第百三十六章 越前再び――信長の決断
第百三十六章 越前再び――信長の決断
天正三年、秋。
岐阜城に、一通の急報が届いた。
越前国。
かつて朝倉氏が支配し、織田軍の侵攻によってその支配体制が崩れた国。
今、その地で再び一向一揆の勢力が動き始めていた。
「越前の一向宗が、兵を集めております」
報告を読み上げた丹羽長秀の声が、広間に響いた。
織田信長は、肘掛けに片手を置いたまま聞いていた。
「数は」
「正確には分かりませぬ。ただ、府中から北ノ庄にかけて、寺社を中心とする武装集団が集結しているとのこと」
「朝倉の旧臣は」
「一部が加わっております」
信長は、静かに目を細めた。
越前。
そこは、織田家にとって一度は制したはずの土地だった。
だが、朝倉義景が滅んだ後も、国中が織田へ心服したわけではない。
朝倉家の旧臣。
寺社勢力。
地侍。
そして、一向宗の門徒たち。
それぞれが複雑に絡み合い、織田の支配を拒んでいる。
「高槻を呼べ」
信長は命じた。
「竹中もだ」
◆
高槻宗一郎が岐阜城へ到着したのは、その日の午後だった。
傍らには、竹中半兵衛がいる。
広間には、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益らの姿もあった。
信長は、二人が座るのを待たずに口を開いた。
「越前へ兵を出す」
宗一郎は頷いた。
「一向一揆でございますか」
「そうだ」
信長は地図を広げた。
「長篠で武田を退けたとはいえ、勝頼の力は健在だ。東へ兵を集中させることはできぬ」
半兵衛が頷く。
「その隙を、越前の勢力が突こうとしておりますな」
「であろう」
信長は、越前の地図を指した。
「だが、放置すれば北陸の支配が揺らぐ」
柴田勝家が進み出た。
「殿。越前のことは、この勝家にお任せくだされ」
信長は勝家を見た。
「勝家。そなたには北ノ庄を中心に、越前の支配を固めてもらう」
「はっ!」
「だが、今回は単に敵を討つだけでは済まぬ」
勝家が顔を上げた。
「と申されますと」
信長は宗一郎へ視線を向けた。
「高槻。そなたは以前、越前の寺社を一括して敵にするなと申したな」
「はい」
「今も、その考えは変わらぬか」
宗一郎は、少し考えてから答えた。
「変わりませぬ」
勝家が眉をひそめた。
「高槻殿。すでに兵を挙げた者たちを、なお見極めると申されるか」
「兵を挙げた者は討たねばなりません」
宗一郎は答えた。
「ですが、越前の民すべてが、我らに敵対しているわけではありません」
勝家は黙って聞いていた。
「寺に従わなければ村で生きていけぬ者もおります。家族を人質に取られた者もいるでしょう」
半兵衛が続けた。
「敵の兵と、敵に従わされている民を分けねば、越前は何度でも乱れます」
信長は頷いた。
「その通りだ」
そして、勝家を見た。
「勝家。戦では容赦するな。だが、降った者まで無闇に殺すな」
「……承知いたしました」
勝家は深く頭を下げた。
◆
軍議が終わった後。
宗一郎と半兵衛は、城内の一室で越前の地図を見つめていた。
「半兵衛殿」
「はい」
「越前は、長島とは違います」
半兵衛は頷いた。
「山が多く、川が国を分けております。平地を押さえただけでは、支配できませぬ」
宗一郎は地図を指した。
敦賀から北へ進めば、木ノ芽峠がある。
その先には、府中。
さらに北へ進めば、北ノ庄。
九頭竜川を越えれば、加賀へ通じる道がある。
越前は、南北に長い国だった。
しかも、山間には小さな谷や集落が点在している。
大軍が通れる道は限られる。
「敵は、峠を押さえるでしょう」
宗一郎が言った。
「ええ」
半兵衛は頷いた。
「ですが、峠で大軍を迎え撃つより、こちらの兵糧を狙う方が厄介です」
