第十九章 朝倉、動く
第十九章 朝倉、動く
北から来る。
その報せが、織田軍の陣を駆け巡った。
朝倉義景。
越前の大名が、ついに動いた。
信長は地図の前に立っていた。
小谷。
横山。
虎御前山。
そして、その北。
「どれほどの兵だ」
「まだ正確には分かりませぬ」
伝令が答える。
「されど、相当な数とのこと」
信長は黙って地図を見つめた。
隣にいた宗一郎も、地図から目を離さなかった。
「朝倉は」
宗一郎が呟く。
「小谷を救うつもりです」
「そうだ」
信長が答えた。
「だから来る」
柴田勝家が腕を組む。
「ならば、迎え撃ちますか」
信長はすぐには答えなかった。
小谷を攻め続けながら、北から来る朝倉を相手にする。
簡単なことではない。
しかも。
小谷城は山城である。
浅井軍を城に残したまま、その外から朝倉が攻め寄せれば、織田軍は挟まれる。
「……欲張るな」
信長が言った。
「まず、朝倉を見よ」
勝家が頷く。
「小谷は?」
「逃げはせぬ」
信長は小谷山を見た。
「長政は、そこにいる」
*
朝倉軍が近づく。
その報せは、小谷城にも届いた。
「朝倉が来る!」
城内に声が走る。
浅井の兵たちの顔に、久しぶりに明るい色が戻った。
「援軍だ!」
「これで織田を退けられる!」
「朝倉殿が来られた!」
喜ぶ声。
しかし。
長政は、その声を聞きながらも笑わなかった。
「殿?」
家臣が尋ねる。
「何か問題でも?」
長政は小谷山の向こうを見た。
「……まだ分からぬ」
「朝倉が来たのですぞ」
「分かっている」
長政は静かに答えた。
「だが、朝倉が来たことと、織田に勝てることは別だ」
家臣は黙った。
長政は知っている。
織田信長という男が。
簡単に兵を失う戦をする男ではないことを。
そして。
朝倉義景が、果たしてどこまで戦う覚悟を持っているのか。
それは長政にも分からなかった。
「それでも」
長政は立ち上がった。
「来てくれた者を見捨てるわけにはいかぬ」
「はっ」
「浅井は、朝倉とともに戦う」
その声に。
城内から再び歓声が上がった。
だが。
その歓声の中にも。
不安を抱く者は少なくなかった。
*
数日後。
織田軍の物見が駆け戻ってきた。
「殿!」
信長の前に膝をつく。
「朝倉勢、近くまで迫っております!」
「数は」
「大軍にございます」
信長は目を細めた。
「来たか」
宗一郎は地図を見た。
朝倉が小谷へ近づけば。
浅井軍も城から呼応する可能性がある。
挟撃。
それが一番危険だった。
「信長様」
宗一郎が口を開く。
「ここは、一度引いた方がよいかもしれません」
勝家が振り向く。
「何?」
「小谷と朝倉を同時に相手にするのは危険です」
宗一郎は地図を指した。
「小谷は山城です。こちらが朝倉と戦っている間に、浅井が城から出れば、こちらの背後を脅かします」
半兵衛も頷いた。
「その通りです」
信長は二人を見た。
そして。
「引く」
即答だった。
勝家が少し驚く。
「しかし……」
「小谷は逃げぬ」
信長は言った。
「ならば、先に朝倉を相手にする」
*
織田軍が動いた。
陣をまとめ。
兵を後退させる。
虎御前山の陣も、周囲の部隊も。
一斉に動き始めた。
それを見た浅井の兵たちは騒いだ。
「織田が退くぞ!」
「追え!」
「朝倉殿が来たのだ!」
城内に歓声が広がる。
だが。
長政は叫んだ。
「待て!」
しかし。
すべての兵が、その声を聞いたわけではなかった。
織田が退いている。
今なら攻められる。
そう考えた者たちがいた。
「殿!」
家臣が駆け込む。
「城外へ出ようとする者が!」
長政は顔をしかめた。
「戻せ!」
「ですが!」
「戻せと言っている!」
