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第十五章 比叡山の戦い

第十五章 比叡山の戦い


比叡山。


京の北東にそびえる山。


その山には、長い歴史を持つ延暦寺が存在していた。


だが、そこにあるのは寺だけではない。


僧侶。


僧兵。


広大な寺領。


山麓の坂本。


日吉社周辺の町。


そして琵琶湖へつながる港。


比叡山は、宗教施設であると同時に、一つの巨大な政治勢力でもあった。


京と近江の間に位置するという地理的条件も大きい。


「ここを敵に回すのは厄介ですな」


半兵衛が地図を見る。


宗一郎は頷いた。


「厄介どころではない」


指で坂本を示す。


「ここは湖上交通の要だ」


次に山を指す。


「そして比叡山は、京と近江の間にある」


さらに北へ指を動かす。


「浅井・朝倉がここを利用すれば、織田軍の背後を突ける」


半兵衛は黙った。


元亀元年。


浅井・朝倉軍が織田軍に追われた際、比叡山がその逃げ込みを黙認したとされている。


少なくとも信長は、延暦寺を中立の存在とは見なさなかった。


敵を匿う。


兵を通す。


物資を通す。


そうなれば、宗教勢力というだけでは済まない。


「比叡山が、浅井と朝倉を庇っている」


宗一郎は低く言った。


「信長様から見れば、そういうことになる」


「延暦寺は武家の争いに関わらぬ、と申しておりますが」


「ならば、なぜ敵が山に逃げ込める?」


半兵衛は答えなかった。


宗一郎は続ける。


「本当に中立なら、どちらにも肩入れしない」


「ですが、現実は違う」


「そうだ」


宗一郎は比叡山を見た。


「だから、信長様は許さない」


---


やがて信長から延暦寺への要求が届いた。


浅井・朝倉との関係を断て。


敵兵を追い出せ。


織田軍に敵対する行動をやめよ。


それに応じなければ、比叡山そのものが戦場になる。


だが、明確な降伏には至らなかった。


信長は決断した。


元亀二年九月。


織田軍は比叡山を包囲する。


山麓。


坂本。


街道。


琵琶湖沿岸。


重要な場所を次々と押さえていく。


「正面から山へ入れば、こちらが不利です」


半兵衛が言う。


「分かっている」


宗一郎は答えた。


「比叡山は城より厄介だ」


山そのものが天然の要害。


細い道。


深い谷。


急な斜面。


霧。


そして地形を知り尽くした僧兵。


「ならば、山を攻めるのではなく」


宗一郎は地図を指した。


「山を孤立させる」


「兵糧ですな」


「そうだ」


敵の数を減らすより先に、敵が戦い続けられる条件を奪う。


水。


食糧。


連絡。


退路。


宗一郎は兵を配置した。


山麓の道を押さえる。


坂本の港を監視する。


山へ続く細道を塞ぐ。


「敵の夜襲に注意せよ」


「はっ!」


「追撃は深追いするな」


「承知!」


兵たちが散っていく。


宗一郎は山を見上げた。


「……厄介だな」


「はい」


半兵衛も同じ山を見ていた。


---


夜。


霧が降りた。


その中から、突然、声が上がった。


「敵襲!」


木立の向こうから僧兵が現れた。


僧衣。


槍。


刀。


弓。


その中には浅井・朝倉方の兵も混じっていた。


「来たか」


宗一郎は立ち上がる。


「退くな!」


織田兵が槍を構えた。


僧兵たちは地形を利用して側面へ回り込もうとする。


「追うな!」


宗一郎が叫ぶ。


「谷へ入れる!」


織田兵が踏みとどまった。


敵が狭い道へ入った瞬間。


「放て!」


左右の斜面から矢が降る。


僧兵が足を止めた。


そこへ槍隊が道を塞ぐ。


短い戦い。


やがて敵は山へ戻っていった。


半兵衛が息を吐く。


「勝ちましたな」


「勝ったのではない」


宗一郎は倒れた兵を見る。


「道を一つ守っただけだ」


敵も味方も血を流している。


「山は、人間が作った城より恐ろしい」


---


その後。


宗一郎のもとへ、一人の老僧が連れてこられた。


泥にまみれた衣。


白い髭。


しかし目には強い意志が宿っている。


「なぜ戦う?」


宗一郎が尋ねた。


僧は答えた。


「山を守るためだ」


「寺を守るのか」


「そうだ」


「それとも浅井・朝倉を守るのか」


僧は黙った。


「どちらも同じことか?」


僧は宗一郎を睨んだ。


「武家が寺を踏みにじれば、次は民が踏みにじられる」


宗一郎は静かに言った。


「ならば、敵兵を入れなければよかった」


僧は答えない。


「武器を取った時点で、ただの寺ではない」


僧が笑った。


「信長は、古い力が怖いのだ」


宗一郎は答えなかった。


怖い。


それだけではない。


信長は、古い権威そのものを作り替えようとしている。


幕府。


守護。


寺社。


既存の秩序。


それらを並べて天下を保つのではなく、自らの力で新しい秩序を作ろうとしている。


だからこそ、敵対する力には容赦しない。


---


やがて信長は、最後の決断を下した。


「焼く」


その言葉は短かった。


宗一郎は黙った。


「信長様」


「何だ?」


「山上へ一気に攻め込むより、降伏の道を残すべきです」


「逃げ道を残せば、敵が逃げる」


「敵兵は逃がしませぬ」


宗一郎は答えた。


「ですが、戦を望まぬ僧や民まで追い詰めれば、最後には皆が武器を取ります」


信長は宗一郎を見た。


「お前は寺を救いたいのか?」


「違います」


「では何だ?」


「敵を減らしたいのです」


信長の目が細くなる。


「同じではないか?」


