↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/79

尾張の商人、天下を買う

もし、歴史を知る者が一人、戦国の世に現れたなら――。


現代日本に生きた理系出身の青年・宗一郎は、戦国時代をこよなく愛し、歴史と科学の知識を身につけていた。だが、ある日突然、その知識を持ったまま戦国の世へと転生する。


彼が仕えることになったのは、尾張の「うつけ」と呼ばれた男、織田信長。


宗一郎は、化学、医学、工業、兵站、そして未来の歴史に関する知識を駆使し、信長とともに幾度もの危機を乗り越えていく。


桶狭間。


金ヶ崎。


毛利との戦い。


そして、本能寺。


知っているはずだった歴史が、一つずつ姿を変えていく。


だが、宗一郎だけがこの時代を変えようとしていたわけではなかった。


時折、宗一郎の言葉を先回りするような判断を下す者がいた。


まだ世に存在しないはずの未来を、どこか知っているかのように。


そして、その人物との出会いが、日本の運命をさらに大きく変えていく。


信長は人の可能性を見抜き、宗一郎は未来の知識を持つ。


二人の力が交わったとき、戦国日本は史実とは全く違う道を歩み始める。


これは、過去を変える物語ではない。


一人の転生者が歴史に触れたことで生まれた、もう一つの日本。


そして――


誰も知らない未来へ向かって歩み始めた、人々の物語である。

第一章 桶狭間より前


 ――死んだ。


 それが、最初に理解できたことだった。


 名前は、高槻宗一郎。


 二十八歳。


 東京の大学で工学を学び、卒業後はメーカーの技術職として働いていた。


 趣味は歴史。


 なかでも戦国時代が好きだった。


 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。


 その三人を中心とした戦国史なら、一般人よりはかなり詳しいつもりだった。


 ただし――。


「まさか、本当に来るとはな……」


 宗一郎は、目の前に広がる光景を見て呟いた。


 土の道。


 藁葺きの家。


 荷車。


 腰に刀を差した男たち。


 遠くには、粗末な柵で囲まれた田畑。


 そして、自分の身体。


 着物。


 裸足。


 どう考えても現代日本ではない。


「……戦国時代?」


 冗談ではなかった。


 スマートフォンはない。


 財布もない。


 現代の服もない。


 何より――。


 通りを歩く人々の言葉が、古めかしい。


 宗一郎はしばらく呆然としていた。


 だが、やがて一つの可能性に思い至る。


「……尾張?」


 地形。


 言葉。


 人の流れ。


 そして、商人らしき者たちの荷。


 もしここが尾張なら。


 そして年代が合っているなら。


「織田信長が……いる」


 その瞬間。


 恐怖よりも先に、奇妙な興奮が込み上げた。


 戦国史が好きだった。


 だからこそ分かる。


 この時代に来たということが、どれほど危険なのか。


 だが同時に――。


 これほど面白い時代もない。


 宗一郎は拳を握った。


「……やるか」


 現代へ戻れる保証などない。


 ならば、生きる。


 ただ生きるだけではない。


 自分の知識を使って、この時代で成り上がってやる。


 そして――。


 できることなら。


「織田信長に会う」


 それが、宗一郎の最初の目標になった。


 ◆


 最初に分かったのは、自分がかなり厳しい状況に置かれているということだった。


 身分がない。


 金がない。


 家もない。


 人脈もない。


 しかも、戦国時代。


 現代日本のように「仕事を探せば何とかなる」世界ではない。


 腹が減れば死ぬ。


 病気になれば死ぬ。


 盗賊に襲われても死ぬ。


 戦に巻き込まれても死ぬ。


 宗一郎は三日ほどかけて、ようやく一つの結論を出した。


「俺は、商人になる」


 武士にはなれない。


 農民では知識を活かせない。


 僧侶も無理。


 ならば――商人。


 幸いなことに、宗一郎には現代の知識がある。


