第百三十七章 越前平定――北ノ庄への進撃
第百三十七章 越前平定――北ノ庄への進撃
天正三年、秋。
越前国、府中。
木ノ芽峠を突破した織田軍は、府中へ進出した。
だが、そこに敵の大軍はいなかった。
町の通りは静まり返り、家々の戸は固く閉ざされている。
街道沿いには、一向一揆勢が放棄した柵や、空の兵糧俵が残されていた。
柴田勝家は、馬上から町を見渡した。
「敵は北へ退いたか」
高槻宗一郎が答えた。
「そのようです。北ノ庄周辺で兵を集め直しているとの報告があります」
「ならば追うまでよ」
勝家は即座に言った。
しかし、竹中半兵衛が地図を広げた。
「勝家殿。北ノ庄へ向かうには、いくつもの川を越えねばなりません」
「それがどうした」
「敵が橋を落とせば、進軍は止まります。さらに川向こうに陣を敷かれれば、渡河の最中に攻撃を受けます」
勝家は川の位置を確かめた。
「つまり、先に渡る場所を押さえよと」
「はい」
半兵衛は頷いた。
「敵の主力が北ノ庄にいるなら、川を渡らせまいとするはずです」
宗一郎が続けた。
「源八郎の忍びに、上流と下流の渡河地点を調べさせています。報告が届き次第、動きましょう」
勝家は一度だけ頷いた。
「よい。ただし、敵に立て直す暇は与えぬ」
◆
翌朝。
鵜飼源八郎から報告が届いた。
『事実。北ノ庄南方の川岸に、一揆勢約三千が布陣』
『事実。街道の橋は一部破壊。橋の向こうに柵と鉄砲隊あり』
『事実。上流の浅瀬にも見張りを配置』
『未確認。北ノ庄の後方には、さらに数千の兵がいる模様』
『判断。敵は川を防壁とし、織田軍を足止めする意図』
半兵衛は書状を読み終えると、地図に指を置いた。
「敵の狙いは明らかです」
宗一郎が頷く。
「川を渡るところを撃つつもりですね」
勝家は腕を組んだ。
「では、どう攻める」
半兵衛は答えた。
「正面から渡るふりをします」
「ふり?」
「はい。橋の修復を始め、敵の目を引きつけます。その間に別働隊を上流へ回します」
宗一郎が続けた。
「ただし、上流にも見張りがいます。夜のうちに渡る必要があります」
勝家は、しばらく考えた。
そして笑った。
「よし。儂が正面を受け持とう」
半兵衛が顔を上げる。
「柴田殿自ら?」
「敵が儂の旗を見れば、正面が本命だと思うだろう」
勝家は宗一郎を見た。
「高槻。上流は任せた」
「承知しました」
◆
その夜。
宗一郎と半兵衛は、千五百の兵を率いて川の上流へ向かった。
月は雲に隠れ、川面は暗い。
水音だけが響いている。
先行した甲賀忍びが戻ってきた。
「浅瀬を確認しました」
源八郎が報告する。
「水深は膝から腰ほど。ただし、中央の流れは速うございます」
「馬は」
「渡れますが、足を取られる危険があります」
宗一郎は頷いた。
「兵を五十人ずつ渡せ。綱を張り、流されぬようにする」
半兵衛が付け加えた。
「鉄砲の火薬は濡らすな。渡り終えた兵から、対岸の林へ隠れよ」
兵たちは、音を立てぬよう川へ入った。
冷たい水が脚を打つ。
川底の石は滑りやすく、何人かが体勢を崩した。
だが、張られた綱を掴み、何とか渡り切った。
その時だった。
「誰だ!」
対岸の見張りが叫んだ。
火縄の光が揺れる。
続いて銃声。
織田兵の一人が倒れた。
「見つかった!」
宗一郎は即座に命じた。
「弓兵、敵の見張りを抑えろ!」
矢が闇を裂いた。
見張りの一人が倒れる。
残る兵は、警鐘を鳴らそうとした。
だが、その背後から源八郎の配下が飛び出した。
短刀が閃き、警鐘の音は一度鳴っただけで途絶えた。
「急げ!」
宗一郎が叫ぶ。
兵たちは次々と川を渡った。
奇襲は完全には成功しなかった。
しかし、敵が大軍を集める前に、織田軍は対岸へ橋頭堡を築くことができた。
◆
夜明け。
川の正面では、柴田勝家が兵を動かしていた。
「橋を直せ!」
工兵たちが材木を運び、壊された橋へ近づく。
対岸から鉄砲が撃たれた。
木材を担いでいた兵が倒れる。
勝家はすぐに命じた。
「盾を並べよ!」
大盾が前へ出る。