宗一郎は、以前の出来事を思い出した。
越前で襲われた兵糧輸送隊。
山中に残されていた、一文字の布。
あの時、敵は織田軍の反応を試していた。
「源八郎からの報告は」
半兵衛が尋ねた。
「届いております」
宗一郎は、一通の書状を差し出した。
甲賀忍び、鵜飼源八郎。
越前に散らした忍びたちは、寺社と旧臣たちの動きを探り続けていた。
書状には、簡潔な言葉が並んでいる。
『事実。府中北方の寺に、武装した男およそ百名が集結』
『事実。北ノ庄周辺の村で、兵糧の徴発あり』
『未確認。加賀より僧形の使者が往来』
『判断。複数の集団が連絡を取り合っている可能性あり』
半兵衛は、最後の一行を見つめた。
「一向宗の動きとしては、不自然ではありません」
「はい」
「ですが、気になることがあります」
宗一郎は頷いた。
「連絡の速さですね」
半兵衛は、書状を置いた。
「各地の寺社が、ほぼ同時に兵を集めております」
宗一郎は、地図を見た。
越前の南と北。
距離はある。
しかも、道は限られる。
その各地で、同じ時期に動きが起きている。
「誰かが、全体を動かしている」
宗一郎が呟いた。
半兵衛は答えた。
「あるいは、同じ合図を待っていたのでしょう」
宗一郎は、しばらく黙っていた。
十二使徒。
その名が、頭をよぎった。
だが、証拠はない。
一向宗の蜂起と、あの者たちを結びつけるには早すぎる。
「源八郎には、引き続き調べさせましょう」
「ええ」
半兵衛は頷いた。
「ただし、敵の正体を探るために、戦の準備を遅らせるわけにはいきません」
◆
数日後。
織田軍は越前へ向けて動き始めた。
先鋒は柴田勝家。
丹羽長秀が後続を支え、滝川一益が別方面の動きを警戒する。
宗一郎と半兵衛は、兵站と情報の整理を任されていた。
高槻家の兵も、越前へ向かう。
だが、宗一郎は今回、ある命令を出していた。
「兵糧隊を一つにまとめるな」
家臣が顔を上げた。
「分けるのでございますか」
「そうだ」
宗一郎は頷いた。
「大きな隊列は目立つ。敵に襲われれば、失う量も大きい」
半兵衛が続けた。
「三つに分け、間隔を空けて進ませます。ただし、互いに援護できる距離を保つこと」
家臣が頷いた。
「護衛は」
「各隊に鉄砲を持たせる」
宗一郎は答えた。
「山道では、敵がどこから現れるか分からぬ。前後だけでなく、斜面にも目を向けよ」
家臣は深く頭を下げた。
宗一郎は、さらに命じた。
「村から兵糧を奪うな。必要なものは代価を払って買い取れ」
家臣が驚いた。
「戦の最中でも、でございますか」
「そうだ」
宗一郎は静かに答えた。
「我らが奪えば、民は敵へ回る」
半兵衛が頷いた。
「敵の兵を減らすことと、敵を増やさぬこと。どちらも戦のうちです」
◆
越前国、木ノ芽峠。
織田軍の先鋒が峠へ近づいた時、山の上から矢が飛んできた。
「敵襲!」
柴田勝家は、馬を止めた。
「どこだ!」
家臣が指した。
「右の斜面にございます!」
勝家は、山を見上げた。
木々の間に、武装した男たちの姿が見える。
数は、およそ三百。
槍や弓を持ち、峠の道を見下ろしている。
勝家は、すぐに命じた。
「鉄砲隊、前へ!」
兵たちが火縄銃を構える。
だが、敵は木々の陰に隠れていた。
狙いを定めるのは難しい。
勝家は舌打ちした。
「厄介な場所に陣取ったものだ」
その時、半兵衛が進み出た。
「勝家殿」
「何だ」
「正面から攻める必要はございませぬ」
勝家が顔を向ける。
「ほう」
半兵衛は、峠の地形を指した。
「敵は右の斜面におります。ですが、左の尾根は比較的緩やかです」
「回り込むか」
「はい」
半兵衛は頷いた。
