第百三十五章 傷ついた狸――家康の帰還
第百三十五章 傷ついた狸――家康の帰還
天正三年、六月。
三河国、岡崎城。
城門の前には、徳川家の重臣たちが並んでいた。
だが、凱旋を祝う声はなかった。
長篠の戦いから戻った徳川家康は、馬に乗っていなかった。
四人の家臣が担ぐ輿。
その中に、家康は横たわっていた。
左脚には幾重にも布が巻かれ、膝から下を木製の副木で固定されている。
顔色は悪く、頬は以前より痩せていた。
それでも、輿の簾が上げられると、家康は自ら顔を出した。
「皆、苦労をかけた」
その声を聞いた家臣たちは、一斉に頭を下げた。
「殿!」
「ご無事で何よりにございます!」
家康は、わずかに笑った。
「大げさな。儂はまだ死んでおらぬ」
だが、笑い声は上がらなかった。
家臣たちは見ていた。
家康が左脚を動かそうとした瞬間、顔を歪めたことを。
輿から降りようとして、結局、家臣の手を借りなければならなかったことを。
そして、家康自身も、それを理解していた。
自分は、以前のようには動けない。
その現実が、城門をくぐるたびに胸へ突き刺さった。
◆
岡崎城の奥座敷。
家康は、布団に横たわっていた。
傍らには、石川数正と大久保忠世。
そして、高槻技術所から派遣された医師が控えていた。
医師は傷口を調べ、慎重に布を巻き直していた。
「骨の位置は、できる限り整えております」
家康は黙って聞いていた。
「ですが、骨が皮膚を突き破るほどの傷でした。周囲の筋や腱も損なわれております」
「つまり」
家康が尋ねた。
「儂は、歩けるようになるのか」
医師は、すぐには答えなかった。
「……今は、断言できませぬ」
家康の目が細くなった。
「断言できぬ、か」
「命を救うことが第一にございます。傷が化膿すれば、脚を失うこともあり得ます」
数正が息を呑んだ。
「脚を……」
医師は頷いた。
「高熱が続く場合は、さらに厳しい処置が必要になるかもしれませぬ」
家康は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「高槻は、何と言っておる」
「宗一郎様からは、傷を清潔に保ち、無理に動かさぬよう厳しく申しつかっております」
「そうか」
家康は目を閉じた。
高槻宗一郎。
長篠で自分を救った男。
そして、信長の側近。
家康は、その名を胸の内で繰り返した。
助けられたことには感謝している。
だが、徳川家の命運を握るほどの技術を、織田の家臣が持っている。
その事実が、家康には面白くなかった。
「医師殿」
「はい」
「儂の脚を治せ」
医師は深く頭を下げた。
「力を尽くします」
「金はいくらでも出す」
家康は目を開いた。
「ただし、治らぬものを治るとは申すな」
医師は、もう一度頭を下げた。
◆
数日後。
家康の熱は、ようやく下がり始めた。
傷口の腫れも、少しずつ治まっている。
命の危険は、ひとまず遠のいた。
しかし、左脚の状態は芳しくなかった。
足先を動かそうとしても、思うように動かない。
膝を曲げれば、激しい痛みが走る。
家康は、布団の上で左脚を見つめていた。
「……動け」
小さく呟く。
足先は、わずかに震えただけだった。
「動け!」
家康は歯を食いしばった。
もう一度、力を込める。
だが、脚は動かない。
激痛が走り、家康は思わず声を漏らした。
「ぐっ……!」
その音を聞いて、数正が駆け込んできた。
「殿!」
「入るな!」
家康が怒鳴った。
数正は足を止めた。
「しかし……」
「儂は、一人でよい!」
数正は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頭を下げた。
「……御意」
障子が閉じられる。
家康は、布団の上に拳を叩きつけた。
「……勝頼め」
その声は、怒りに震えていた。
武田勝頼。
長篠で自分を討とうとした男。
いや、正確には違う。
勝頼は、徳川軍を打ち破ろうとしただけだ。
自分が負傷したのは、戦場へ出たからである。
そのことは、家康にも分かっていた。
だが、分かっていることと、許せることは違った。
「……必ず」
家康は、左脚を見つめた。
「必ず、儂は戻る」
◆
岐阜城。
織田信長は、長篠の戦いの報告を整理していた。
武田勝頼は、主力を保ったまま甲斐へ退いた。
山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らの重臣も健在。