 簿記。


 物流。


 品質管理。


 簡単な化学。


 金属加工。


 衛生。


 農業。


 そして何より、商売の基本。


 需要と供給。


 原価。


 利益率。


 流通。


「この時代、現代人から見れば不便すぎる」


 逆に言えば。


 商売の種だらけだった。


 最初に目を付けたのは、保存食だった。


 米や麦。


 干物。


 味噌。


 漬物。


 もちろん、この時代にも存在している。


 だが問題は品質だった。


 宗一郎はある商家に雇われ、雑用をしながら商売の仕組みを学んだ。


 そこで気付いた。


「同じ商品なのに、品質が安定していない」


 米なら米。


 塩なら塩。


 味噌なら味噌。


 しかし、同じ名前でも品質には大きな差がある。


 ならば――。


「品質を揃える」


 宗一郎は、商品を等級分けした。


 上。


 中。


 並。


 そして、それぞれ値段を変える。


「こんなもの、誰でも思いつく」


 宗一郎自身はそう思っていた。


 しかし。


「これは分かりやすい」


「客が選びやすい」


「値段に理由がある」


 商人たちには好評だった。


 さらに宗一郎は帳簿を改良した。


 仕入れ値。


 運送費。


 人件費。


 損耗。


 販売価格。


 利益。


 現代式の考え方を取り入れた。


 すると――。


「何が儲かっているのか、一目で分かる」


 商売の世界では、それだけで大きな武器だった。


 半年。


 宗一郎は、小さな店を持つまでになった。


 店の名は――高槻屋。


 扱うのは米、塩、味噌、干物、油、蝋燭。


 地味だ。


 だが、売れる。


 特に評判になったのが蝋燭だった。


 宗一郎は蝋燭の芯と油脂の配合を工夫し、燃焼時間をできるだけ均一にした。


「同じ大きさなら、同じくらい燃える」


 当たり前のことだ。


 しかし戦国時代では、当たり前ではなかった。


 さらに宗一郎は包装にも工夫した。


 一定量ずつ束ねる。


 簡単な印を付ける。


 品質を保証する。


 客からすれば買いやすい。


 商人からすれば売りやすい。


 そして軍勢からすれば――。


「大量に注文できる」


 宗一郎は、まだ気付いていなかった。


 自分の商売が、やがて織田家の目に留まることを。


 ◆


 ある日の夕方。


 高槻屋に、一人の武士が訪れた。


「蝋燭を見せよ」


「はい」


 宗一郎は商品を並べた。


 武士は蝋燭を手に取る。


「これが同じ値なのか?」


「同じ規格のものは同じ値です」


「燃え方は?」


「お確かめになりますか?」


 宗一郎は火を点けた。


 蝋燭の炎が静かに揺れる。


 武士はしばらく眺めた。


「……確かに、長く燃える」


「芯の太さと油脂の配合を揃えております」


「誰の許しを得て、このような商売をしている?」


 宗一郎は一瞬、言葉を失った。


 戦国時代。


 商売にも領主の許可や座の問題が絡む。


 勝手に商売を拡大すれば、潰される可能性もある。


「……私は、より多くの品を、より安定して届けたいだけです」


 武士は宗一郎を見つめた。


「名は?」


「高槻宗一郎」


「覚えておこう」


 そう言って、武士は店を出ていった。


 翌日。


 高槻屋に、大量注文が入った。


「蝋燭、五百」


「五百……?」


「それから米、味噌、干物、油」


 宗一郎は注文書を見つめた。


 尋常な量ではない。


「どちら様への納入でしょう?」


「織田家だ」


 心臓が跳ねた。


 織田家。


 その二文字だけで、宗一郎の頭の中に戦国史が蘇った。


 尾張。


 織田信秀。


 そして、その子――。


「……信長」


 思わず口に出していた。


「何?」


「い、いえ」


 宗一郎は慌てて頭を下げた。


 織田家への納入。


 それは小さな商人にとって、大きな転機だった。


 ◆


 数日後。


 宗一郎は、織田家の屋敷へ呼び出された。


「何の用だ……?」