「少数の兵を左の尾根へ上げ、敵の背後を脅かします。その間、正面の鉄砲隊で敵を牽制します」
勝家は、しばらく地形を見た。
そして、笑った。
「よし。やってみよ」
宗一郎は、鉄砲隊へ命じた。
「敵の姿が見えた時だけ撃て。無駄弾を使うな」
鉄砲隊が頷く。
銃声が響いた。
山の斜面から、敵の悲鳴が上がる。
同時に、左の尾根を登っていた織田兵が、敵の背後へ近づいていた。
敵の指揮官が叫ぶ。
「左からも敵だ!」
兵たちが振り向く。
その瞬間、正面から勝家の槍兵が進んだ。
「かかれ!」
勝家の声が響く。
織田兵が峠の道を駆け上がった。
敵は左右から圧迫され、隊列を乱した。
槍がぶつかる。
刀が閃く。
狭い山道で、激しい乱戦が始まった。
だが、数で勝る織田軍は、少しずつ敵を押し返した。
敵の指揮官が叫ぶ。
「退け!」
武装した男たちは、山の奥へ逃げていった。
勝家は、追撃を命じようとした。
しかし、半兵衛が止めた。
「勝家殿。深追いは危険です」
勝家は、山の奥を見た。
道は細く、木々が密集している。
追えば、再び伏兵に襲われる可能性があった。
「……よし。追うな!」
勝家は命じた。
「峠を押さえよ!」
織田軍は、木ノ芽峠を突破した。
◆
その夜。
織田軍の陣。
宗一郎は、捕らえた敵兵の報告を聞いていた。
捕虜の多くは、近隣の村から集められた者たちだった。
武器を持たされ、寺の命令で峠を守っていたという。
宗一郎は、一人の男へ尋ねた。
「誰に命じられた」
男は、怯えながら答えた。
「寺の坊様にございます」
「名は」
「分かりませぬ」
「顔は覚えているか」
男は頷いた。
「はい」
宗一郎は、さらに尋ねた。
「その坊主は、どこから来た」
男は、しばらく考えた。
「……加賀から来たと聞きました」
宗一郎は、半兵衛を見た。
半兵衛も、静かに頷いた。
加賀。
越前の北に位置し、一向宗の勢力が強い国。
越前の動きが、加賀と結びついている可能性は高かった。
だが、それだけではない。
男は、続けた。
「その坊様は、こう申しておりました」
「何と」
「織田が越前へ来ることは、初めから分かっておる、と」
宗一郎の目が細くなった。
「初めから?」
「はい」
男は頷いた。
「だから、峠で待てと」
宗一郎は、しばらく黙っていた。
織田軍が越前へ向かうことは、いずれ知られる。
だが、進軍の時期まで正確に把握していたとすれば、話は違う。
半兵衛が静かに言った。
「宗一郎殿」
「はい」
「敵は、我らの動きをよく見ております」
宗一郎は頷いた。
越前の一向一揆。
朝倉旧臣。
加賀からの使者。
そして、正体の分からぬ情報網。
それらが、どこまで結びついているのか。
まだ分からない。
だが、確かなことが一つあった。
越前の戦いは、木ノ芽峠を越えただけでは終わらない。
◆
岐阜城。
信長のもとへ、木ノ芽峠突破の報告が届いた。
「勝家が峠を越えたか」
長秀からの書状を読み、信長は頷いた。
だが、次の一文で手を止めた。
『敵は織田軍の進軍を予期していた様子』
信長は、しばらく考えた。
「……面白くないな」
そして、近習へ命じた。
「越前へ使いを出せ」
「はっ」
「高槻に伝えよ」
信長は、地図を見た。
「敵を討つだけでなく、誰が敵を動かしているのかを見極めよ」
近習が頭を下げる。
信長は、静かに続けた。
「越前を治めるには、まずその根を断たねばならぬ」
その頃、越前の山中では、別の者たちが動き始めていた。
寺社の使者。
朝倉旧臣。
そして、織田軍の動きを伝える密かな連絡役。
彼らの目的は、必ずしも一つではなかった。
だが、織田信長が越前へ再び兵を進めたことで、その思惑は交わり始めていた。
越前の戦いは、ここから本格的に始まる。




