第十六章 裏切りの代償
第十六章 裏切りの代償
比叡山の戦いが終わった。
山にはまだ煙が残っていた。
焼け落ちた堂宇。
崩れた石垣。
黒く焦げた木々。
風が吹くたび、灰が舞い上がる。
織田軍は勝った。
だが、陣中に勝鬨のような浮かれた空気はなかった。
信長は、山を見つめていた。
その顔に笑みはない。
「……浅井め」
隣にいた宗一郎にさえ届かない低く囁くような呟きだった。
宗一郎は黙って信長の横に立っていた。
「信長様」
「何だ」
「比叡山のことでしょうか」
「違う」
信長は即座に答えた。
「浅井だ」
宗一郎は口を閉じた。
信長の目には、普段とは違うものがあった。
怒り。
憎しみ。
そして――。
裏切られた者だけが持つ、深い失望。
「長政は儂の妹を娶った」
「はい」
「儂は、あ奴を身内だと思っていた」
信長の拳が、ゆっくりと握られる。
「妹を嫁がせたのだぞ」
その言葉に、宗一郎は返す言葉を失った。
浅井長政。
市の夫。
信長にとっては、単なる同盟相手ではなかった。
妹を託した男。
織田家の身内。
それゆえに――。
裏切りの罪は、他の敵とは比べものにならなかった。
「朝倉と手を結ぶことそのものが、許せぬのではない」
信長は静かに言った。
「儂に刃を向けたことが許せぬのでもない」
「……では」
「儂の妹を預けた男が、その妹の兄に刃を向けたことだ」
信長の声が低くなる。
「それが許せぬ」
宗一郎は初めて理解した。
信長にとって浅井長政の裏切りは、政治的な裏切りではない。
家族に対する裏切りなのだ。
「信長様……市様は」
「案ずるな」
信長は即答した。
「市は織田の娘だ」
そして、しばらく黙った後、
「……儂の妹だ」
そう言った。
その声には怒りだけではない。
妹を守ろうとする兄の情があった。
「市に罪はない」
「はい」
「長政が何をしたとしても、市を責める者があれば、儂が許さぬ」
宗一郎は深く頭を下げた。
だが、その次の言葉に背筋が冷えた。
「しかし――」
信長は比叡山の向こうを見た。
「長政は別だ」
「……」
「裏切りには、必ず報いを受けさせる」
それは、信長が以前から持っていた信条だった。
信長は、裏切りを嫌う。
敵になる者には容赦しない。
だが、最も許さないのは――。
一度忠誠を誓った者が、背後から刃を突き立てることだった。
柴田勝家が口を開いた。
「殿、浅井を攻めるならば、近江へ兵を向けますか」
信長は答えない。
代わりに宗一郎を見る。
「宗一郎」
「はい」
「お前ならどうする」
宗一郎は少し考えた。
「戦は避けられないでしょう」
勝家が頷く。
だが宗一郎は続けた。
「ただし、浅井家そのものを滅ぼす必要があるかは別です」
信長の眉が動いた。
「ほう」
「長政様が裏切ったからといって、浅井の民や家臣全てが裏切ったわけではありません」
「……」
「ですが、長政様本人には責任を取ってもらう必要があります」
信長は宗一郎を見つめた。
「市はどうする」
「市様の命を第一に考えるべきです」
「当然だ」
信長の答えは早かった。
「それだけは、何があろうと変えぬ」
その夜。
お市は一人、月を見ていた。
夫の長政。
兄の信長。
二人とも大切だった。
だが、その二人の間には、もう埋められない溝ができている。
「兄上……」
市の目に涙が浮かぶ。
「どうして……」
長政がなぜ裏切ったのか。
分からない。
分かりたくもなかった。
だが――。
戦が始まれば、兄と夫は敵になる。
その現実だけは、どうしても変わらない。
やがて、宗一郎が市のもとを訪れた。
「市様」
「宗一郎殿……」
市は涙を拭った。
「兄上は……怒っておられますか」
宗一郎は少し黙った。
「はい」
市の肩が震えた。
「私のせいでしょうか」
「違います」
宗一郎は即座に答えた。
「信長様は、市様を責めてはいません」
「本当に?」
「むしろ逆です」
宗一郎は静かに言った。
「信長様は、市様を守ると仰いました」
市は目を伏せた。
「……兄上らしい」
その声には、わずかな笑みがあった。
「ですが」
宗一郎は続けた。
「長政様については、別です」
市の顔から笑みが消えた。
「兄上は……長政様を許さないのでしょうか」
「おそらく」
「妹の夫なのに?」
