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閑話 市、揺れる

閑話 市、揺れる


比叡山の炎が消えてから、しばらく経った。


だが、近江の空気はまだ重かった。


山々には秋の気配が近づいている。


稲穂は色づき始めているというのに、戦の気配だけは消えない。


小谷城。


その奥で、一人の女が庭を眺めていた。


お市。


織田信長の妹。


そして今は、浅井長政の妻。


「……兄上」


小さく呟く。


その声に答える者はいない。


市は庭に落ちた一枚の葉を見つめていた。


織田家にいた頃なら、秋が来れば尾張の景色を思い出した。


父・信秀が亡くなってから、兄の信長が家をまとめていった。


乱暴で。


気性が激しく。


それでも、妹には優しかった。


幼い頃、市が泣けば信長は何も言わずそばに座った。


市が欲しいものがあれば、


「欲しければ取ってこい」


と笑った。


そんな兄だった。


その兄が、今は自分の夫と戦っている。


「奥方様」


侍女の声がした。


市は振り返る。


「何です?」


「殿がお戻りになりました」


「……長政様が?」


「はい」


市は立ち上がった。


胸の奥が、わずかに締めつけられる。


長政。


夫。


自分が選んだ男。


優しい人だった。


兄とは違う。


信長のように声を荒らげることもない。


家臣の話を聞き、領民のことを考え、戦になれば先頭に立つ。


市が浅井家へ嫁いだ時も、


「織田殿の妹だから妻にするのではない」


と長政は言った。


「市殿だから妻に迎える」


その言葉が嬉しかった。


だからこそ。


今が苦しい。


---


「市」


長政が部屋へ入ってきた。


「お帰りなさいませ」


市は頭を下げる。


長政は微笑んだ。


「ただいま」


それだけの言葉。


それだけなのに、市の胸には温かいものが広がった。


しかし、その温かさは長く続かなかった。


「戦況はいかがでした?」


市が尋ねる。


長政の顔から笑みが消えた。


「織田は、近江への圧力を強めている」


「……そうですか」


「比叡山も落ちた」


市は黙った。


比叡山。


その名を聞くだけで、京と近江の情勢が大きく変わったことを感じる。


「兄上は……」


市は言いかけて、口を閉じた。


長政はその顔を見ていた。


「信長のことか」


「……はい」


「気になるか?」


市は答えられなかった。


長政は責めなかった。


ただ静かに、


「無理もない」


と言った。


「そなたにとっては、兄だからな」


市は俯いた。


「私は……浅井の妻です」


「分かっている」


「でも……」


言葉が続かない。


長政が市の隣に座る。


「織田と浅井」


「はい」


「どちらも、そなたの家だ」


市の目に涙が浮かんだ。


「それが、一番苦しいのです」


長政はしばらく黙っていた。


「市」


「はい」


「俺は、織田と戦うことになるかもしれぬ」


市の肩が震えた。


「……はい」


「だが、そなたを恨むことはない」


「長政様……」


「そなたは何も悪くない」


長政はそう言った。


その言葉が、かえって苦しかった。


---


その夜。


市は一人、灯りの下で手紙を書いていた。


兄上。


筆が止まる。


何を書けばいいのか分からない。


兄上、お元気ですか。


違う。


そんなことを書けば、今の状況ではあまりにも呑気に見える。


浅井家はどうすればいいのでしょう。


それも書けない。


私は長政様を愛しています。


その言葉は、もっと書けなかった。


市は筆を置いた。


そして、遠い尾張の方角を見る。


兄は自分を大切にしてくれた。


夫も自分を大切にしてくれている。


なのに、その二人が戦おうとしている。


「どうして……」


市の目から涙が落ちた。


「どうして、こうなってしまったのでしょう」


誰も答えない。


---


翌日。


市は城内を歩いていた。


浅井家の家臣たちが忙しく動いている。


兵糧。


武具。


城の修繕。


兵の配置。


戦の準備。


その一つ一つが、現実を突きつけてくる。


ここは自分の家だ。


我が子達の家だ。


自分の夫の長政様の家だ。


そして、兄と敵対する家だ。


「奥方様」


一人の侍女が声をかけた。


「はい」


「織田の使者が来ております」


市の足が止まった。


「……織田?」


「はい」


一瞬だけ、胸が高鳴る。


兄からかもしれない。


そう思った。


だが、使者が持ってきたのは私信ではなかった。


織田からの軍事的な要求。


それを見た瞬間、市の顔から血の気が引いた。


兄は、もう兄としてではなく。


織田家当主として動いている。


市は書状を握りしめた。


「……兄上」


小さく呟く。


その時。


背後から声がした。


「読む必要はない」


長政だった。


市は振り返る。


「長政様」


「それは、俺が受け取る」


「ですが……」


「市は知らなくてよい」


長政は書状を手に取った。


そして、しばらく眺める。


「……信長らしい」


苦笑する。


だが、その目には苦悩があった。


「長政様」


「何だ?」


「兄上と……話すことはできないのでしょうか」


長政は答えなかった。


