第十八章 小谷落つ
第十八章 小谷落つ
「市に罪はない」
信長は、もう一度だけ言った。
「市は俺の妹だ。長政に嫁いだことも、その男を信じたことも、市の罪ではない」
柴田勝家は深く頭を下げた。
「承知しております」
「ならば、徹底せよ」
信長の指が、小谷城の周囲をなぞった。
「城を落とす。だが、市を巻き込むな」
その言葉を聞きながら、高槻宗一郎は地図を見つめていた。
小谷城。
北近江を支配してきた浅井家三代の居城。
小谷山の険しい地形を利用した山城であり、山上から山腹、麓の清水谷まで城域が広がっている。
ただ兵を並べて押し寄せれば落ちるような城ではない。
「正面から攻めれば、こちらにも相当な犠牲が出ます」
宗一郎が言った。
「分かっている」
信長は答えた。
「だから、城を直接攻めるだけではない」
信長の指が、地図の上を移動する。
「横山を押さえ、道を押さえ、兵糧を断つ」
そして。
小谷城の南西にある山を指した。
「虎御前山も取る」
宗一郎の目が細くなった。
小谷城を見渡せる位置に陣を置く。
そこから織田軍が小谷を監視すれば、浅井が城外へ出ることはますます難しくなる。
史実でも、織田軍は虎御前山を小谷攻めの前線基地として整備し、羽柴秀吉らを配置して包囲を強めていった。
「虎御前山に陣を築けば、小谷は逃げ場を失います」
「そういうことだ」
信長は頷いた。
「朝倉が来る前にな」
宗一郎は顔を上げた。
「朝倉義景が動くと?」
「動くだろう」
信長は淡々と言った。
「長政を見捨てれば、朝倉の威信そのものが傷つく」
「ですが、援軍が来たとしても……」
「その時は、その時だ」
信長は地図を畳む。
「来た敵を討つ」
その声音には迷いがなかった。
「まず小谷を孤立させる」
柴田勝家が口を開いた。
「すでに街道には兵を出しております。浅井方の動きを監視させております」
「よし」
信長は頷いた。
「小谷を締め上げろ」
そして。
一瞬だけ、信長の顔から戦の表情が消えた。
「ただし――」
信長は静かに言った。
「市が無事に出られる道だけは、残しておけ」
宗一郎は黙って頷いた。
怒りと情。
信長は、その二つを決して混同していなかった。
長政には容赦しない。
だが。
市には刃を向けない。
それは武将としての判断であると同時に、兄としての願いでもあった。
*
夜。
小谷城。
城内には重苦しい空気が漂っていた。
遠くの山々には、織田軍の篝火が見える。
一つ。
また一つ。
それは夜空の星ではない。
浅井家を包囲する織田軍の灯だった。
「殿」
家臣が駆け込んできた。
「南の山麓に、また織田の陣が増えております」
「どこの兵だ」
「柴田の軍勢と思われます」
長政は外を見た。
織田軍は、日を追うごとに小谷へ近づいている。
そして。
「虎御前山にも動きがあるようです」
その言葉に、長政の眉がわずかに動いた。
「……虎御前山か」
小谷城からすれば、決して無視できない場所だった。
そこに織田が本格的な陣を構えれば。
小谷はさらに苦しくなる。
「横山からも兵が動いております」
長政は黙った。
織田は一気に攻めているわけではない。
周囲から少しずつ締め上げている。
道を押さえる。
陣を築く。
兵を増やす。
そして。
浅井が動くたびに、その動きを封じる。
「……信長らしい」
長政は小さく呟いた。
敵となった今でも、その戦い方には感心させられる。
だが。
感心している場合ではない。
「朝倉からは?」
「まだ確かな知らせはありません」
「そうか」
長政は目を閉じた。
朝倉義景。
長年にわたって浅井家と結びついてきた越前の大名。
長政が信長と敵対した大きな理由の一つでもある。
朝倉が動かなければ。
小谷は孤立する。
「……来る」
長政は呟いた。
「必ず来る」
そう信じるしかなかった。
だが。
心の奥底では、別のことを考えていた。
朝倉の援軍が来たとしても。
この状況を覆せるのか。
長政自身にも分からなかった。
*
「市は」
長政が尋ねた。