その後ろから織田の鉄砲隊が応射した。
川を挟んで銃声が響く。
煙が立ち込め、対岸の柵が見えなくなった。
一揆勢の指揮官は、正面の織田軍を見つめていた。
「柴田の旗だ!」
家臣が叫ぶ。
「敵の主力が来ます!」
「橋を渡らせるな!」
指揮官は兵を正面へ集めた。
その時。
上流から、別の銃声が響いた。
「何だ!」
指揮官が振り向く。
伝令が駆け込んできた。
「上流から織田勢が現れました!」
「何人だ!」
「千を超えております!」
指揮官は顔色を変えた。
「馬鹿な! 見張りは何をしていた!」
だが、すでに遅かった。
宗一郎の兵は、川沿いの林を抜け、敵陣の側面へ迫っていた。
◆
「鉄砲隊、構え!」
宗一郎の号令で、三百の鉄砲兵が膝をついた。
敵陣の側面には、急ごしらえの柵があった。
だが、正面ほど堅固ではない。
「撃て!」
銃声が連続した。
柵の後ろにいた一揆勢が倒れる。
「槍隊、前へ!」
半兵衛が命じた。
織田兵が進む。
一揆勢も槍を構え、迎え撃った。
狭い畑道で、槍がぶつかる。
一揆勢の一人が織田兵の胸を突いた。
織田兵は倒れながら相手の槍を掴む。
その隙に、後続が踏み込んだ。
刀が振り下ろされ、一揆勢の兵が倒れる。
だが、敵も簡単には崩れなかった。
「退くな!」
指揮官が叫ぶ。
「ここを破られれば、北ノ庄まで道が開くぞ!」
その声に応じ、門徒たちが押し返してきた。
宗一郎は、敵の動きを見ていた。
数ではこちらが少ない。
正面から押し続ければ、いずれ止められる。
「半兵衛!」
「はい!」
「右の畑道へ二百を回します!」
半兵衛は頷いた。
「敵の背後を脅かすのですね」
「はい!」
宗一郎は、予備の兵を右へ回した。
畑の畝を越え、小さな用水路を渡る。
敵は正面の戦闘に集中していた。
その側面へ、織田兵が現れた。
「横から敵だ!」
一揆勢の隊列が乱れる。
半兵衛は、その瞬間を逃さなかった。
「押せ!」
槍隊が一斉に前進した。
敵の柵が倒れる。
一揆勢は、ついに後退を始めた。
◆
その頃、正面の柴田勝家も動いた。
敵が側面へ兵を回したことで、橋の守りが薄くなっていた。
「今だ!」
勝家は馬を進めた。
「渡れ!」
修復された橋の上を、織田兵が駆け抜ける。
対岸から鉄砲が撃たれた。
兵が倒れる。
だが、後続は止まらなかった。
勝家自身も橋を渡る。
「柴田勝家、ここにあり!」
その声が戦場に響いた。
勝家の槍が、一揆勢の兵を突き倒す。
家臣たちが続いた。
正面と側面。
二方向から攻められた一揆勢は、ついに崩れた。
「退け!」
「北ノ庄へ戻れ!」
兵たちが逃げ始める。
勝家は追撃を命じようとした。
だが、宗一郎が駆け寄った。
「柴田殿!」
「何だ!」
「追うなら、兵を選んでください!」
勝家は顔を向けた。
「どういうことだ」
「敵は北ノ庄へ向かっています。道の先に伏兵がいる可能性があります」
半兵衛も続けた。
「逃げる敵を追うより、川の渡河地点を確保する方が先です」
勝家は、しばらく考えた。
そして、槍を下ろした。
「……よし。追撃は騎馬の一隊だけにせよ。深追いは禁ずる!」
こうして、川の防衛線は破られた。
◆
北ノ庄。
一向一揆勢の指導者たちは、川での敗北を聞いていた。
「柴田勝家が、川を越えたと申すか!」
「はい!」
「高槻の兵もおります!」
広間に動揺が広がった。
北ノ庄は、越前北部を押さえる重要な拠点だった。
ここを失えば、加賀への道も脅かされる。
指導者の一人が叫んだ。
「門徒を集めよ!」
別の男が答えた。
「すでに集めております!」
「数は!」
「五千余!」
指導者は頷いた。
「ならば、まだ戦える」
だが、奥に座っていた僧が静かに口を開いた。
「戦うだけでは、勝てませぬ」
皆が振り向いた。
その僧は、加賀から来た使者だった。
「織田は、これまでのように正面から攻めてきません」
指導者が眉をひそめる。
「何が言いたい」
「川を越え、側面を突き、兵糧を守りながら進んでおります」
