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第二章 桶狭間への道

第二章 桶狭間への道


 永禄三年。


 尾張に、異様な空気が漂っていた。


 高槻宗一郎は、帳場に座りながら一枚の紙を睨んでいた。


 紙といっても、現代のコピー用紙ではない。


 和紙に墨で書かれた、粗い地図だった。


 尾張。


 三河。


 遠江。


 駿河。


 そして――今川領。


 宗一郎は、地図の上に指を置いた。


「……来る」


 誰かに言ったわけではない。


 自分自身に確認するような言葉だった。


「今川義元が、来る」


 歴史を知っている。


 だから分かっていた。


 永禄三年、今川義元は大軍を率いて西へ進む。


 目的は上洛とも、尾張攻略とも言われる。


 そして――桶狭間。


 織田信長は、この戦いで奇跡的な勝利を収める。


 だが。


 宗一郎はそこで思考を止めなかった。


「史実を知っているから勝てる、なんて考えちゃ駄目だ」


 未来を知っている。


 それは確かに大きな武器だ。


 しかし――。


 歴史が変われば、未来も変わる。


 自分が織田家に仕えている時点で、すでに史実とは違う。


 ならば必要なのは。


「今、何が起きているかだ」


 宗一郎は帳簿を閉じた。


 


 異変を最初に伝えてきたのは、商人だった。


「東から、大量の米が動いております」


「どこへ?」


「三河方面へ」


「量は?」


「かなりの量です」


 別の商人が言う。


「馬も集めております」


 さらに別の男。


「鍛冶屋への注文が増えております」


 宗一郎は黙って聞いていた。


 米、馬、武具。


 そして――人。


 すべてが東から西へ動いている。


「軍勢が動く」


 宗一郎は確信した。


 問題は


「どこを通る?」


 戦国時代の軍隊は、好き勝手に移動できない。


 兵士がいる。


 馬がいる。


 荷駄がある。


 食料が必要だ。


 大量の兵を動かすなら、道が必要になる。


 さらに重要なのは水。


 そして宿営地。


 宗一郎は地図を広げた。


「大軍ほど、通れる道が限られる」


 これは理系の問題と同じだった。


 条件が増えるほど、選択肢は減る。


 十人なら野原をどこへでも歩ける。


 一万人なら違う。


 十万人なら、さらに違う。


 大量の兵士。


 大量の荷駄。


 大量の馬。


 それを一つの軍勢として動かすには、道と補給が必要になる。


「ならば……」


 宗一郎は地図に線を引いた。




「信長様にお目通り願います」


 数刻後。


 宗一郎は信長の前に立っていた。


「何だ」


「今川が動きます」


 信長の眉が動く。


「何を根拠に?」


「米の流れです」


「米?」


「三河方面へ、大量の米が運ばれております。それだけではありません。馬、武具、兵糧袋、縄、油……軍勢が動く時に必要な品が、東から西へ集中しています」


 信長は腕を組んだ。


「つまり?」


「今川が大軍を動かす準備をしていると考えます」


「どれほどだ」


「少なくとも、尾張一国を脅かす規模です」


 信長は笑った。


「そんなことは分かっておる」


「はい」


「ならば、何をしに来た」


「勝てるからです」


 部屋の空気が止まった。


 信長の目が鋭くなる。


「……何?」


「今川義元が大軍を率いて尾張へ入るなら」


 宗一郎は地図を広げた。


「大軍であることが、逆に弱点になります」


 信長は地図を見る。


「説明せよ」


「まず、軍勢が大きいほど兵糧が必要です」


「当然だ」


「兵糧が必要なら、補給線が必要になります」


「それも当然」


「ならば、その補給線を無視して進むことはできません」


 宗一郎は指を動かす。


「今川軍は東から西へ進みます」


 指先が三河を通る。


「そして尾張へ入る」


 さらに西へ。


「ですが、大軍が一気に進むには無理があります」


「なぜだ?」


「道幅です」


 宗一郎は言った。


「兵が多ければ多いほど、前の兵と後ろの兵との距離が開きます」


 さらに。


「荷駄が詰まります」


「馬が遅れます」


「食料が遅れます」


「命令も遅れます」