「奥におられます」
「まだ、何も知らせていないか」
「……はい」
長政はしばらく黙っていた。
やがて。
「呼べ」
「殿……」
「市を呼べ」
ほどなくして。
市が現れた。
長政は妻の顔を見た。
それだけで、胸の奥が締めつけられる。
市もまた、夫の顔を見つめていた。
二人とも。
すでに分かっていた。
言葉にしていないだけだった。
「市」
「はい」
「ここを出ろ」
市の表情が強張った。
「……嫌です」
「そう言うと思った」
「私はあなたの妻です」
「分かっている」
「ならば、私もここに残ります」
長政は首を横に振った。
「駄目だ」
「なぜです!」
「お前がいる限り、信長は本気で攻めてこぬられぬ」
市は黙った。
「だが」
長政は続ける。
「お前がいなくなれば、信長は小谷を徹底して攻める」
「……それならば私も」
「それでも出す」
「あなたは死ぬおつもりですか」
長政は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
市の目に涙が浮かぶ。
「兄上のところへ戻れ、と……?」
「そうだ」
「兄上はあなたを許しません」
「分かっている」
「ならば……」
市の声が震える。
「なぜ私だけを生かそうとするのです」
長政は市の手を取った。
「俺が選んだ道だ」
「……」
「お前まで、この道に付き合わせるわけにはいかぬ」
「あなた……」
長政は静かに言った。
「生きろ」
「……」
「子供たちと生きろ」
市は泣きながら首を振った。
「あなたと一緒にいたい」
長政の目も潤んでいた。
それでも。
「俺のために死ぬことだけは許さぬ」
市は答えられなかった。
ただ。
夫の手を強く握った。
*
翌朝。
小谷城の一角から、白旗を掲げた使者が出た。
織田軍の陣へ向かう。
その報せを受けた信長は、立ち上がった。
「何だ」
「浅井より申し入れがございます」
「申せ」
「お市様と娘子らを城より出したいとのこと」
信長の顔が変わった。
「……市を?」
「はい」
しばらく沈黙があった。
そして。
「道を開けろ」
「はっ」
「市と姫たちには手を出すな」
信長の声が低くなる。
「無事に通せ」
「承知しました」
宗一郎もその場にいた。
信長が振り向く。
「宗一郎」
「はい」
「お前が見届けろ」
「承知しました」
宗一郎は馬に乗った。
*
小谷城の山道。
一行がゆっくりと下ってくる。
市。
そして、娘たち。
市は何度も振り返った。
小谷山の上には、まだ浅井の旗が翻っている。
その旗を見つめるたびに、胸が痛んだ。
「母上……」
娘が袖を掴む。
市はその手を握った。
「大丈夫です」
そう言った。
だが。
その声は震えていた。
「お父様は?」
市は答えられなかった。
やがて。
「お父様は……小谷を守っているのです」
それだけを言った。
山道の先に、織田の兵が見えた。
そして。
その中央に宗一郎がいる。
宗一郎は馬を降りた。
「お市様」
「高槻殿……」
「信長様がお待ちです」
市は俯いた。
「兄上は……怒っておられますか」
宗一郎は少し考えた。
「長政様には」
市が顔を上げる。
「怒っておられます」
「……そう」
「ですが」
宗一郎は続けた。
「市様には、怒っておられません」
市の目から涙が落ちた。
「……兄上らしいですね」
「はい」
宗一郎は静かに答えた。
「ですから、ご安心ください」
市はもう一度、小谷を振り返った。
「長政さま……」
その声は風に消えた。
「どうか……生きて」
*
織田軍本陣。
市が信長の前に立った。
兄と妹。
長い戦の中で、ようやく再び顔を合わせた。
信長は、すぐには何も言わなかった。
市も同じだった。
やがて。
信長が歩み寄る。
「……市」
「兄上……」
その一言で。
市の涙が溢れた。
信長は妹を抱き寄せた。
「よく戻った」
市は兄の胸で泣いた。
「兄上……長政さまは……」
信長は目を閉じた。
「分かっている」
市の背を軽く叩く。
「お前が気にすることではない」
