


「援軍も望めぬ」


さらに沈黙。


「ならば」


その男は言った。


「何を守るために戦うのか」


誰も答えなかった。


長政は目を閉じる。


その問いは。


すでに自分自身へ何度も投げかけていた。


何を守る。


浅井の領地か。


家名か。


家臣か。


それとも。


自分の意地か。


そして。


長政の胸に浮かんだのは。


市の顔だった。


泣きながら去っていった妻。


その腕に抱かれていた娘たち。


「……家臣たちよ」


長政は口を開いた。


「俺は、お前たちに死ねとは言わぬ」


ざわめきが止まる。


「殿……」


「この戦は、俺が選んだ」


長政は言った。


「ならば、その責任は俺が取る」


重臣の一人が立ち上がる。


「しかし!」


「黙れ」


長政の声が響いた。


「これは命令ではない」


皆を見る。


「それぞれが、自分で決めよ」


「……」


「浅井に残るか」


長政は言った。


「城を出るか」


「殿!」


「家族を守りたい者を、俺は臆病者とは呼ばぬ」


その言葉に。


誰も何も言えなかった。


長政は続けた。


「俺と共に最後まで戦う者は、最後まで戦えばよい」


「……」


「だが」


長政の声が少しだけ低くなる。


「生き残れる者まで、死ぬ必要はない」


その言葉は。


家臣たちの心に深く刺さった。


*


会議が終わった。


家臣たちは、それぞれの部屋へ戻っていく。


だが。


誰もすぐには眠れなかった。


「殿は……我らを逃がすつもりなのか」


「そうなのだろう」


「だが、城を出れば浅井家はどうなる」


「……分からぬ」


一人が呟く。


「殿は、もう勝敗を見ている」


別の者が首を振った。


「違う」


「では何だ」


「殿は、我らが死ぬことを望んでいない」


沈黙。


そこには。


長政への忠義と。


家族への情。


二つが入り混じっていた。


*


一方。


織田軍。


信長は小谷山を眺めていた。


「動きが変わったな」


宗一郎が振り向く。


「分かりますか」


「分かる」


信長は答えた。


「城の中で、何か起きている」


半兵衛が口を開いた。


「兵の動きが以前より少ない」


「そうだ」


「それに」


宗一郎が続ける。


「城外へ出てくる者も減っています」


信長は頷いた。


「追い詰められている」


そして。


しばらく小谷を見つめた。


「だが、長政はまだ降らぬ」


宗一郎は尋ねた。


「どうされますか」


「待つ」


「攻めないのですか?」


信長が笑った。


「攻める」


「では……」


「だが」


信長は続ける。


「急いで落とす必要はない」


*


その日の夕刻。


織田軍の一角から。


一本の矢が小谷城へ放たれた。


矢には文が結びつけられていた。


浅井家臣の一人が拾う。


「これは……」


文を開く。


そこには。


降伏を促す言葉が書かれていた。


長政の元へ届けられる。


長政は文を読んだ。


そして。


火にくべた。


「殿」


「返事は?」


「必要ない」


長政は言った。


「信長に伝えよ」


「何と?」


長政はしばらく考え。


静かに言った。


「俺は、まだここにいる」


使者は頭を下げた。


*


その夜。


市は織田軍の陣で眠れずにいた。


小谷から遠く離れている。


それでも。


山の向こうにいる夫を思わずにはいられない。


「兄上……」


信長が振り返る。


「何だ」


「長政さまは……」


市は言葉を詰まらせた。


信長は答えなかった。


市も。


それ以上聞かなかった。


だが。


信長は妹の背中を見つめながら思った。


長政は。


おそらく。


もう逃げるつもりはない。


「市」


「はい」


「長政は、自分の道を選んだ」


市は俯いた。


「……はい」


「お前は、お前の道を生きろ」


市は涙を拭った。


「でも……」


信長は静かに言った。


「生きることは、裏切りではない」


市が顔を上げる。


「……兄上」


「お前が生きることを、俺は許す」


市は何も言えなかった。


ただ。


静かに頭を下げた。


*


数日が過ぎた。


小谷城の兵糧は減っていく。


織田軍の包囲は強くなる。


城外との連絡は。


ほとんど途絶えた。


そして。


浅井家臣の中には。


密かに城を出る者が現れ始めた。


一人。


また一人。


夜陰に紛れて。


山を下る。


それを知った長政は。


止めなかった。


「殿、逃亡者が……」


「追うな」


「しかし!」


「追うな」


長政は繰り返した。


「生きたい者を、死なせるな」


その言葉を聞いた家臣は。


深く頭を下げた。


「……承知しました」


*


しかし。


すべての者が逃げられるわけではない。


浅井の旗を最後まで守ろうとする者もいる。


長政の側に残る者もいる。


そして。


その中には。


「殿と最後まで」


そう決めた者もいた。


長政は一人一人の顔を見た。


「……すまぬ」


「何を申されます」


「俺の戦に付き合わせた」


家臣は笑った。


「浅井家臣であることを恥じたことはありません」


長政は目を伏せた。


「そうか」


それだけだった。


*


小谷山の麓。


織田軍では。


新たな命令が下されていた。


「城をさらに締める」


信長の命令。


兵が動く。


陣が前へ出る。


道が塞がれる。


そして。


小谷山を囲む輪が。


また一つ。


狭くなった。


宗一郎は山を見上げた。


「信長様」


「何だ」


「もうすぐですね」


信長は答えなかった。


ただ。


小谷山を見つめていた。


そこには。


浅井長政がいる。


かつて妹を託した男。


信長が。


最も許せない裏切りをした男。


だが。


その男には。


市と子供たちを生かすという選択だけは残されている。


信長は静かに言った。


「長政」


風が吹いた。


小谷山の旗が揺れる。


「最後まで意地を張るなら」


信長は目を細めた。


「俺も最後まで相手をしてやる」


*


その夜。


小谷城の本丸近く。


長政は一人で酒を飲んでいた。


杯を置く。


そして。


懐から、小さな布を取り出した。


そこには。


市から渡されたものがあった。


長政はそれを握りしめる。


「市……」


もう。


声を聞くことはできない。


顔を見ることもできない。


それでも。


市が生きている。


娘たちも生きている。


それだけでよかった。


「生きろ」


誰もいない夜に。


長政は呟いた。


「俺のことなど、忘れてよい」


だが。


その言葉を口にした瞬間。


胸の奥が痛んだ。


忘れてほしいわけではない。


ただ。


自分の死に縛られてほしくない。


長政は小谷山の夜空を見上げた。


「……幸せになれ」


それが。


夫として最後に願えることだった。


*


翌朝。


織田軍から。


再び使者が立った。


今度は。


単なる降伏勧告ではなかった。


浅井家臣たちに向けた。


「降る者には命を助ける」


その言葉が。


城内へ伝わった。


小谷の中で。


再び動揺が走った。


長政はそれを聞いた。


そして。


何も言わなかった。


ただ。


静かに目を閉じた。


もう。


城を守る戦ではない。


浅井という家を。


どう終わらせるか。


その時が。


近づいていた。

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