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第十七章 浅井の道

第十七章 浅井の道


 小谷城。


 北近江の山々に囲まれたその城は、静かだった。


 だが、その静けさは平穏ではない。


 山道の先には、織田の旗が見え始めていた。


 まだ本格的な包囲ではない。


 だが、織田軍が動き始めたことは、城内の誰の目にも明らかだった。


 浅井長政は、天守から遠くを見ていた。


 織田の軍勢。


 かつては同じ道を歩いた男たちが、今は敵としてこちらへ向かっている。


 その中に、織田信長の旗がある。


 長政は目を伏せた。


「……来たか」


 傍らにいた家臣が答える。


「はい。織田軍は、近江へ入っております」


「信長は?」


「まだ本陣を定めたとの報はありません。しかし……」


「分かっている」


 長政は言葉を遮った。


 信長が来る。


 それは単なる戦ではない。


 姉川で刃を交えた時とは違う。


 今回は――家そのものを問われる戦になる。


 そして。


 何よりも長政の胸を締めつけているものがあった。


 市である。


「市は?」


「奥におられます」


「……そうか」


 長政はそれ以上、何も言わなかった。


 妻をどうするのか。


 それを決められずにいた。


 市は浅井家の妻である。


 同時に、信長の妹でもある。


 この二つの事実が、今や一本の刃となって長政自身の胸を裂いていた。


     *


 同じ頃。


 小谷城の奥。


 市は窓から外を眺めていた。


 遠くに見える山々。


 その向こうに、兄がいる。


 そして、その兄は自分の夫を討つために来ている。


 市は唇を噛んだ。


「兄上……」


 幼い頃の記憶が蘇る。


 信長は乱暴だった。


 怖かった。


 けれど、自分を守ってくれた兄でもあった。


 そして今。


 その兄が、自分の夫と戦おうとしている。


「どうして……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 長政が間違っているのか。


 兄が間違っているのか。


 それとも――。


 戦乱の世そのものが、間違っているのか。


 市は目を閉じた。


 その時、襖の向こうから声がした。


「お市様」


「……はい」


「長政様がお呼びです」


 市は立ち上がった。


     *


「兄上には、もう使者を送られたのですか」


 市が尋ねると、長政は黙っていた。


「まだだ」


「なぜです」


「何を書けばよい」


 長政は苦笑した。


「敵となった以上、詫び状を書くのか。それとも戦う覚悟を伝えるのか」


「……」


「どちらを書いても、お前を苦しめる」


 市は夫を見た。


「私は……」


 言葉が出てこない。


 長政はそんな市を見て、静かに言った。


「市」


「はい」


「お前は、何も悪くない」


 市の目に涙が浮かんだ。


「ですが……私は兄上の妹です」


「分かっている」


「そして、浅井の妻でもあります」


「それも分かっている」


 長政は市の手を取った。


「だからこそ、俺はお前を戦の道具にはしたくない」


「……あなた」


「信長殿が何を言おうと、お前を人質にするつもりはない」


 その言葉に、市は顔を上げた。


「では……私はどうすれば」


「生きてくれ」


 長政はそれだけを言った。


「兄上のところへ戻されるのですか?」


「それも、お前自身が決めればいい」


「俺を選べとは言わない」


 長政の声は震えていた。


「兄上を選べとも言わない」


 市は夫の顔を見つめた。


「ただ、子たちと生きろ」


     *


 その頃、織田軍本陣。


 信長の前には、近江の地図が広げられていた。


 小谷城。


 その周辺には織田軍の進路が記されている。


 柴田勝家が地図を指した。


「ここを押さえれば、小谷への道を断てます」


「うむ」


「浅井は朝倉と連携するでしょう」


 信長は黙って地図を見ていた。


 その顔に、かつての弟を見るような情はない。


 あるのは、冷たい怒りだった。


「長政は……」


 信長が呟く。


「俺の妹を娶った男だ」


 柴田は黙った。


「家族だと思っていた」


 信長の指が、小谷城の上で止まる。


「だからこそ、許せぬ」


 怒声ではなかった。


 むしろ静かだった。


 その静けさが、周囲の者たちを震わせた。


「裏切るなら、最初から俺に向かって刃を抜けばよかった」


 信長は顔を上げる。


「だが、あいつは市を俺と敵対する家に置いた」


「殿……」


「市に罪はない」


 信長は即座に言った。


「そこを間違えるな」


「はっ」


「市を責める者があれば、俺が許さん」


 そして一拍置いて。


「だが、長政は別だ」


 空気が張り詰めた。


「浅井長政は、俺の敵だ」


     *