 門をくぐりながら、宗一郎は自分に言い聞かせる。


 落ち着け。


 歴史上の人物に会える。


 それだけだ。


 だが――。


 実際にその男を目にした瞬間。


 宗一郎は息を呑んだ。


 若い。


 思っていたより、ずっと若い。


 粗野な印象。


 しかし目だけは鋭い。


 こちらを見ただけで、心の奥まで見透かされるようだった。


 男が口を開く。


「お前が高槻宗一郎か」


「……はい」


「蝋燭を作ったのはお前か」


「私です」


「なぜ、同じものを同じように作れる?」


「作る方法を決めているからです」


「方法?」


「はい。誰が作っても、なるべく同じになるように手順を決めています」


 男は黙った。


 やがて。


「面白い」


 低く呟いた。


「商人は、同じ品を売るだけではない」


「……?」


「同じ品を、同じように作らせることも商いか」


 宗一郎は目を見開いた。


「はい」


 男は笑った。


「ならば、もっと面白いものを作れ」


 宗一郎は、その顔を見つめた。


 間違いない。


 歴史の教科書で何度も見た人物。


 この男こそ――。


「織田上総介信長である」


 その名を聞いた瞬間。


 宗一郎は、背筋に震えが走るのを感じた。


 歴史が。


 今。


 目の前にいる。


 ◆


「お前、商人として何をしたい?」


 信長は尋ねた。


「金を儲けたいか?」


「……はい」


「天下一の商人になりたいか?」


「それもあります」


「では何だ」


 宗一郎は少し考えた。


 そして答えた。


「商売を大きくしたいのです」


「どう大きくする」


「一つの店を大きくするのではありません」


 宗一郎は地面に指で簡単な図を書いた。


「物を作る者」


「運ぶ者」


「売る者」


「使う者」


「これらを繋ぎます」


 信長の目が細くなった。


「物流か」


「はい」


「それが何になる」


「戦にも役立ちます」


 信長の表情が変わった。


「続けよ」


「兵が戦うには、武器だけでは足りません」


 宗一郎は言った。


「米が要ります。塩が要ります。薪が要ります。油が要ります。縄が要ります。薬も要ります」


「……」


「兵が強くても、腹が減れば戦えません」


 信長は黙っている。


「だから私は、織田家が必要とする物を、必要な時に、必要な場所へ届けられる商人になります」


 沈黙。


 やがて。


 信長が笑った。


「面白い奴だ」


 その笑いには、どこか凶暴なものがあった。


「商人のくせに、戦の話をする」


「商売と戦は似ていると思います」


「ほう」


「相手より早く情報を得て、相手より早く動き、必要な物を先に確保する」


 信長は立ち上がった。


「気に入った」


 そして宗一郎を指差す。


「高槻宗一郎」


「はい」


「織田家の御用商人となれ」


 宗一郎は頭を下げた。


「ありがたき幸せ」


「ただし」


 信長は続けた。


「役に立たぬと分かれば、すぐ切る」


「承知しました」


「そして、役に立つなら――」


 信長は笑った。


「どこまでも使うぞ」


 宗一郎も笑った。


「望むところです」


 その日。


 高槻宗一郎は、織田信長の家臣――その第一歩を踏み出した。


 だが。


 宗一郎だけは知っている。


 これから織田家が歩む道を。


 今川義元。


 桶狭間。


 美濃攻略。


 上洛。


 浅井・朝倉。


 比叡山。


 長篠。


 そして――。


 本能寺。


 歴史を知る者にとって、それは未来の出来事だった。


 しかし。


 宗一郎は決めていた。


「変えてやる」


 信長を死なせない。


 織田家を滅ぼさない。


 そして――。


 自分自身も、この時代で生き残る。


 歴史を知る商人。


 理系の知識を持つ男。


 そして、織田信長に仕える異邦人。


 高槻宗一郎の戦国人生は――。


 まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。