長政は声を荒らげた。
「織田が意味もなく退くと思うな!」
だが。
すでに戦場では。
別の動きが始まっていた。
*
織田軍が退く。
それを見た朝倉軍は進んだ。
「織田は退いているぞ!」
「追え!」
朝倉の兵が前へ出る。
その動きは、次第に大きくなっていった。
織田軍は後退する。
だが。
乱れてはいない。
宗一郎は後方を見ながら馬を進めていた。
「……追ってきますね」
半兵衛が答える。
「ええ」
「これでいいのでしょうか」
「信長様の考えでしょう」
宗一郎は振り返った。
朝倉軍が近づいてくる。
「追わせる」
半兵衛が静かに言った。
「こちらが退けば、敵は前へ出る」
「そして」
「伸びる」
宗一郎は息を呑んだ。
織田軍はただ逃げているのではない。
敵を誘っている。
「信長様は……」
「戦う場所を選んでいるのです」
*
織田軍がさらに後退する。
朝倉軍は追う。
その間隔が伸びる。
兵の列が長くなる。
やがて。
織田軍が足を止めた。
「止まれ!」
号令が響く。
後退していた兵たちが、一斉に向きを変える。
朝倉軍の先頭が、その動きに気づいた。
「何だ!」
「織田が――」
次の瞬間。
鬨の声が上がった。
「かかれ!」
織田軍が反転する。
鉄砲が鳴る。
矢が飛ぶ。
槍が前へ出る。
朝倉軍の先陣が崩れた。
「押せ!」
織田兵が一気に攻めかかる。
さきほどまで追われていた軍勢が。
今度は追う側になった。
宗一郎は戦場を見つめた。
「……これが」
信長の戦か。
退く。
誘う。
そして。
敵が伸びきったところを叩く。
「朝倉軍が乱れています」
宗一郎が言う。
半兵衛は頷いた。
「ここからが勝負です」
*
朝倉軍は崩れ始めた。
「退け!」
「隊列を整えよ!」
しかし。
追撃してきた兵たちは、すでに隊列を崩していた。
そこへ織田軍が襲いかかる。
前後から圧力を受け。
朝倉の兵たちは次第に後退していく。
「織田が戻ってきたぞ!」
「退け!」
「逃げるな!」
怒号が飛び交う。
だが。
戦場では、一度崩れた隊列を戻すのは容易ではない。
朝倉軍は北へ退いていく。
織田軍は追う。
「朝倉を逃がすな!」
勝家の声が響いた。
宗一郎は馬上から、その光景を見ていた。
朝倉は。
小谷を救うために来た。
だが。
その援軍そのものが。
織田に追われている。
「……小谷が孤立する」
宗一郎が呟いた。
半兵衛が答える。
「そうなります」
「朝倉が敗れれば」
「浅井は再び、自分たちだけで戦わねばならない」
*
小谷城。
戦況が伝えられた。
「朝倉勢が……退いております」
長政は目を閉じた。
「どこまで?」
「北へ向かっております」
城内に沈黙が落ちた。
先ほどまでの歓声は消えていた。
「朝倉は負けたのか」
誰かが呟いた。
別の者が答える。
「まだ分からぬ」
だが。
誰もが分かっていた。
状況は悪くなった。
織田は。
再び小谷へ戻ってくる。
長政は立ち上がった。
「兵を集めよ」
「殿」
「織田が戻ってくる」
「……はい」
「ならば、迎え撃つ」
その声は強かった。
だが。
その背後では。
浅井家臣たちの間に動揺が広がり始めていた。
*
「もう、勝てぬのではないか」
夜。
城内の一室。
数人の家臣が声を潜めていた。
「朝倉が退いた」
「織田は再び来る」
「このままでは……」
誰も最後まで言わない。
言えば。
敗北を認めることになる。
「殿は戦い続けるおつもりだ」
「分かっている」
「だが、我らまで死ぬ必要があるのか」
その言葉に。
一人が顔をしかめた。
「殿を裏切るのか」
「そういう話ではない」
「ならば何だ」
「家を残すのだ」
沈黙。
その言葉が。