僧は続けた。
「このまま北ノ庄に籠もれば、包囲されるだけです」
「では、どうする」
僧は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「加賀へ退くべきです」
広間がざわめいた。
「逃げるのか!」
「越前を捨てると申すか!」
僧は首を振った。
「今、兵を失えば、次の戦ができませぬ」
その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。
◆
三日後。
織田軍は北ノ庄へ迫った。
だが、城下の外縁に設けられた柵は、ほとんど無人だった。
勝家は、馬を止めた。
「……退いたか」
宗一郎が頷いた。
「主力は加賀方面へ向かったようです」
半兵衛が続けた。
「ただし、後衛が残っております。城下の家屋に火を放ち、我らの進軍を妨げるつもりでしょう」
勝家は、すぐに命じた。
「火を消せ!」
家臣が驚いた。
「敵を追わぬのでございますか」
「町を焼かせるな!」
勝家は怒鳴った。
「ここは、これから儂が治める土地だ!」
織田兵が城下へ駆け込んだ。
燃え始めた家屋へ水を運ぶ。
逃げ遅れた住民を外へ出す。
後衛の一揆勢が矢を放った。
織田兵が倒れる。
だが、勝家の兵が反撃し、敵を追い払った。
やがて、北ノ庄の城下は織田軍の手に落ちた。
越前の主要な拠点は、再び織田の支配下へ戻ったのである。
◆
北ノ庄に入った信長は、諸将を集めた。
「勝家」
「はっ!」
「越前を任せる」
勝家は深く頭を下げた。
「必ずや、治めてみせます」
「ただし、戦はまだ終わっておらぬ」
信長は地図を指した。
「一向宗の主力は加賀へ退いた。越前に残る者もいる」
半兵衛が頷いた。
「各地の寺社や地侍を、一つずつ調べる必要があります」
宗一郎が続けた。
「降伏する者には、条件を明確に示すべきです」
信長は宗一郎を見た。
「申してみよ」
「武器を置き、年貢を納め、織田の支配を認める者は助命する」
宗一郎は続けた。
「ただし、再び兵を挙げた者は厳しく処罰する」
信長は頷いた。
「よい」
そして、勝家へ命じた。
「その方針で進めよ」
「はっ!」
こうして、越前の平定は新たな段階へ入った。
戦で敵を破る段階から、国を治める段階へ。
だが、宗一郎には一つ、気になることがあった。
加賀から来たという僧。
その男は、北ノ庄が落ちる前に一揆勢を退かせていた。
ただの宗教指導者ではない。
戦況を冷静に見極め、兵を温存する判断を下している。
宗一郎は、源八郎へ命じた。
「その僧を追え」
「承知しました」
「ただし、無理に捕らえるな。どこへ行き、誰と会うかを調べよ」
源八郎は深く頭を下げた。
「御意」
◆
越前の戦後処理が始まった頃。
岐阜城では、信長のもとに丹波からの報告が届いていた。
丹波国。
京の北西に広がる山国である。
そこでは、波多野氏をはじめとする国人たちが、織田家の動きを慎重に見守っていた。
信長は書状を読み、眉をひそめた。
「波多野が兵を集めておるか」
丹羽長秀が答えた。
「はい。八上城周辺で兵糧を蓄えているとのことにございます」
「光秀はどうしておる」
「京にて、帝の婚儀の準備を進めております」
信長は頷いた。
明智光秀には、冬姫の鷹司家への養女入りから入内まで、一切の手続きを任せていた。
朝廷との折衝。
公家との調整。
装束や調度品の準備。
入内の儀礼。
そして、御所へ向かう行列の警護。
どれ一つとして、疎かにはできない。
しかも、帝自身が望んだ婚姻である。
光秀を丹波へ出陣させるわけにはいかなかった。
「光秀は動かせぬな」
信長が言った。
「はい」
長秀が頷いた。
「ならば、猿を使う」
信長は即座に決めた。
長秀が顔を上げる。
「羽柴秀吉殿にございますか」
「そうだ」
信長は地図を広げた。
「秀吉に丹波を警戒させよ。波多野の動きを探り、国人たちが兵を挙げぬよう牽制するのだ」
「本格的な攻略は」
「まだよい」
信長は答えた。