「そして――」


 宗一郎は地図上の一点を指した。


「軍勢が分かれます」


 信長は黙った。


「先鋒」


「本隊」


「荷駄隊」


「後続」


「それぞれの間に時間差ができます」


 宗一郎は言った。


「大軍は、一つの巨大な塊ではありません」


 指で線を引く。


「細長い列なのです」


 信長の目が変わった。




「では、どこを狙う」


 信長が尋ねた。


 宗一郎は答えなかった。


 代わりに、別の質問をした。


「信長様」


「何だ」


「織田軍が全軍で迎え撃てば、勝てますか?」


「勝てぬ」


 即答だった。


 織田家の兵力では、今川の大軍と正面から戦うのは難しい。


「では」


 宗一郎は続ける。


「戦わなければ?」


「……何?」


「戦う場所を選ぶのです」


 宗一郎は地図を広げた。


「今川軍が通る道を調べます」


「そして?」


「大軍が動きにくい場所を探します」


「山か」


「はい」


「谷か」


「はい」


「雨なら?」


「さらに動きにくくなります」


 信長は黙っている。


 宗一郎は続けた。


「大軍は、広い場所では強い」


「しかし、狭い場所ではその数を活かせません」


「ならば――」


 宗一郎は桶狭間周辺を指した。


「今川軍が一時的に兵力を集中できない場所を狙う」


 信長は地図を覗き込んだ。


 


「もう一つあります」


 宗一郎は言った。


「何だ」


「今川義元の位置です」


「義元?」


「大軍を率いる総大将が、どこにいるか」


 宗一郎は地図を指した。


「今川軍のすべてを倒す必要はありません」


 信長の目が細くなる。


「首を取る」


「はい」


 宗一郎は頷いた。


「大軍は、頭を失えば混乱します」


「……」


「兵力差を埋める必要はない」


 宗一郎の声に力が入る。


「勝つ必要もない」


「ただ――」


 信長を見る。


「今川義元だけを討てばいい」


 静寂。


 やがて信長は笑った。


「はははは!」


 大きな笑いだった。


「面白い!」


 信長は地図を掴む。


「大軍と戦うのではなく、大軍を率いる男を殺す!」


「はい」


「ならば、どこにいる?」


「それを探します」


「どうやって?」


「商人を使います」


 信長が止まった。


「商人?」


「商人は、兵より先に情報を持っています」


「何を運んでいるか」


「どこへ運んでいるか」


「誰が買ったか」


「どの道を使ったか」


「どこで宿営するか」


 宗一郎は笑った。


「戦場の外には、もう一つの戦場があります」


「情報の戦です」


 信長はしばらく宗一郎を見つめていた。


「……お前」


「はい」


「商人として雇ったつもりだったが」


「はい」


「いつから軍師になった?」


「なっておりません」


 宗一郎は即答した。


「私は商人です」


「ではなぜ戦のことが分かる」


「商売には、戦と同じ部分があります」


「ほう」


「相手が何を欲しがっているのか」


「どこから仕入れるのか」


「どこへ運ぶのか」


「何が不足しているのか」


 宗一郎は言った。


「それが分かれば、相手の次の行動も予想できます」


 信長はニヤリと笑った。


「なるほどな」


 


 それから数日。


 宗一郎は商人たちを動かした。


 米を扱う者。


 馬を扱う者。


 塩を扱う者。


 酒を扱う者。


 油を扱う者。


 鍛冶屋。


 荷駄を扱う者。


 彼らにとって、戦争は迷惑なものだった。


 だが同時に。


 戦争ほど大量の商品が動く時もない。


「今川の軍勢が、どこへ向かっているか?」


 直接聞いても誰も答えない。


 だから宗一郎は別のことを聞いた。


「最近、どこの町で米が売れている?」


「どこで馬が足りない?」


「どの宿場が混んでいる?」


「どこの鍛冶屋が忙しい?」


「どの道の通行量が増えた?」


 情報を一つずつ集める。


 そして。


 地図に点を記した。


 点。


 点。


 点が増えていく。


 やがて、それらが一本の線になった。


「……来る」


 宗一郎は呟いた。


 今川軍は。


 尾張へ向かっている。


 