城内に重く落ちた。
浅井家を残す。
そのためには。
長政の決断に従わないという道もある。
*
別の場所。
長政は一人、座っていた。
朝倉が退いた。
織田は戻ってくる。
そして。
小谷は再び包囲される。
分かっていた。
だが。
心の中には、不思議なほど静かなものがあった。
市は生きている。
娘たちも生きている。
それだけで。
戦う理由は残っていた。
「殿」
声がした。
長政が振り返る。
家臣が立っている。
「何だ」
「……一つ、お話がございます」
「申せ」
家臣は迷った。
そして。
「このままでは、浅井家そのものが……」
長政は黙って聞いた。
「滅びます」
「……そうだな」
「ならば」
家臣は言葉を選んだ。
「降る道も、お考えくだされ」
長政はしばらく答えなかった。
やがて。
「降るか」
「はい」
「信長に」
「……」
長政は笑った。
悲しい笑みだった。
「信長が俺を許すと思うか?」
家臣は答えられない。
長政は立ち上がった。
「だが」
窓の外を見る。
「お前たちまで、俺と一緒に死ぬ必要はない」
家臣が顔を上げる。
「殿……」
「まだ決めてはいない」
長政は言った。
「だが、よく考えよ」
その言葉に。
家臣は深く頭を下げた。
*
翌朝。
織田軍が戻ってきた。
小谷山の麓。
再び。
織田の旗が並ぶ。
虎御前山にも兵が戻る。
横山にも兵が集まる。
一度離れた包囲の輪が。
再び。
小谷を取り囲んでいく。
信長は馬上から小谷山を見上げた。
「……戻ってきたぞ」
宗一郎もその山を見た。
朝倉は敗れた。
援軍は去った。
残されたのは。
小谷だけ。
そして。
浅井長政。
「ここからが長い」
宗一郎が言う。
半兵衛は首を横に振った。
「いいえ」
「え?」
「長くはないかもしれません」
半兵衛の視線は小谷城へ向いていた。
「援軍を失った城は、外から攻めるより」
一呼吸置く。
「中から崩れます」
宗一郎は黙った。
その言葉の意味を。
すぐに理解した。
*
小谷城。
朝倉の援軍が去った。
それは。
単なる兵力の減少ではなかった。
浅井家臣たちの心に。
一つの疑念を残した。
「本当に、最後まで戦うのか」
「殿は戦う」
「だが、我らは?」
「浅井家をどうする」
「長政様のために死ぬのか」
「家族はどうする」
それぞれの胸に。
別々の恐れが生まれていた。
忠義。
家。
領地。
家族。
命。
それらが。
一つずつ秤に載せられていく。
そして。
誰もまだ知らなかった。
この動揺こそが。
小谷城を内側から崩していく最初の亀裂になることを。
長政はまだ。
その亀裂を知らない。
だが。
小谷の中では。
確かに何かが変わり始めていた。
*
同じ頃。
織田軍本陣。
信長の前に、伝令が膝をついた。
「殿」
「申せ」
「朝倉勢、北へ退きました」
信長は頷いた。
「そうか」
「追撃はいかがいたしましょう」
信長は一瞬だけ小谷を見る。
そして。
「深追いはするな」
勝家が顔を上げた。
「小谷へ戻られるので?」
「そうだ」
信長は答えた。
「朝倉を追い続ければ、小谷を逃す」
「なるほど」
「欲しいのは朝倉の首ではない」
信長の目が鋭くなる。
「浅井の降伏だ」
宗一郎は、その言葉を聞いて黙った。
信長は小谷を見つめている。
そこには。
まだ浅井長政がいる。
だが。
市はもういない。
朝倉もいない。
援軍もない。
小谷を守る理由は。
少しずつ。
少しずつ。
失われていた。
信長が軍配を上げる。
「小谷を囲め」
再び。
織田の兵が動き始めた。
北近江の山々に。
織田の旗が増えていく。
小谷山を中心に。
包囲の輪が。
ゆっくりと。
だが確実に。
閉じていった。