市は続けた。


「戦わずに済む方法は……」


「あるかもしれぬ」


長政は静かに言った。


「だが、信長がそれを選ぶかどうかは分からぬ」


「……」


「そして俺も、浅井を守らなければならない」


市は目を閉じた。


どちらも間違っているとは思えない。


それなのに。


どちらも譲れない。


---


その頃。


織田陣営では。


宗一郎が近江の地図を広げていた。


「浅井は、まだ動かないか」


半兵衛が答える。


「今のところは」


「長政は、戦を望んでいるのか?」


「分かりません」


半兵衛は少し考えた。


「ですが、家臣たちの中には織田との戦を避けられぬと考える者もおります」


宗一郎は地図を見る。


小谷城。


北近江。


越前への道。


「……市様は?」


半兵衛が宗一郎を見る。


「織田の姫君ですな」


「そうだ」


宗一郎はしばらく黙っていた。


「今、一番苦しいのは市様かもしれぬ」


「敵の妻であり、織田の妹」


「そうだ」


宗一郎は地図から目を離した。


「戦場では敵味方を分けられる」


「ですが?」


「家族は分けられぬ」


半兵衛は黙った。


宗一郎は、市が抱えている苦しみを想像した。


そして、ふと思う。


――歴史では、この先、市は小谷を去る。


娘たちを連れて織田へ戻る。


その後、浅井長政は小谷城とともに滅びる。


知っている未来。


だが。


「……この世界では」


宗一郎は呟いた。


「どうなる」


半兵衛が聞き返す。


「何か?」


「いや」


宗一郎は首を振った。


「何でもない」


未来を知っている。


だが、その未来を知っているからこそ、宗一郎は決めつけることができなかった。


---


夜。


市は再び一人になった。


机の上には、書きかけの手紙。


今度は、はっきりと書いた。


兄上。


私は元気です。


長政様も元気です。


ここには、私を大切にしてくれる人たちがいます。


だから、安心してください。


そこまで書いて、筆が止まった。


その先が書けない。


「兄上と戦わないでください」


そう書きたかった。


「長政様を殺さないでください」


そう書きたかった。


けれど。


どちらも、自分には言えない。


市は手紙を畳んだ。


そして胸元に抱いた。


「私は……どちらを選べばいいの」


涙が頬を伝う。


「兄上を選べば、夫を裏切る」


「長政様を選べば、兄上を裏切る」


その言葉を口にした瞬間。


市は、自分がどちらも裏切りたくないのだと気づいた。


だから苦しい。


だから眠れない。


だから祈る。


戦が起きないことを。


兄と夫が刃を交えないことを。


そんな願いが叶わないことを、どこかで感じながら。


---


数日後。


市は長政と並んで城から近江の山々を見ていた。


「綺麗ですね」


「ああ」


「この景色を、私は好きです」


長政が市を見る。


「ならば、ずっと見ていればいい」


市は微笑んだ。


だが、その笑顔には寂しさがあった。


「長政様」


「何だ?」


「もし……」


市は言葉を選んだ。


「もし、どうしても兄上と戦わなければならなくなったら」


長政は答えなかった。


「私は……どうすればよいのでしょう」


長政はしばらく空を見た。


「市」


「はい」


「そなたは、どちらか一方を捨てる必要はない」


「でも……」


「俺はそなたに、兄を捨てろとは言わぬ」


市は顔を上げた。


「そして、信長にも、そなたに夫を捨てろと言わせたくはない」


長政は微笑んだ。


「戦うのは俺たちだ」


「……」


「そなたではない」


市の目に涙が浮かんだ。


長政はその涙を見て、そっと目を伏せた。


「だから、最後まで笑っていてくれ」


市は答えられなかった。


ただ、長政の隣に立った。


---


その頃、尾張では。


信長もまた、市から届いた短い手紙を読んでいた。


「……市」


信長は手紙を握る。


そこには、浅井家の内情を知らせる言葉など一つもなかった。


ただ、


兄上もお体を大切に。


そう書かれていた。


信長は長く黙っていた。


「信長様」


宗一郎が声をかける。


「……妹からだ」


「はい」


「何も書いておらぬ」


「何も?」


「だからこそ、分かる」


信長は手紙を懐へしまった。


「市は、苦しんでいる」


宗一郎は黙っていた。


信長は窓の外を見る。


近江は遠い。


だが、その先には妹がいる。


「浅井を討つ」


信長の声は静かだった。


「だが、市まで敵にするつもりはない」


宗一郎は頷いた。


「そのお心、承知しております」


信長はしばらく黙ってから言った。


「できるだけ、市を巻き込むな」


「はい」


それは武将としての命令ではなかった。


兄としての願いだった。


しかし宗一郎は知っていた。


戦が始まれば、願いだけでは人を守れない。


小谷城が落ちる日。


市は兄と夫、そのどちらかを選ばなければならなくなる。


――史実では。


だが、この世界ではまだ分からない。


歴史は、少しずつ変わっている。


そして市もまた。


その歴史の中で、自分の運命を知らぬまま、兄と夫の間で揺れ続けていた。

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