「だからこそ、です」
市が顔を上げた。
宗一郎は続けた。
「信長様は、長政様を敵として見ておられます」
「……」
「そして、裏切りを決して許さない方です」
市はしばらく何も言わなかった。
やがて、
「私は……どうすれば」
と呟いた。
宗一郎には、その問いに簡単な答えを出せなかった。
兄を選べとも言えない。
夫を選べとも言えない。
だから、
「生きてください」
それだけを言った。
「どちらを選ぶかではありません」
市は宗一郎を見る。
「まず、市様自身が生き残ることです」
その言葉に、市は静かに頷いた。
---
その頃。
織田軍の本陣では、光秀が一人、書状を読んでいた。
差出人の名はない。
印もない。
ただ、京から届けられたという。
光秀は慎重に封を開いた。
中には、わずか数行。
――比叡山の戦、承知した。
――織田の軍勢が天下を平らげる日も遠くないであろう。
――されど、力のみで天下を治めることはできぬ。
光秀の眉が動いた。
さらに読み進める。
――武家が武家を討つだけならば、世はまた同じところへ戻る。
――帝の御世を支える者として、天下を治めよ。
光秀の手が止まった。
「……帝」
最後の一文。
――信長に伝えよ。
――この国を、戦の終わらぬ国にするな。
光秀はしばらく動かなかった。
「誰が……」
文には署名がない。
だが、これほど直接的に「帝」という言葉を使える者が、そう多くいるはずがない。
光秀は文を火にかざした。
燃え上がる紙。
その炎を見ながら、光秀は考えた。
これは帝からなのか。
それとも、帝の名を騙る者なのか。
まだ分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
この文を書いた者は、織田信長をただの武将として見ていない。
この国の未来を託す存在として見ている。
光秀は文を灰にした。
書状を燃やしたのは、内容を隠すためだった。帝からの密書であれば、誰かの手に渡った時点で、帝の意図も光秀の立場も危うくなる。証拠を残さず、内容だけを信長に伝える必要があったのだ。
そして、誰にも言わずに信長のもとへ向かった。
---
「帝からだと?」
信長は文の内容を聞くと、鼻で笑った。
「署名はないのか」
「ありません」
「ならば帝からとは限らぬ」
「はい」
「だが――」
信長は炎の消えた火鉢を見た。
「面白いことを書く奴だ」
光秀は信長を見た。
「殿は、どうなさいますか」
「決まっている」
信長は立ち上がった。
「天下を取る」
光秀は目を見開く。
信長は続けた。
「だが、天下を取った後に、何をするかはまだ決めておらぬ」
「……」
「儂は戦うために生まれたわけではない」
信長は静かに言った。
「戦わずに済む世を作るために、今は戦う」
光秀の胸に、その言葉が残った。
信長は比叡山を見る。
「だが、そのためにも裏切り者は許さぬ」
その声には、先ほどまでとは違う冷たさがあった。
「浅井長政」
信長は、その名を口にした。
「儂の妹を娶った男だ」
一拍置く。
「だからこそ――」
拳を握る。
「儂は、あ奴を許さぬ」
---
一方。
京の奥深く。
一人の男が、灯りの下で静かに筆を置いた。
誰にも見せない書状。
そこには先ほど光秀が読んだものと、ほぼ同じ文面が記されている。
男は窓の外を見た。
「信長よ」
小さな声だった。
「そなたは、歴史を変えられるか」
男は目を閉じる。
前世で見た歴史。
本能寺。
豊臣。
徳川。
江戸。
鎖国。
近代化の遅れ。
そして、二つの原子の光。
あの未来だけは――。
「二度と、繰り返させぬ」
男は静かに呟いた。
だが、まだ信長にも光秀にも知られてはいない。
この文を書いた者が、帝自身であることを。
そして帝が恐れているのは、浅井長政でもない。
朝倉でもない。
比叡山でもない。
もっと先にある未来。
その未来において――。
徳川家康が、天下を握ることだった。
帝は、まだ家康を敵とは見ていない。
しかし、歴史を知る者として、その名を忘れることもできなかった。
「家康……」
帝の筆が止まる。
そして、静かに呟く。
「そなたが、どの道を選ぶのか」
その答えが出るまでには、まだ長い時間がある。
だが歴史は、すでに動き始めていた。