 宗一郎は黙ってその様子を見ていた。


 信長の怒りは理解できる。


 だが、戦は感情だけでは終わらない。


「殿」


「何だ」


「小谷を落とすことと、浅井家を皆殺しにすることは別です」


 柴田が宗一郎を見る。


「またお主は……」


「長政本人には責任を取らせるべきです」


 宗一郎は続けた。


「ですが、家臣や領民まで一括りに敵とすれば、近江は長く荒れます」


 信長はしばらく黙った。


「降る者は許す」


 やがて、そう言った。


「ただし、最後まで長政と共に戦う者は敵だ」


「承知しました」


「そして――」


 信長は地図を見る。


「市を必ず助け出す」


 その言葉には、一切の迷いがなかった。


     *


 その夜。


 小谷城の外れに、一人の男が現れた。


 織田の使者だった。


 城門まで近づくことは許されない。


 代わりに、矢文が放たれた。


 一本の矢が、城壁の内側へ突き刺さる。


 兵が拾い上げた。


 そこには短い文だけがあった。


 ――市を返せ。


 ――それが叶えば、汝と話す。


 署名はない。


 だが、誰の言葉なのかは明らかだった。


 長政は文を握りしめた。


「……兄上」


 その一言だけが、口から漏れた。


     *


 市もまた、その文の存在を知った。


 だが、兄とは会えない。


 今、市がいるのは敵対した浅井の本拠、小谷城。


 信長が城内に入る理由もない。


 市が外へ出ることも、容易ではない。


 だからこそ――二人の間にあるのは、使者と文だけだった。


 市は一人、灯火の前に座っていた。


 目の前には、兄からの文はない。


 ただ、兄が自分を取り戻そうとしているという事実だけが伝わってくる。


「兄上……」


 涙が頬を伝った。


 その涙を拭う。


 そして、静かに呟いた。


「私は……どうすればいいのですか」


 答える者はいない。


     *


 織田軍では、さらに小谷への進軍準備が進んでいた。


 宗一郎は地図を見ながら、ふと口にした。


「この先は……」


「何だ?」


 明智光秀が問う。


「いや」


 宗一郎は言葉を濁した。


「歴史というものは、案外、同じ場所で繰り返すものだと思っただけです」


 光秀は宗一郎を見る。


「歴史?」


「……何でもありません」


 光秀は追及しなかった。


 だが、その目には疑念が残った。


 宗一郎は地図の一点を見つめる。


 小谷。


 姉川。


 越前。


 そして、その先にある未来。


 自分が知っている歴史では、ここから先も多くの血が流れる。


 だが。


 この世界は、もう以前の歴史ではない。


 信長は生きている。


 帝も動いている。


 そして自分もいる。


 ならば――。


「変えられる」


 宗一郎は小さく呟いた。


 だが、歴史を変えるということは、未来を知っている者だけが出来ることではない。


 未来を知らぬ者たちもまた、自分の意思で道を選ぶ。


 長政も。


 市も。


 信長も。


 そして――家康も。


     *


 三河。


 徳川家康は、届けられた報告書を静かに読んでいた。


「小谷へ向かったか」


「はい」


「信長は、本気だな」


 家臣が頷く。


 家康はしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと言った。


「信長は……裏切りを許さぬ」


「はい」


「まして、家族を裏切った者ならば」


 家康は紙を置いた。


「恐ろしい男だ」


 その口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。


「だが……」


 家康は窓の外を見た。


「人は、いつまでも同じではない」


 その言葉の意味を、家臣は理解できなかった。


 家康自身も、この時にはまだ分かっていなかった。


 自分がいつか――。


 信長以上に大きなものを敵に回すことになるなど。


 まして。


 帝の権威に刃を向けることになるなど。


 今はまだ。


 ただの小さな予兆に過ぎなかった。


     *


 小谷城。


 市は眠れずにいた。


 城外では、織田軍が動いている。


 城内では、浅井の兵たちが武具を整えている。


 夫は戦う。


 兄も戦う。


 そして自分は、その二人の間にいる。


 市は夜空を見上げた。


「どうか……」


 誰に願ったのか。


 自分でも分からなかった。


「兄上も……長政様も……死なないで」


 だが戦国の世は、そんな願いを簡単には聞き届けてくれない。


 翌朝。


 織田軍は、小谷城を包囲するため動き始めた。


 そして――。


 浅井長政もまた、戦う覚悟を決めた。


 兄と夫。


 二人の道が、ついに正面から交わろうとしていた。

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