「違います」


宗一郎は山を見た。


「寺を焼けば、敵も死ぬ。ですが寺を残し、武装を解かせ、寺領と兵站を奪えば、敵の力だけを削ぐこともできます」


「そして、再び立ち上がったら?」


「その時は、二度と兵を置けぬようにする」


信長はしばらく黙った。


やがて、


「お前は焼くより面倒なことを考える」


と笑った。


「焼くのは簡単です」


「そうだ」


信長は比叡山を見上げた。


「だから儂は焼く」


宗一郎の背筋に、冷たいものが走った。


信長は、比叡山だけを見ているのではない。


天下を見ている。


比叡山を焼く。


その炎を、京も近江も、そして全国の大名が見る。


古い権威に守られていても、織田に逆らえば滅びる。


それを天下に示そうとしている。


---


攻撃が始まった。


山麓から織田軍が進む。


堂舎。


僧坊。


寺社。


火が放たれる。


炎が木造の建物を包んでいく。


鐘が鳴った。


読経が聞こえる。


逃げ惑う人々の声が響く。


「火を広げるな!」


宗一郎は叫んだ。


「武器を捨てた者は斬るな!」


しかし、戦場は命令どおりには動かない。


火に追われた人々が道へ溢れる。


僧兵が民に紛れて逃げようとする。


織田兵が追う。


「止まれ!」


宗一郎が前へ出た。


「武器を捨てた者は通せ!」


「敵兵かもしれませぬ!」


「ならば身体を改めよ!」


宗一郎は叫んだ。


「斬るのは最後だ!」


若い僧が震えながら短刀を抜いた。


織田兵が槍を向ける。


宗一郎は手で制した。


「短刀を捨てろ」


若い僧は宗一郎を睨む。


「信長に従うのか」


「従うのではない」


宗一郎は言った。


「お前を殺す必要がないだけだ」


若い僧の手が震えた。


やがて短刀が地面へ落ちる。


「連れていけ」


兵が僧を連れていく。


その背後で、堂舎が崩れた。


炎が夜空を赤く染める。


宗一郎はその光景を見つめた。


知っている。


この比叡山攻めは、後世に「比叡山焼き討ち」として信長の苛烈さを象徴する出来事になる。


ただし、どこまでが焼かれ、どれほどの人々が命を落としたのかについては、史料によって記述に差がある。


それでも、延暦寺が大きな打撃を受け、その軍事的・政治的な力を大きく失ったことは確かだった。


そして――。


この炎を見た者たちは、理解する。


信長は、古い権威を恐れない。


寺社であろうと。


幕府であろうと。


名門であろうと。


敵となれば討つ。


---


戦が終わった。


焼け跡には煙が漂っていた。


信長は黙って山を見ている。


「これで、浅井と朝倉は比叡山を使えぬ」


信長が言った。


「坂本も押さえた」


宗一郎が答える。


「近江から京へ通じる道も、織田が握った」


「そうだ」


信長は満足げだった。


だが宗一郎は、焼け跡から目を離せなかった。


「信長様」


「何だ?」


「軍事的には、大きな勝利です」


「軍事的には?」


「恐れられるでしょう」


信長は笑った。


「恐れられて何が悪い」


「恐れは、人を従わせます」


宗一郎は続けた。


「ですが同時に、人を結びつけます」


信長の笑みが消えた。


宗一郎は言葉を選ぶ。


「降伏すれば生きられる。そう思わせる一方で、抗えば滅びると思わせれば、敵は最後まで戦うかもしれません」


「ならば、最後まで戦わせればよい」


信長の声は冷たかった。


宗一郎は答えなかった。


---


夜。


宗一郎と半兵衛は、焼け跡を見ていた。


「比叡山は、これで終わるのでしょうか」


半兵衛が尋ねる。


「寺としては残る」


宗一郎は答えた。


「だが、以前のような力は失う」


「信長様は、古い秩序を壊しておられますな」


「壊しているだけではない」


宗一郎は煙の向こうを見る。


「新しい秩序を作ろうとしている」


「天下統一ですか」


「そうだ」


宗一郎は答えた。


「だが、天下を取った後に何を残すかまでは、まだ分からぬ」


半兵衛は黙った。


宗一郎は知っている。


この先、本願寺との戦いがある。


将軍との関係も悪化する。


浅井・朝倉との戦いも続く。


そして、その先には――。


本能寺。


だが。


この世界は、既に少しずつ変わっている。


「半兵衛」


「はい」


「これからは寺社の動きをさらに探れ」


「延暦寺だけではなく?」


「本願寺」


宗一郎は答えた。


「京の公家。将軍の周囲。近江の国衆。全部だ」


「承知しました」


「それと」


宗一郎は一瞬、言葉を止める。


「浅井の動きも」


半兵衛が頷く。


「まだ小谷は健在です」


「ああ」


宗一郎は北を見た。


その先に、小谷城がある。


そしてそこには――。


織田信長の妹がいる。


浅井長政の妻。


お市。


宗一郎はそのことを思い出した。


「……市様は、どうしておられるだろうな」


半兵衛は答えなかった。


宗一郎も、それ以上は言わなかった。


戦場では敵味方を分けられる。


だが。


家族は分けられない。


---


比叡山の炎は消えた。


しかし、その煙は長く京の空に残った。


そして、その煙を見た者たちは、それぞれに考えた。


信長に従うべきか。


抗うべきか。


逃げるべきか。


戦うべきか。


その中で、一人の女だけが。


兄と夫。


二つの家の間で、答えを出せずにいた。


浅井長政の妻。


織田信長の妹。


お市。


比叡山が焼け落ちたその秋。


小谷城にもまた、静かな秋が訪れようとしていた。

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