「今、丹波で大きな戦を起こす必要はない」
そして、静かに続けた。
「光秀が婚儀を終えるまで、丹波を騒がせるな」
◆
数日後。
羽柴秀吉は、信長の命を受けて丹波方面へ向かっていた。
傍らには、黒田官兵衛がいる。
「官兵衛」
「はい」
「殿からは、丹波を警戒せよとの命だ」
秀吉は、馬上から山々を見渡した。
「だが、戦を始めるなとも仰せだ」
官兵衛は頷いた。
「それが肝要にございます」
「どういうことだ」
「今、丹波で戦を始めれば、国人たちは織田家への態度を決めねばなりませぬ」
官兵衛は続けた。
「ですが、こちらが兵を見せるだけなら、彼らは様子を見るでしょう」
秀吉は笑った。
「なるほど。戦わずして、動きを止めるわけか」
「はい」
「ならば、派手に旗を立ててやろう」
官兵衛は、わずかに笑った。
「それも一つの手にございます」
秀吉は、山の向こうを見た。
丹波。
そこには、まだ織田に従わぬ者たちがいる。
だが、今は攻める時ではない。
秀吉の役目は、丹波を見張り、動きを封じることだった。
◆
越前から岐阜へ戻った宗一郎は、半兵衛とともに信長へ報告を行っていた。
越前の平定状況。
加賀へ退いた一向宗勢力。
そして、正体の分からぬ僧の動き。
信長は、一通り聞き終えると頷いた。
「越前は勝家に任せる。そなたらは京へ向かえ」
宗一郎は顔を上げた。
「京にございますか」
「そうだ」
信長は答えた。
「冬の入内が近い」
半兵衛が頷いた。
「明智殿の補佐にございますな」
「うむ」
信長は続けた。
「光秀には、鷹司家への養女入りから入内まで、すべてを任せておる」
宗一郎は頷いた。
「承知しております」
「だが、京には不穏な者もおる」
信長の声が低くなった。
「帝の婚儀を妨げようとする者が現れぬとも限らぬ」
宗一郎は、表情を引き締めた。
「警護については、我らも協力いたします」
「よい」
信長は頷いた。
「ただし、光秀の指揮を乱すな」
「心得ております」
宗一郎は深く頭を下げた。
半兵衛も続けた。
「行列の道筋、御所周辺の警護、万一の退避路について、光秀殿と相談いたします」
信長は満足そうに頷いた。
「頼んだぞ」
◆
その夜。
宗一郎と半兵衛は、京へ向かう準備を進めていた。
「半兵衛」
「はい」
「羽柴様が丹波を警戒することになったそうですね」
「ええ」
半兵衛は頷いた。
「明智様が動けぬ間、丹波を落ち着かせておくためでしょう」
宗一郎は、少し考えた。
「羽柴様なら、うまくやるでしょう」
「そう思います」
半兵衛は答えた。
「ただし、黒田殿もおります」
宗一郎は、静かに頷いた。
黒田官兵衛。
優れた知略を持つ男。
その才覚は、宗一郎も認めている。
だが、同時に、警戒もしていた。
「黒田殿は、丹波をどう見るでしょうか」
半兵衛は、少し考えた。
「戦わずして国人たちを従わせる道を探るでしょう」
「なるほど」
「ただし、彼は先を読みすぎるところがあります」
宗一郎は苦笑した。
「それは、半兵衛も同じではないか」
半兵衛は、静かに笑った。
「私は、宗一郎殿の無茶を止めるだけで手一杯です」
二人は笑った。
だが、宗一郎はすぐに表情を戻した。
「まずは、冬姫様の入内ですね」
「はい」
半兵衛は頷いた。
「明智殿にとっても、信長様にとっても、そして帝にとっても、大切な出来事です」
宗一郎は、京の方角を見た。
天下には、なお戦が続いている。
武田勝頼は健在。
石山本願寺も抵抗を続けている。
加賀には一向宗の勢力が残り、丹波では国人たちが織田の動きを見守っている。
だが、戦ばかりが歴史ではない。
帝が自ら望んだ婚姻。
織田信長の娘が、正式に帝の妻となる。
その出来事は、天下の行く末を大きく変えることになるだろう。
宗一郎は、静かに呟いた。
「……新しい時代が、始まる」
半兵衛は頷いた。
「ええ」
そして、二人は京へ向けて出立した。
その先では、明智光秀が冬姫の入内に向けた最後の準備を進めていた。
帝の婚儀の日は、間もなくである。