長篠城は救われたが、武田の力を削ぐには至らなかった。
そして、徳川家康は重傷を負った。
信長は、宗一郎と半兵衛を呼んでいた。
「家康の容体は」
宗一郎が答えた。
「命の危険は、ひとまず脱したようです」
「脚は」
「元通りにはならない可能性が高いと」
信長は、しばらく黙っていた。
「そうか」
半兵衛が進み出た。
「殿。徳川家の今後を考える必要がございます」
「分かっておる」
信長は地図を広げた。
三河。
遠江。
そして、甲斐。
徳川家は、織田にとって重要な同盟相手だった。
家康が動けなくなれば、武田への備えが弱まる。
だが、それだけではない。
徳川家中の力関係も変わる。
「家康が馬に乗れぬなら、誰が兵を率いる」
信長が尋ねた。
半兵衛は答えた。
「酒井忠次、石川数正、大久保忠世らが中心となるでしょう」く
「家康の嫡男は」
「信康殿にございます」
信長は頷いた。
「信康か」
宗一郎は、その名を聞いて顔を上げた。
徳川信康。
史実では、天正七年に自害へ追い込まれた人物。
その死には、信長と家康の関係が深く関わっていたとされる。
だが、この世界では、信長の娘・徳姫と信康の婚姻関係は続いている。
そして、家康は重傷を負った。
徳川家の次代を担う信康の存在は、これまで以上に大きくなるだろう。
「殿」
宗一郎が口を開いた。
「信康殿の扱いは、慎重になさった方がよろしいかと」
信長は宗一郎を見た。
「なぜだ」
「家康殿が動けなくなれば、信康殿へ期待する者が増えます」
「当然であろう」
「はい。ですが、それを家康殿がどう受け止めるかは、分かりません」
信長は、しばらく考えた。
「家康が、息子を疑うと申すか」
「可能性はあります」
宗一郎は答えた。
「家康殿は、まだ当主です。自分が動けぬからといって、すべてを息子へ譲るとは限りません」
半兵衛も頷いた。
「徳川家中が二つに分かれることも、考えられます」
信長は扇を閉じた。
「面倒なことだ」
そして、静かに言った。
「だが、家康が弱ったからといって、徳川を奪うつもりはない」
宗一郎は頷いた。
「はい」
「信康には、儂から見舞いの品を送る。家康にもな」
信長は続けた。
「徳川がまとまっておる方が、武田を相手にするには都合がよい」
それは、同盟者としての判断だった。
だが、その判断が、家康の心へどう届くかは別の話である。
◆
岡崎城。
徳川信康は、父の寝所を訪れていた。
まだ若い。
だが、すでに武将としての気概を持ち、家臣たちからも期待されていた。
「父上」
家康は、布団に横たわったまま顔を向けた。
「信康か」
「はい」
「何用だ」
信康は、少し躊躇った。
「家中の者たちが、今後の軍勢について話し合っております」
「そうか」
「父上が回復されるまで、私が一部の兵を預かるべきではないかと」
家康の目が細くなった。
「誰が申した」
「酒井殿や石川殿が」
家康は、しばらく黙っていた。
信康は続けた。
「もちろん、父上の命に従います。ですが、武田はまだ健在です」
「分かっておる」
「ならば、私にも役目を――」
「信康」
家康の声が低くなった。
信康は口を閉じた。
「お前は、儂がもう戦えぬと思っておるのか」
信康は驚いた。
「そのようなことは!」
「では、なぜ兵を預かりたいと申す」
「徳川を守るためにございます!」
信康は、思わず声を強めた。
「父上が傷つかれた今、私も力になりたいのです!」
家康は、息子を見つめた。
その目には、若さがあった。
力があった。
そして、自分には失われつつあるものがあった。
家康は、ゆっくりと目を閉じた。
「……下がれ」
「父上」
「今は、下がれ」
信康は、しばらく立ち尽くしていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……御意」
障子が閉じられる。
家康は、天井を見つめた。
「……儂は、まだ当主だ」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分自身へ言い聞かせているようだった。
◆
その夜。
岡崎城の一室で、酒井忠次と石川数正が向かい合っていた。
「殿は、信康様に兵を預けることをお許しにならなかったそうだ」
数正が言った。
忠次は、静かに頷いた。
「聞いておる」
「このままでは、家中が動けませぬ」
「分かっておる」
忠次は、しばらく考えた。
「殿は、まだ自分が戦場へ戻れると思っておられる」