 さらに決定的な情報が入った。


「沓掛城」


 宗一郎は地図を見つめた。


 そして、その先。


「大高城」


 今川方の重要拠点。


 兵糧が運び込まれている。


 宗一郎は考えた。


「大高城への補給」


 これは重要だ。


 今川軍が大高城を支えるなら。


 その周辺に兵力を集中させる。


 そして――。


「桶狭間」


 宗一郎は地図上の地形を確認した。


 山。


 谷。


 丘。


 街道。


 そして――。


「雨」


 宗一郎の脳裏に、歴史の記憶が蘇った。


 桶狭間の戦い。


 豪雨。


 視界不良。


 今川軍が油断した瞬間。


 織田軍が急襲。


 義元討死。


「これだ」


 しかし宗一郎は、まだ信長に伝えなかった。


 理由がある。


 雨だけを頼りにするわけにはいかない。


「天候は予測できない」


 現代のような気象予報はない。


 だから。


 雨が降らなかった場合も考える。


 奇襲が失敗した場合も考える。


 義元が別の道を進んだ場合も考える。


「歴史通りになる保証はない」


 宗一郎は何度も考えた。


 そして。


 信長のもとへ向かった。


 


「申し上げます」


「言え」


「今川義元は、近いうちに尾張へ入ります」


「うむ」


「そして、その本隊は大高城方面へ向かう可能性が高い」


「根拠は?」


「兵糧の動きです」


 宗一郎は地図を広げた。


「大高城周辺に物資が集中しております」


 さらに。


「沓掛城から西へ動く軍勢があります」


 信長は黙って聞いている。


「つまり、今川軍は大高城周辺を重要拠点と見ている」


「そして、義元は?」


「おそらく本隊とともに移動する」


 宗一郎は一つの場所を指した。


「桶狭間」


 信長の目がそこへ向く。


「ここを取ります」


「どうする」


「まず、敵に織田軍が弱いと思わせます」


「弱いと思わせる?」


「はい」


「敵が警戒すれば、奇襲は難しくなります」


 宗一郎は続けた。


「だから、織田軍を分散させて見せる」


「そして敵が油断したところで――」


 指を地図へ突き立てる。


「信長様ご自身が、少数の精鋭を率いて義元本隊へ向かいます」


「危険だな」


「はい」


「死ぬぞ」


「その可能性はあります」


 宗一郎は即答した。


 信長が笑う。


「怖さはないのか勝ち目のない博打だ」


「怖いです」


「ならば、なぜ言う」


「信長様が死ねば、私も困ります」


「……」


「私がこの時代で生き残るためにも、信長様には生きていただかなくてはなりません」


 信長はしばらく黙っていた。


 そして。


「気に入った」


 また、その言葉だった。


「お前は面白い」


 信長は立ち上がった。


「だが、策は一つでは足りぬ」


「はい」


「雨が降らなければ?」


「別の策を用意します」


「義元が桶狭間を通らなければ?」


「別の場所を探します」


「兵が足りぬなら?」


「敵をさらに分散させます」


 信長が笑った。


「では――」


 信長は宗一郎の肩を叩いた。


「やってみろ」


 その瞬間。


 宗一郎は悟った。


 ここから先は、もう商売ではない。


 戦国史の中でも最大級の一戦。


 桶狭間。


 その結果を左右するのは。


 歴史書に書かれた名前だけではない。


 名もなき兵。


 商人。


 荷駄。


 米。


 馬。


 雨。


 道。


 地形。


 そして――。


「情報だ」


 宗一郎は拳を握った。


 


 数日後。


 尾張に、巨大な軍勢が姿を現した。


 旗。


 槍。


 馬。


 鎧。


 その数、織田軍を遥かに上回った。


「今川だ!」


「今川の大軍が来たぞ!」


 尾張中が震えた。


 宗一郎は城の上から、その軍勢を眺めていた。


 足が震える。


 知識として知っているのと。


 実際に見るのでは。


 まったく違った。


「……これが」


 戦国時代。


 人間が本当に殺し合う世界。


 遠くに、今川の旗が見える。


 そして宗一郎は思う。


 ここから先は。


 歴史の再現ではない。


 自分が歴史に手を入れる。


 桶狭間の戦いが始まろうとしていた。

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