「ですが……」
「市」
信長の声が少し強くなる。
「お前は俺の妹だ」
市は顔を上げた。
「浅井の妻だったからといって、それでお前まで敵になるわけではない」
市は泣きながら頷いた。
信長は妹から離れる。
「姫たちを休ませよ」
「はい」
市が連れて行かれる。
その背中を見送りながら。
信長の顔から、兄としての表情が消えた。
再び。
戦場の顔になる。
「……では」
信長は小谷山を見た。
「始めるぞ」
*
市が無事に織田軍の庇護下に入った。
その報せが小谷へ届くより早く。
織田軍が動き始めた。
鉄砲の音が響く。
山腹へ矢が飛ぶ。
織田兵が斜面を登る。
「押せ!」
「退くな!」
浅井軍も応じる。
「撃て!」
「石を落とせ!」
「織田を近づけるな!」
小谷城は、簡単には落ちなかった。
山そのものが防壁となっている。
攻める側は斜面を登らねばならない。
守る側は上から攻撃できる。
織田軍は無理な突撃を繰り返さない。
少しずつ。
少しずつ。
浅井の防御線を削っていく。
そして。
南西では、虎御前山の陣地が形を現し始めていた。
宗一郎は、その様子を見ながら呟いた。
「……本当に、山を一つ城に変えるつもりか」
隣で竹中半兵衛が答える。
「信長様なら、やるでしょう」
「虎御前山から小谷を押さえれば」
「城内の動きも見えます」
半兵衛は小谷を見つめた。
「そして、兵糧も援軍も、容易には入れられなくなる」
宗一郎は頷いた。
「小谷は、少しずつ死んでいく」
「はい」
半兵衛の声は静かだった。
「ですが、まだ終わってはいません」
「朝倉か」
「ええ」
二人は北を見た。
朝倉の勢力圏。
そして、その先から来るであろう援軍。
*
小谷城。
長政は織田の陣を見ていた。
市はもういない。
娘たちもいない。
それだけで。
胸の奥にあった重石が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「……これでいい」
誰に聞かせるでもなく呟く。
だが。
次の瞬間。
遠くから銃声が響いた。
長政は刀を抜く。
「浅井の者ども!」
声を張る。
「まだ終わっておらぬ!」
「おおっ!」
兵たちの声が返る。
長政は前へ出た。
織田軍が迫ってくる。
一歩。
また一歩。
そのたびに、浅井の兵が迎え撃つ。
長政自身も刀を振るった。
敵兵を退け。
味方を鼓舞し。
小谷の山を駆ける。
だが。
戦いながらも。
長政の胸には一つの思いだけがあった。
市は生きている。
それでいい。
*
その頃。
織田軍本陣では、別の報せが届いていた。
「殿!」
伝令が駆け込む。
「北より知らせです!」
信長が振り向く。
「何だ」
「朝倉方が動いたとの報が入りました!」
信長の目が細くなる。
宗一郎も顔を上げた。
「……来たか」
信長は地図へ目を落とした。
小谷。
虎御前山。
横山。
そして北へ続く道。
史実でも、この小谷をめぐる戦いは浅井だけを相手にした戦ではない。
朝倉が救援に動けば、織田軍はその対応を迫られる。
小谷を攻めながら。
北から来る朝倉にも備えねばならない。
信長は軍配を手にした。
「よし」
静かな声だった。
「小谷を見張れ」
「はっ」
「朝倉の動きを探れ」
「はっ!」
そして信長は、小谷山を見た。
「長政」
その声には怒りがあった。
だが。
それだけではなかった。
「お前の選んだ戦だ」
信長は言った。
「最後まで付き合ってやる」
*
夜。
市は織田軍の陣で、小谷の方角を見つめていた。
遠くの山が赤く染まっている。
戦火だった。
「長政さま……」
市は胸元で手を組んだ。
その頃。
小谷城では長政もまた、同じ夜空を見上げていた。
二人の間には。
山がある。
軍勢がある。
そして。
もう戻ることのできない運命がある。
しかし。
まだ小谷は落ちていない。
まだ浅井の旗は立っている。
そして北からは――
朝倉の軍勢が、動き始めていた。
小谷をめぐる戦いは。
いよいよ最後の局面へ入ろうとしていた。