数正が顔を上げた。
「戻れますか」
忠次は答えなかった。
長篠で家康が倒れた姿を、忠次は直接見ていない。
だが、負傷の様子は聞いている。
左脚の骨が砕け、筋や腱も損なわれた。
命が助かっただけでも幸運だった。
「……難しいだろうな」
忠次は、ようやく答えた。
数正は、深く息を吐いた。
「ならば、徳川家はどうなる」
忠次は、障子の向こうを見た。
「それを考えるのが、我らの役目だ」
◆
数か月後。
家康は、ようやく布団から起き上がれるようになった。
だが、左脚は以前のようには動かなかった。
膝を曲げることはできても、足首に十分な力が入らない。
立ち上がろうとすれば、左脚が支えきれず、体が傾く。
家康は、家臣の支えを借りながら、畳の上に立った。
「……離せ」
家臣が躊躇う。
「しかし、殿」
「離せと言っておる」
家臣が手を離した。
家康は、一歩を踏み出そうとした。
だが、左脚が崩れた。
「ぐっ!」
家康の体が傾く。
家臣が慌てて支えた。
「殿!」
家康は、歯を食いしばった。
「……もう一度だ」
家臣が顔を上げる。
「お休みになられた方が」
「もう一度!」
家康は怒鳴った。
そして、再び立ち上がった。
何度も。
何度も。
だが、左脚は思うように動かなかった。
やがて、家康は畳の上に座り込んだ。
荒い息を吐く。
額から汗が流れた。
その時、医師が一本の杖を差し出した。
「殿」
家康は、杖を見た。
「……何だ、それは」
「歩行を助けるためのものにございます」
家康は、しばらく黙っていた。
そして、杖を受け取った。
木製の、簡素な杖だった。
家康は、それを握りしめた。
「……儂が、杖を使う日が来るとはな」
医師は何も言わなかった。
家康は、ゆっくりと立ち上がった。
杖を床へつく。
右脚を出す。
そして、左脚を引きずるように動かした。
一歩。
もう一歩。
わずか数歩だった。
だが、家康は歩いた。
その姿を見て、家臣たちは涙を浮かべた。
家康は、杖を握りしめたまま、静かに言った。
「……これでよい」
その声には、悔しさがあった。
だが、同時に、別の決意もあった。
「儂は、まだ生きておる」
◆
同じ頃。
甲斐国、躑躅ヶ崎館。
武田勝頼は、徳川家康の負傷後の様子を聞いていた。
「家康は、杖を使って歩いておるそうだ」
山県昌景が報告した。
勝頼は頷いた。
「そうか」
「戦場へ戻るのは難しいかと」
勝頼は、しばらく黙っていた。
「……家康は、まだ終わらぬだろうな」
昌景が顔を上げた。
「そう思われますか」
「思う」
勝頼は静かに答えた。
「家康は、あの程度で諦める男ではない」
そして、笑った。
「むしろ、厄介になるかもしれぬ」
昌景は、少し考えた。
「なぜにございますか」
「戦場へ出られぬなら、城で考える時間が増える」
勝頼は地図を見た。
「家康は、これまで以上に策を巡らせるだろう」
昌景は頷いた。
勝頼は続けた。
「だが、それでも構わぬ」
その目は、鋭かった。
「次に戦う時は、脚ではなく、徳川そのものを折る」
◆
岐阜城。
宗一郎は、徳川家康が杖を使って歩き始めたという報告を受けていた。
半兵衛が隣に立つ。
「家康殿は、命を取り留めましたな」
「はい」
「しかし、以前のようには動けぬ」
宗一郎は頷いた。
徳川家康。
史実では、江戸幕府を開いた男。
その男が、この世界では長篠の戦いで左脚に障害を負った。
今後、徳川家がどう動くかは分からない。
だが、家康が簡単に諦める男ではないことだけは、宗一郎にも分かっていた。
「半兵衛殿」
「はい」
「家康殿は、これから変わるかもしれません」
「でしょうな」
「ただ、それが良い方向なのか、悪い方向なのか……」
半兵衛は、しばらく考えた。
「人は、失ったものを取り戻そうとします」
宗一郎は顔を上げた。
「はい」
「ですが、取り戻せぬものもある」
半兵衛は静かに続けた。
「その時、人は二つに分かれます。失ったものを受け入れる者と、失ったことを誰かのせいにする者です」
宗一郎は、しばらく黙っていた。
家康は、どちらになるのだろう。
その答えは、まだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
長篠の戦いは、武田家を滅ぼさなかった。
しかし、徳川家康という男を、大きく変えてしまった。
そして、その変化は、やがて織田信長と高槻宗一郎の前に、思いもよらぬ形で現れることになる。




